Caro mio ben-1







 本部裏手の駐車場にタイヤが軋む勢いで止まった車から、転げ落ちるように急いで下りようとすると、本気で転げ落ちかけた。俺が開けるより前に、駆けよって来たベルナルドがドアを開けたからだ。

「っと、すまん、ジャン!」

 バランスを崩した俺を、ベルナルドは抱きかかえるように支え──ふわりと、最近冬の気温になって来たせいかベルガモットにちょっと木のような香りも混ざったコロンを、微かに感じる程度に淡く漂わせながら、地面に立たせてくれた。
 そして肩に手を回し、ぐいぐいと本部の中で引っ張って行く。早足のベルナルドについて行くためには、身長差のせいで自動的に小走りになった。ベルナルドは、急ぐ──と言うよりも、焦っているように見える。

「十分で着替えて表の入り口まで戻ってくれ、タキシードは入って一番近くの応接室に準備してある。そこで着替えて」
「──はあ!? 十分!!?」
「客人が少し早めに向かいたがってるんだ! ジャン、早く!」

 ベルナルドの急かす声に、小走りどころか、俺はガチで走り出した。ひどい渋滞に巻き込まれたことで時間がないのはわかっていたが、思ったよりも更に時間がなかった。待機していた部下が開けてくれた裏口の扉をくぐり、本部館内の廊下を走って、すぐ近くの応接室に飛び込む。
 大きく造った窓から差し込む夕陽で赤く染まる部屋の中を、タイを片手で解きながら見回すと、ソファの背にかけられたタキシードが目に入る。
 解いたタイをソファの上に放り出し、上着を脱ぎ散らかす。シャツのボタンを大慌てで外す俺に、部屋のドアを足で蹴り閉めたベルナルドは、新しいシャツを広げて、腕を通せばいいような形で向けてくれた。

「もうすぐ、アレッサンドロ親父との話が終わったお客人を、表の車までルキーノがお連れする。出来るだけゆっくり向かうようにはしているが……待たせるより車の前でお前が出迎えた方がいい。その後は、お前と一緒に役員会のパーティーへ」
「わかった」

 頷きながら、皺ひとつないぴしっとしたシャツに袖を突っ込む。むしりとるようにベルトを外してトラウザーズを革靴も巻き込んでこれまた脱ぎ散らかす。絶妙なタイミングでベルナルドから渡された側章パンツに足を突っ込み、サスペンダーでウエストを留めて……クソ、適当に着崩せてたチンピラの頃が、今はやたらと懐かしい。

「慌しくなってしまってすまない。本部に戻るまでに、渋滞がなければコーヒーくらい飲めたんだがね……ポットに入れたものを持たせようか」
「あんたのせいじゃねえって、渋滞は。それに今から湯沸かして美味いコーヒーをポットに詰めて、大急ぎで車まで持って来いっつーのも酷だろ。いいよ、帰って来たら酔い覚ましに飲ませて貰う。ああ、くそ、ボタンが上手く嵌められねえ……!」

 焦って上手く動かない指で、袖口の小さな貝ボタンと格闘する俺の背を、ベルナルドの手がとんとんと叩く。慌てて強張っていた背の筋肉から、ふ、と魔法のように力が抜けた。
 魔法使い──のように見える機械好きの男は、大丈夫だ、と囁いて俺の焦りを落ち着かせる。

「焦るからだよ。焦らなくていい、だが素早く頼むよ、ジャン」
「すげー無茶振りあんがと、ちょっと落ち着いたわ」

 深く息を吸って、吐く。もう一度吸って、吐く。袖口の貝ボタンをつまんだ。ボタンホールに通す。きちんと嵌まる。大丈夫だ。ベルナルドの顔を見て、無言で頷くと、ベルナルドも俺の顔を見て、目を細めて微笑む。微笑むこいつの顔も俺を落ち着かせた。大丈夫だ。
 ──そうして落ち着いて余裕の出来た俺の脳は、ふと、重要なことを思い出した。

「明日ってもしかしなくても二十五日か!?」
「ん? ああ、そうだね。今日が二十四日だから……月末の締め日でもないし、期限の書類なんかは何もなかったと思うけど」
「や、仕事じゃなくってさ……うっわー、忘れてた。やべえ、今日の帰りは零時過ぎちまうよなあ……」

 参った。今日までに買って準備しておこうと思ってたのに。sbagliato、と唸りながら、走って乱れた髪を後ろに撫で付けて整える。ぴしっと、隙のないように……あー、マズイ。

「ベルナルド、スマン、頼みがあるんだけど」
「ボスの頼みも、ハニーの頼みも、なんなりと」

 こういう時にまで甘い響きの囁きを混ぜて来るか、こいつは。そう言うことが出来るくらい、俺の支度は順調に済んでいるんだろう。革靴だってきちんと並んで俺が履くのを待っているし、髪を整えてしまえば、ジャケットを羽織り、タイをつければ支度は終わりだ。こっちは間に合いそうだ。だが、すっかり忘れていた別のことは間に合いそうにない。俺だけの力じゃ。

「あんがと、ダーリン。あのさ、買い物して来てくんね?」
「買い物? 何が欲しいんだい」
「すっげー上等なドレスを着るようなレディが使ってそーなリボンを、そうだな、一メートル。色は、えっと、そうだ、グリーン」
「……リボン?」
「よっし、支度しゅーりょー! タイは歩きながら結ぶ、時間は!?」
「あ、ああ──大丈夫だ、このまま表へ!」

 眉間に皺を寄せ、なにやら難しい、何かまずいもんでも食ったようなツラに一瞬なったベルナルドだが、すぐに筆頭幹部の顔になり、俺に先だって部屋を出た。






Caro mio ben-2

2010.11.24