君とどこまでも






「卒業旅行をしよう」
「は?」
 巻島は東堂の言った言葉に、思い切り訝しげな声を返した。
 手元にあるハンバーガーを口に運ぶ最中だったが、止まってしまった。東堂の方は大きくかぶりついたハンバーガーを悠々と咀嚼している。巻島はハンバーガーを食べるべきかツッコミを入れるべきか考えて、ひとまず手を下ろした。
「オイ、受験生がなに言ってるっショ。金もねぇぞ」
「ワッハッハ、週末二日つぶした程度で落ちる勉強の仕方をしているわけではないだろ?」
「そりゃァ……」
 どうだと言わんばかりの得意げな表情に、反論したい気持ちは高まった。しかし否定する言葉も浮かばずにいると、東堂はハンバーガーを食べていた手を巻島と同じように下ろし、テーブルの向こう側から身を乗り出してくる。
 何事かと巻島が片眉を小さく動かすと、東堂は得意げな表情でビッと巻島を指差した。
「箱根までの交通費と、あとはカプセルホテルくらいの金出せば、温泉つき食事つきの宿に泊まれるんだが、どうだ?」
「何ショ、その眉唾な上手い話」
 条件のよさに眉をひそめる巻島に、東堂はニヤっと笑った。ポテトを一本取り、今度は指の代わりにそれで巻島を指すと、それがなと話し出す。
「そちらのオーナーが箱学のOBかつ自転車競技部のファンで、うちの部と何かと懇意でな。同行者一名まで、紅葉のシーズン前なら格安にしてくれるそうだ」
「シーズン前っていつ」
「来週か、再来週くらいまでだな!」
「急すぎっショ!」
 突きつけられたポテトに噛み付いて奪う。巻島は眉間に皺を刻んだ表情だったのに、東堂は気にした様子もなく楽しそうにからりと笑った。
「安いのには多少理由があるのだよ、巻ちゃん! 多分、思ったより予約で埋まっていないのだろうな。で、どうだい。空いてないか?」
 そう問われたときには、巻島の頭の中にすでにスケジュールが浮かんでいた。
 次の土日は用事が入っていない。引退して、土曜に行われていた部の練習もなくなった。そのせいでエネルギーを持て余した巻島は、今日、東堂と走りに出たのだ。
 ただ、自転車で走るツーリング目的だけではない。
 ロードに乗って走っている間はお互いに忘れていたところもあるが、こうして走った後、ファストフード店で向かい合って食事をしているときには思い出す。これは、いわゆるひとつのデートだった。
 巻島祐介は東堂尽八と付き合っている。
 インターハイが終わってしばらくしてから、東堂に告白されて付き合い始めた。今では人目をはばかりながらも指を繋ぎ、唇を触れ合わせる関係だ。メールや電話が頻繁なのは付き合いだす前と同じだが、「会いたい」「共に過ごしたい」と言う感情が会う約束の理由として増えた。
「……来週と再来週どっちにするんショ」
「来週も会えるのか、巻ちゃん!」
「声でけぇっショ! ……来週、次の土曜な。小田原駅?」
「ああ、迎えにいく!」
「だから声でけぇっショ……」
 ちょっと黙れと巻島が自分の飲んでいたドリンクのストローを東堂の口に突っ込む。
 ム、とまだ何か言いたげな尖らせた唇でストローに吸い付く東堂は、大人しくオレンジジュースを吸いながらも目のふちが少し赤い。
 ストローから口が離れたら途端に間接キスだなと騒がれそうで、巻島はつられたように耳を赤くしながら、東堂に手ずからドリンクを飲ませている体勢をしばらく続けていた。





「うるせーよバカ!」
 東堂から「次の土曜、巻ちゃんと例の宿に泊まってくる!」と報告されるなり、荒北は即座に怒鳴った。
 荒北の部屋に東堂が突入して来たので、怒鳴るのと同時に、ベッドにあった枕まで投げつけた。柔らかいが中身のみっしり詰まった枕を正面から顔に受け、予想しない衝撃に東堂がよろける。
「いきなり何だ、荒北!」
