喧嘩は却って友愛の助手のみ 01





 途中一緒になった月上と校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えていると、視界の端っこで艶やかな黒が揺れた。
 先に靴を履き替えた月上の、おはよう、と言う声が、上履きの中に踵を収めようと屈み込んでいる俺の頭上で聞こえる。
 おはよう、と女子の声がそれに続いた。覚えのある声なので、うーっす、と顔をあげる前に俺も二人の挨拶に続く。
 顔を上げると予想通り、ハチ高内だけではなくその近辺でも美人と名高い天城だ。気軽に挨拶をかわす俺らを羨ましそうに見てくる通りすがりの男子の視線がいくつかある。
 何ヶ月か前までは俺もあいつらと同じ位置で天城を見ていた。そんな時期でも「越え」ようとしてみた辺り、俺はまだあいつらより勇気があり、あいつらより無謀で、あいつらより天城の事を知らなかったのだろう。

「おはよ、花村くん」

 こっちを見て笑う彼女を俺は、あまり深い気持ちもなく天城越えをしようとしたあの頃よりも、ずっと好きだ。友人として。

「月上くん、ちょっといい?」
「雪子、どうしたの」

 そうやって気安く名前を呼ぶ月上の事を、天城は好きなんだろうと思う。友人としてだけではなく。
 一際彼へ視線を向ける時間の長い天城の事を、当人であるこの男は、鈍いのか何なのか。今も信頼しきった目の天城に見つめられているのに、平然と涼しそうな顔をしている。

「あのね、放課後付き合ってくれないかな。新しいメニュー覚えたいんだけど、上手く行かないとこがあって」
「ごめん、今日は陽介と…」
「あーいいっていいって、こっちは」
「陽介?」

 どこまで鈍いんだこの男、と内心思いながら、こっちを見た二人に向かってふざけて片目を瞑ってみせる。

「行って来いよ。天城、用事あんだろ? 俺なんか気にしねーでいいからさ」

 そう言うと、月上の前髪の下から覗く目が眇められて、――あれ?


 いま、睨まれた気がする。


「…いや、今日は陽介と約束があるから」
「あ、そっか。じゃあまた今度ね」

 月上の言葉に天城はあっさりと頷いて、教室でね、と笑うと、細い足は踵を返して階段を上がって行った。俺はそれを、妙に落ち着かない気分で見送る。

「……月上?」

 今睨まなかった? とは何だか聞きづらくて声が止まる。そしてそのあと月上は「先に行く」と教室までの残り十数メートルたらずの距離を、振り返りもしないで先に行ってしまった。
 今いったい何があったのか、把握しきれないまま後に続く。
 先に教室に入った月上が開けた戸を後ろ手に閉める。おはよ、と月上に声をかけそうになった女子が、びくっとして止まったのが見えた。おう、と声をかけようとした男子が、「お」の口の形で止まった。
 お前、何してんだ!? と思う俺からは月上の背しか見えない。
 俺の席の前、自分の席にどっかりと乱暴な仕草で月上が座る。俺はその後ろの自分の席に鞄も下ろさず座る。
 なあ、お前、さっき睨まなかった?
 頭の中で問う言葉をシミュレート。お前さっき睨まなかった?
 …問う形にする必要もないんじゃないだろうか。問うのなら、お前さっき睨んだよな? と、確認を取るこっちの方が話が早そうだ。
 敵意を向けられるのにはうれしくない事に慣れていたけれど、こいつにあんな目で見られる事があるとはかけらも思っていなかった自分に驚いた。
 思いがけない出来事への不安感は、肌がぴりぴりと痛むような気さえする異様な緊張感になる。
 ごくりと喉が鳴った。

「あ――の、さ」
「なに」

 ゆらり、と肩越しに振り返る頭。応えがあったことに安堵したのはほんの一瞬だけだけ。
 目にかかりそうな長さの前髪の下から、じろりと見上げて来る。その睨む視線の強さに押されて後ずさりそうになるのを、どうにか食いしばった。

「……なん、でもない」
「そう」

 短くなんてことのない返答だが、その低く通るいつにない剣呑な声に、ざわ、と教室に小さなざわめきが広がる。
 どしたの転校生、ちょーびびった何あれ、と驚きを隠し切れずひっそり話す声を耳に入れながら俺は、すごすごと鞄から教科書を取り出す作業に入った。


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