ハートの問題






 高尾のシャツのボタンを外すとき、いつも思う。
 これを思うさまに引きちぎってやりたい。

「お前、あまりシャツを着るな」
 緑間が高尾と二人で住む部屋にある風呂はユニットバスで、けして広くはない。バスタブについては、高尾が膝を少し伸ばせる程度に大きめのバスタブがある部屋を選んだのだが、所詮ユニットバスだ。洗面台とトイレがあるスペースへ男二人が並ぶとさすがに狭い。そして二人並んでしているのは歯磨きだとか身支度だとかではなく、服の脱がし合いだ。
 今日着ていたのはお互いに色も柄のあるなしも違うものの、同じシャツの形をしていて、脱がし方は一緒だった。ボタンを外す。ただ腕がぶつかり合うので、緑間は上から、高尾は下からボタンを外している。
 高尾は自分で脱ぐときよりもずいぶん丁寧な手つきでボタンホールからボタンをくぐらせ、外していた手を一度止めて、唐突な緑間の言葉に顔を上げた。きょとんとしている。
「は? なんだよ、脱がしにくい?」
「違うのだよ。野生を思い出しそうになる」
「おいおい、思い出すような野生児の時期なんかなさそーな顔して何言ってんの真ちゃん」
 けらりと笑ってから、オレンジがかった双眸は細められる。く、と喉奥で微かな笑い声を鳴らす高尾の様子に、緑間は咄嗟に身構えた。
「……獣になられんのは、いいな」
 トーンの低くなった声が紡ぐ、早く脱がしてくれよとわざと煽る言葉に舌打ちをする。身構えた意味もなくあっさりと煽られた緑間の手は、さっきよりも乱暴に、だが、ボタンをちぎらないよう注意する躊躇いも備えつつ高尾のシャツを脱がせた。
「高尾、卒業して勤めだしたら初任給でシャツを買え」
「ん、なんで、いいけど」
 袖から腕を抜かせて、シャツを壁のタオルハンガーへ引っ掛ける。晒された高尾の胸筋を下から撫で上げる途中、乳首を親指へ引っ掛けるようにして弾いてやると、ぴくっと小さく身を揺らした。
「初任給で買ったシャツのボタンを引きちぎってやる」
「ぶっは、そんなことしたかったって!? ひでー初任給の使い道だな、バイト代じゃだめなわけ」
「そーゆうひどいことは大人になってからにするのだよ」
 喋りながら、今度はゆったりと手のひらで胸を撫で回す。平らな、筋肉の固さしかない場所を撫でる。さっき弾いた乳首を手のひらの付け根で擦ると、高尾はもどかしげに小さく身を捩って逃れながら、緑間のシャツのボタンを外しきった。後は自分で脱ぎ、高尾のシャツと一緒にタオルハンガーへ引っ掛ける。
 何ともなかったその箇所は、いつから高尾の性感帯の一つになったのか、緑間は覚えていないが、高尾自身も覚えていないだろう。緑間が熱心に弄るうちに、それに応えるようにして反応が強くなった気がする。そんな場所へ触れたときの高尾の反応を見ていて、むずむずと湧く衝動は抑えられないし、抑える気もない。
「初任給は、とーちゃんとかーちゃんと妹ちゃんに何か買って、ケーキ買って、それからお前にはシャツ着たオレをやるよ。で、いい?」
 ジーンズを脱ぐときにはもう焦れていて、二人して足元に脱ぎ落とすだけで畳むことも掛けることもしない。緑間は高尾の「いい?」と問いかけてきた話題にも、見下ろす高尾の腰がボクサーパンツを押し上げるラインで勃起していることにも、小さく目を細めた。
「いい」
「満足そーな目ェすんなっての……ひでー」
 笑いながら高尾が身を寄せてくる。自分の背側に回した手でボクサーパンツを引き下ろしながら、反対の手では緑間の下着のフロント部分を擦り出す。指先で布地越しに探った先端部分をかりかりと爪先で引っかかれて、濡れる、と不服を言った緑間は自ら下着を脱ぎ落とす。
「それがいーんじゃん」
「変態」
「お前に言われたかねーよ! うわ、ちょっと、うわ」