 顔にぶつかって落ちた枕を拾い上げ、荒北のベッドの上に投げ返しながら東堂が喚く。
 荒北は投げ返された枕を再度引っつかむと、振りかぶり、また東堂に向かって投げつけた。東堂は、今度はかろうじて両腕で受け止める。
 ちょうど荒北の部屋にいた三年の元レギュラー、福富と新開は、部屋の奥でローテーブルの上に参考書を開きながら、荒北と東堂のやり取りを微笑ましげに見ていた。自分に加勢してくれそうにもない二人の様子をちらっと振り返った荒北は、軽い舌打ちのあとで開けっぱなしの自室のドアを閉めに向かう。
 わざわざ施錠までしてから、部屋の中に入ってきた東堂に向き直る。
 荒北は元々普通にしていても不機嫌に見えがちな男だが、この時は眉間には深く皺が刻まれて、「見えがち」と言うレベルではなくあきらかに不機嫌だった。
「ただ巻ちゃんと温泉宿に行くって言っただけだろう!」
 ただそれだけの報告に対して、あまりの対応だと東堂が抗議すると、間髪いれず荒北が跳ねつける。
「オメーらの床事情なんか知りたくねーんだよ、黙って行け、バカ!」
 これ以上ひとつも話を聞く気はないと言う態度の荒北の言葉に、東堂は枕を両手で抱きしめる格好になりながら目を瞬かせた。荒北の言葉を反芻し、怪訝そうに首を捻る。
「荒北、オレはそんな話はしてないぞ」
「一緒に泊まるってだけでそーゆーことだろォ」
「えっ」
「えっ?」
 思い当たりませんでしたと言わんばかりの東堂の素っ頓狂な声に、傍観していた新開がポテトチップスを食べる手を止めて、同じように素っ頓狂な声を重ねた。東堂と二人してぽかんと口を開いている。
 前後から同じリアクションを請けて、荒北はウワァ、と呟き、うんざり顔で短い髪を指で掻いた。
 この場にいる三年の元レギュラーメンバーは、東堂が巻島と付き合っていることを知っている。
 巻島のことが好きだと東堂が悩んでいるときに、様子がおかしいことに気づいて、それから三人ともそれぞれ温度の差はあるが東堂と巻島のことを見守って来た。
 それなりに見守って来たが、初めて一線を越える予定日まで報告されるとは思っていなかった──これが荒北の意見だが、東堂の報告の意図は、どうやらまったく違ったようだ。そして新開も東堂と同じ思考のようだった。
 残る福富はと言うと平然と変わりない表情のまま新開のポテトチップスを摘んでいて、新開寄りか荒北寄りの意見かわからない。この鉄火面、と荒北は拗ねたようになってしまった声音でぼやく。
 周囲の反応に、荒北がもしかしてオレが考えすぎだったのかと思い始めた頃、東堂は自分の口元を片手で覆い、うう、と小さく呻いた。
「……あ、ああ、そう、か……そうかもしれんな……」
 視線を俯かせた東堂の頬は赤い。
 オイ、オマエ今なに想像してる──とツッコミを入れかけて、荒北は速攻止めた。
 東堂と巻島の床事情など想像したくない。友人と知り合いの生々しい想像など下世話すぎる。
「そうか。付き合ってる子とお泊りイコールでエッチに結びつかなかったのか。意外と純情なんだな、尽八」
 自分も考え付かなかったようなリアクションをしておいて、新開は東堂をバキュンと銃の格好にした手を指しながら笑う。荒北の眉間の皺がますます深くなった。
「うっせ、言葉にすンな!」
「すまねえ、つい」
 まったく悪びれた様子のない謝罪に荒北は溜息を吐く。正直、自分が藪をつついて蛇を出してしまった状況であることに気づき始めていた。
「それでェ?」
 顔の赤い東堂の意識を「ソッチ」から逸らそうと、荒北は声のトーンを落とし、わざと冷静な声を出す。話を促す言葉に、東堂がハッと荒北の顔を見る。
 座れよ、と東堂の背中をバンと叩き、福富と新開のいるローテーブルに戻る。皆それなりに上背のある男子高校生が四人、ひとところに集まると、さすがに狭い。
「東堂、オマエなんでオレらに報告してんのォ?」
