人の×××を笑うな






 今日の夕飯はカツカレーだった。
 巻島の、ではない。巻島の耳に聞こえてくる声の主、肩と耳に挟んだ携帯電話の通話相手である男の夕飯だ。
「それとサラダだったんだが、カボチャのサラダがどうにも甘くてな……」
 巻島は、ベッドの上で足のマッサージをしながら、東堂の自転車とは関係ない話を聞いている。複雑そうに言う声は、どう聞いても好物の話ではなかった。
「メインが辛いモンだったから甘いのにしたんショ」
 そうか、東堂は甘いサラダが苦手か。巻島は東堂の味覚を記憶しながら応じる。
「カボチャ、いいじゃねぇか。ビタミン摂れよ、栄養価高ぇぞ」
「巻ちゃん、お袋みたいだな!」
「おまえほどじゃねぇショ」
 レースの前になると風邪ひいてないかメシは食ったかとやかましい東堂を思い出して言うと、ワッハッハ、と上機嫌な笑い声が返って来た。
「巻ちゃん、エアコンつけて寝るなよ」
「だからおめぇはお袋か! 髪も乾いてるショ」
「ワッハッハ、さすがだ、わかってるな! じゃあな、巻ちゃん。おやすみ。あ、それとな、巻ちゃん!」
「ン?」
「……おやすみ」
「さっきと同じじゃねぇかヨ」
 クハと思わず笑ってしまったのは、繰り返される言葉に、胸の奥がなんだかくすぐったかったせいだ。笑ってしまったせいで、おやすみ、と巻島の発した声はやけに優しくなった。
「早く寝ろよォ、もう零時とっくに回ってんショ」
「ム、そうだな! 巻ちゃんも早く寝ろよ」
 ハイハイ、と返事をして通話を切る。
 携帯のボタンを押す指は少しも躊躇わない。スライド式の形をしたそれを元に戻し、枕元に放って手放す。
 もう少し東堂の声を聞いているのも悪くないと、そう思ってしまいがちな自身を自覚してから、巻島は、通話を切るときいつも躊躇わないようにしていた。
 何かにじわじわと侵食されている気がして、巻島は、つい眉間に皺を寄せる。
 嫌悪ではない。これは、不安だ。

 巻島が東堂と付き合ってから半月が過ぎた。
 オレと付き合ってほしいと東堂から言われ、巻島が応じた形になった時から、二週間が経つ。未だ顔を合わせていない。
 二人の間には千葉と神奈川の距離が隔たる。そう毎週毎週、顔を見られる距離でもない。メールや電話はしているが、メールは今までだって東堂から頻繁に来ていたし、巻島も短い文面だが律儀に返事を返している。メールを打つ回数が増えたので、文字を打つのもずいぶんと速くなった。通話も慣れるほど繰り返して来た。
 二年の頃に、東堂と電話番号とメールアドレスを交換してからのことだ。
 金城や田所とは結局毎日会うのでメールする機会は一年の頃から少なく、部活や家との連絡のための通話用くらいの扱いしかされていなかった巻島の携帯電話は、今、東堂相手の使用率が飛びぬけて多い。
「メールして電話して、練習で顔合わせて。オレらよくやってんなァ、東堂」
 思い返してみた出来事に、巻島は独り言を洩らす。
 そんな具合のことを出会ってから今まで、ずっとやっていたので、特に恋人らしい変化は二人の間に起こっていない。
 恋人らしいことと言えば、先ほどの電話のとき、最後におやすみと言った東堂の声がやけに優しかったことだろうか。
 ──それとな、巻ちゃん。おやすみ。
 東堂が繰り返した言葉。それが名残惜しさであると、巻島は知っていた。自分も同じだからだ。
「……早く寝ねぇと」
 指で前髪をかき回しても、名残惜しさは振り払えない。
 ベッドに入った巻島は、耳に残る東堂の声にぎゅっと目を瞑り、毛布をかぶる。もう遅い時間なので眠気はすぐに来たが、夢の中まで東堂の声が追ってきそうで、巻島は眠りに落ちそうになってはハッと目を覚めると言うことを何度も繰り返した。






 そんな日の翌朝は、当たり前だが眠い。
 しかも小雨がぱらつくような薄暗い天気が朝から続いており、余計に眠い。
 巻島は欠伸を繰り返しながら、購買で目についたパンをいくつか買った。混雑した昼時の購買に行くのは面倒くさかったが、眠かろうが腹は減る。腹は減るが眠いので、空腹すら面倒くさい。
 そういう日は、黙っていても、仏頂面をしていても気にしない間柄の連中と過ごしたくなる。巻島にとって、学友の中では金城と田所、場所で言えば自転車競技部の部室がそれだ。
 部室に行けば椅子で昼寝も出来るだろうと思い、パンとパック牛乳を携えて部室に顔を出すと、田所と小野田が昼飯の最中だった。
「おう、巻島」
「あっ巻島さん、こんにちは!」
 田所は弁当の白米をかっ込み、小野田がそれより控えめながらも平均よりは大きめの弁当箱を持って、二人で長机の上に自転車雑誌を置いて見ているらしい。
「よ」
 短く挨拶を返し、巻島は二人と同じように長机の脇にあるパイプ椅子に腰掛けた。
 それ今月号? と机に肘をついて、机の上の雑誌を覗き込むと、田所が雑誌を巻島の方に押しやる。開いていたページは、今後のレース情報だった。
 来年の春の予定が載っている部分を、田所の短く切りそろえられた爪がトントンと叩く。
「いま小野田が出れそうなレース見てたんだけどよ、この春のヒルクライムレース、おまえ、前回出ただろ?」