 緑間の足元に落ちたグレーのボクサーパンツを残念そうに見送る高尾の隙をついて、左手で裸の尻を掴み、引き寄せる。少し屈む体勢でなければ掴みづらいそこを手のひらにおさめて、ぐにぐにと押し揉んだ。びくんっと高尾の背が真っ直ぐに強張って、両手が緑間の腕に掴まる。
「ッ、んん、ケツばっか揉むなって、あ、それ、なんか……奥、響く、ヘンな感じ、やべえ、こえー……」
 怖いと言いながらも、薄い肉を中心に向かって揉み込む緑間の愛撫に零す吐息はリラックスしているし、逃れる気配もない。
「中、触るぞ。高尾」
 屈みこむようにして耳のふちに唇を触れさせ、囁くと、首に高尾の腕が片方回される。頭を抱え込み、耳に唇を触れさせ返して来た高尾は、緑間の性器のかたちを根元から先まで、つうっと指先でなぞりながら、
「……こっちで?」
 と、からかい、緑間の宣言を許した。目を細めてニヤついた高尾の顔を、渋い顔で見下ろす。まんまと煽られた緑間は、バカめ、と喉で唸って、棚に置いてあるローションのボトルを手に取った。
 二人で風呂に入ろうと高尾が誘ってきたとき、すでに雰囲気はあからさまだった。セックスしたいと高尾が言ってくるときもあったが、今日は直接でなくほんの少し遠まわしだ。
 理由は多分、時間があったからだ。今日は丸一日、お互いバイトもないオフ日である。
 そんな日に、狭い風呂へ一緒に入ろうなどと誘ってくるのだから言葉にせずともあからさまだ。あからさまなので、緑間もセックスするのかと露骨な確認はしないまま、風呂場へローションを持ち込んだ。高尾は、緑間がシャンプーと並べて置いたそのボトルを見てちょっと噴き出した。
 ゴムを持ち込まなかったことには何もリアクションがなかったから、同意だと思っている。
「っふ、ぅ、ん……ン、んっ、ぁ、あ、真ちゃん……」
 甘い声がひそやかに風呂場に響く。
 ユニットバスの中、緑間と向かい合った高尾は足を開いて立ってはいるものの、力の入る体勢での肉の狭間は狭い。ローションを何度も塗りこみ、浅い位置から少しずつ入り込ませた緑間の指は、中指を根元まで高尾の粘膜に包まれて、狭いそこをぐにぐにと押し広げている。
 飽きずにキスを繰り返す口は、セックスの真似事のように伸ばされ、差し入れ、絡み合った。風呂場なので、飲み込みきれない唾液が顎へ零れても気にしない。一度後孔に入れた指を抜いて、二本揃えて差し入れると、増えた圧迫感に高尾は小さく仰け反る。緑間は仰のいて開いた唇へ唇を重ねて、脈打つように締め付ける粘膜を指腹で掻いた。
「は、あっ……ン、は、足りねえ、って……」
 三本入れても平気だとせがむ高尾が、下唇に吸い付いて来る。唇で挟まれながら甘噛みのような真似をされると背筋がぞくぞくと震えそうになって、緑間の性器は重く持ち上がった。勃起したものを寄り添う高尾の腹に擦られ、ひっそりと荒らぐ息遣いのままで頬をべろりと嘗め上げると、驚いたように高尾は両目をぎゅっと瞑る。
「うわ、なんか、食われ、そ……」
「バカめ、オレが食う気ならお前はとっくにオレの腹の中だ」
 有り得んことなのだよと真面目に返すと、そーゆうこっちゃねーよ、と、心外なことに笑われた。高尾の中に差し込んだ指は、笑って腹に力が入ったことで締め付けがきつくなる。息をつめた高尾が身を擦り寄せるように揺らして、すでに勃ち上がった性器を緑間に擦りつけながら、緑間のものに手を伸ばしかけ──止まった。
「真ちゃん。あのさ、ちょっと……自分のもやってみてくんね?」
 お伺いをたてながら見上げられて、は? と最中にしては色気もなくムードもなく平坦な声が緑間の口から零れた。
「何の頼み事なのだよ、それは」
「お願いごとなのだよ。オレだけ先に気持ちよくなってんの、恥ずい」
「む」