「嬉しくてたまらなかったからだな!」
「オマエもう出てけ!」
 あっと言う間に冷静でない声になった荒北の背を、まあまあ、と新開がいつもの笑顔で軽く叩く。荒北は、福富が食べるかと勧めてくれたポテトチップスをばりばりと噛み砕いた。
「巻島、こっちに来るなら会うかもしれねェな」
 新開がテーブルに肘をつき、東堂の方へ身を乗り出しながら言う。
「このへん走るんだろ? それか、宿で会えるかもな」
「いや、今回は自転車なしで箱根を案内し……、……宿?」
「シーズン前の期間限定──条件は皆おなじだぜ、尽八」
 バキュン、といつものポーズで指差され、え、と東堂は声を洩らす。もしかして、と呟く東堂のうろたえた顔を見て、荒北がニヤッと人の悪い顔で笑った。
「そうそう、新開の言う通り。行く時期がかぶるに決まってるだろォ?」
「荒北……お前ら、まさか」
「安心しろよ、尽八。わざとお前らの部屋に突入したりしねェからな」
「どう考えてもからかう気の顔にしか見えんぞ、隼人!」
 東堂は思わず立ち上がって慌てている。それをにやついた顔で見上げている新開と荒北を止めたのは福富だった。
「新開。荒北も、ほどほどにしろ」
「へいへい」
「寿一、冗談だよ」
 いさめる言葉に、元からそうしつこくからかうつもりでもなかった荒北と新開は、あっさりと止めた。ついていけていないのは東堂で、え? と何事かわからない顔で三人の顔を見比べている。
「──すまねぇ、尽八。オレたちは再来週に泉田と真波も入れた五人で、もう宿をお願いしてある」
 バラしたのは新開で、え? とまだ事情がわかっていない東堂に、福富が後の説明を引き取った。
「日程の連絡が来たとき、オレたちが先に予約を入れてから、お前に空きのある日を話した。お前は巻島を誘うと言っていたからな。無事に巻島が誘いを受けてくれてよかった、一足先にゆっくり休んで来い」
「なんだ、そういうことか……」
 だから日程は他のメンバーと決してかぶらないのだと知った東堂は、ビッとキレのある動作で荒北を指差す。
「ひどいぞ荒北!」
「オイ、なんでオレだけなんだよ、新開にも言えよ!」
「オレはもう詫びてるぜ」
 しれっとそう言う新開は東堂に向かってまだ未開封のポテトチップスの袋を差し出していて、東堂の方も、うむ、と真顔で頷く。そのポテトチップスの袋を東堂が受け取る前に、荒北は横からはたき落とした。
「……靖友、そういえば体育のバスケんときボール奪うの上手かったよな」
「ム、たしかに。オレは荒北に三回も奪われて散々だったぞ。女子も見ていたと言うのに!」
「オレは荒北と同じチームだったから、そこからパスを四回貰った。だが、荒北。お前がシュートしても良いタイミングもあっただろう」
「やだヨ、めんどうだっつーの。次も福ちゃん頑張ってくれよ」
 話は東堂と巻島の旅行からどんどん逸れていく。東堂のものになったポテトチップスの袋も開かれ、男子高校生四人の胃袋へと消え、広げた参考書の問題は埋まらないままに二十分ほど寛いだ後、話題の切れ間に、新開がふと言った。
「まあ、良かったな、尽八」
「なにがだ?」
「巻島と仲良くて」
 新開の言葉はストレートだった。友人への祝福だと、わかりやすい言葉だった。
「ああ、良かった」
 それに返す東堂の言葉もストレートで、わかりやすい。心から言っているとわかる真剣な声に、荒北は居心地の悪さを感じる。嫌悪などではない。あまりにストレートな応酬が照れくさいのだ。まるで青春ではないか。
 空気を逸らそうと、荒北は開いたまましばらく見向きもされていなかった参考書を手に取った。シャーペンを指の上でくるりと回し、続きをやるぞと周囲にアピールする。その仕草を見た福富と新開も、それぞれ自分の参考書を手に取った。
「なあ」
 だが、その場で勉強をしていなかった東堂だけは参考書もノートも筆記用具もなく、空気を逸らされることがなかった。いつの間にか正座をして、真面目な目で、他の三人をぐるりと見回す。
「幸せで幸せで、胸の奥が痛いんだが、これは何だろうな」
 あまりに真剣な顔で言われて荒北は言葉に詰まる。それは、ふざけているのでも惚気でもないように思えた。真っ直ぐに強く誰かを想う姿を目の当たりにして、荒北は正直なところ動揺した。いまここで愛を誓えと言われたら真剣な顔で誓いそうなほど真っ直ぐに、迷いなく誰かを想っている姿だった──真っ直ぐ過ぎて時々こちらが驚かされる。
「そりゃ色ボケだ、バァカ! もうオレ、ツッコミ疲れたんだけどォ」
 苦々しい声で福富に訴えた荒北は、福富と新開に左右から頭を撫でられる。
「……オレを慰めるよりアイツの色ボケどうにかしてくれ」
 二人分の手を払いのけた荒北は、背後にあったベッドに向かって上半身を倒れ込ませた。荒北を撫でていた二人はまた勉強を忘れて、東堂の惚気話を聞く体勢になったようだ。話す声から故意に意識を逸らして聞こえないふりをする。
 ──まあ悩んでつらそうな顔をしているよりはマシだけどよ、と内心だけで呟き、すぐに目を閉じて、忘れた。


-
----------------


 出して貰った夕食はおそらく特別にタンパク質の多いメニューを増やしてくれた、自転車乗りに向いた豪華なものだったし、とても美味しかったのだが、二人の会話は少なかった。
 お布団を敷きましょうかとの仲居の問いかけを断り、食器を片付けて貰って、入り口に鍵をかけてしまえば、もう誰の訪問もない個室の出来上がりだ。その個室で二人は、ついさっきまで食器の並んでいたテーブルで、向かい合う形に敷いた座布団に座ったまま、食後の茶をすすっていた。
 二人きりになった途端に、いざ、と言うのも性急すぎる気がして、巻島は茶にのろのろと口をつけている。東堂も同じようで、そわそわしているが、視線は合わない。
 こういうタイミングって皆どうやってるんショ、と巻島が頭を抱えたくなった頃、東堂が、巻ちゃん、と名を呼んだ。
「巻ちゃん、その、夕飯美味かったな」
「ショ」
「ふ、布団敷くか」
「あァ、……何どもってるんショ」
 ふ、と思わず口元を緩めた巻島に、東堂がホッと息を吐く。あからさまな緊張感が少し緩み、二人して腰を上げる。
 押入れに入っていたふかふかとした布団を、とりあえず一枚広げてみると、しみ一つない真っ白いシーツが気になった。
「……汚すわけにはいかねぇショ。東堂ちょっと待ってろ」
 声をかけて巻島は荷物を漁りに行く。旅行に良く持っていく、薄手ながら大判のバスタオルを鞄から出すと、布団の脇へ膝をついてしゃがみ込みながら上へ敷いた。
「これで……」
「巻ちゃん」
 これでいい、と言い終わる前に、背後からずしりと重みがかかる。重みは確認するまでもない、東堂だ。
 畳についた膝が重さに崩れて、布団の上へ、二人でもつれながら倒れこむ。半身よじって上を向いた巻島を組み敷いた東堂は、ぎゅっと眉を寄せていて、耐えているような表情をしていた。
 はあっと近い距離で吐き出される息が熱く、巻島の肌にまで熱を移す。
「東堂」
 名を呼んで、すべらかな東堂の頬を撫でてしまえば、一気に欲望が思考の表面へ浮き上がってきた。
 東堂の肌の感触を思う存分撫で回すことを、巻島は許されているし、東堂も巻島に対して同じだ。二人してぶつかるように顔を寄せあって、なけなしの理性で額をこつんと触れ合わせた。それから、唇を重ねる。
 チュ、と音を立てて唇の表面を吸われ、巻島の中へもっと内側へ触れたい欲求が湧き上がる。巻島は唇を開いて舌先を見せると、頬から耳を辿り撫でた。
 首の裏側へ手のひらで撫でて、着ていた浴衣を崩そうと襟元を肩へ向けて引っ張る、
「ン、巻、ちゃ……」