 な? と首をかしげつつ説得され、願われてしまうと、拒否する気持ちが和らぐ。絆された緑間の右手が、興奮に血を巡らせる自身のペニスを緩く掴んで根元から扱き出すと、高尾は両手を緑間の胸の上において、視線を互いの下肢へ下ろした。
「なあ、右手ってやりづらい?」
「……バカが、見るな」
「いや、そりゃ見るって。オレでオナってる真ちゃんとか、すげー、かーわいー……」
 そう興奮した声で言って、はあっと熱っぽい溜息まで零すものだから、悪趣味だと呆れ半分、興奮するのであればしてやりたいと思う衝動半分だ。このまま扱き続けるか迷った緑間の右手を、高尾が手首を掴んで持ち上げた。
「──高尾?」
「ンむ、……ふ」
 先走りのついた指だと言うのに、高尾は躊躇いもなく咥える。あたかかくぬめった咥内で、唾液を絡めてしゃぶられて、窄めた唇に指の側面を包まれながら、舌先で外に押し出される動きはまるでピストンの模倣だ。ぎり、と思わず奥歯を噛んだ緑間も興奮を煽られているが、高尾の中に差し込んだ指もきゅうきゅうと締め付けられて、内側からも快感を得ていることを、そして指を嘗めているだけで興奮していることをまざまざと緑間に伝えていた。
「……オレは、このまんま真ちゃんのオカズにされんのも悪くねーって思ってっけど……?」
 捩って力の入れやすい場所で落ち着いた腰は、わざと緑間の指を締め上げる。まるで性器を包まれているかのようにぐっと息を呑むと、調子に乗った顔は、うっとりと半眼で緑間の反応を待っていた。
「……高尾」
「なーんだよ?」
「随分と余裕があるのだよ」
「へ? っ、うわ、ばかっ」
 一気に指を抜いて、高尾の腰を掬うように抱く。抱き上げる勢いで引き寄せられて足元が危うくなった高尾は、滑るのではと慌てたが、その体はたやすく緑間の腕の中で反転して落ち着いた。緑間の手がしっかり支えているので、危惧した転倒も起こらない。
 緑間は驚きに強張っている高尾の肩にキスを落として、腰を抱き直した。
 身長に差があるから、立ったままでは挿入しづらい。高尾の背中に勃起した性器をぬるりと擦りつけると、じわりと浮いている高尾の汗と緑間のカウパーが混ざって肌を一筋なにかが張ったような痕跡を残す。
 高尾は挿入の位置が合わないことに笑って、くっそ、と悪態をつく。
「真ちゃん、おま、足なげー……むかつく……」
「お前、ちょっと伸ばせ」
 告げられた言葉に返すと、うるせーよと更に返されたが、高尾は爪先立って背伸びのように身を伸ばす。緑間はそれを手伝うように、掴んだ腰を持ち上げる。高尾の無防備な背中が眼下でくねり、はっきりと浮き上がる肩甲骨が身じろぎに合わせて動く姿に、緑間はゴクリと喉を鳴らした。





<中略>





「──止めろ、高尾」
 寄せられた顔を、首根っこを掴んで距離を取らせる。
 猫のような扱いに眉を顰めた高尾は、んだよ、と不機嫌な、拗ねた声で胡坐をかいて座り直した。ハーフパンツから覗く膝がつまらなさそうに揺れている。
 二人の距離は一メートルほどで、遠くはないが、まったく近くもない。それがまるっきり二人きりの状態になっている自室における、緑間の、最適と考える距離だった。
 緑間の家には今、誰もいない。それは故意ではなく偶然だった。休日の、いつもより幾分早く終わった練習後、緑間が高尾を伴って自宅へ帰ると、誕生日の近い妹が、二駅先のデパートへプレゼントを買いに母親と出掛けていることを書置きのメモで知った。夕飯を食べてくると書かれている。父親は旧友たちとゴルフに出掛けていて、そちらも外で夕飯を食べてくると聞いていた。
 しまった、と思った。
 二人きりだ。それが嫌なのではない。自分が理性的な行動を取れるか、人事を尽くせるか、多少の不安があるため、家に高尾と二人きりになることは避けたいと緑間は思っていた。しかし先週の小テスト後、高尾の心もとない箇所を教えてやるから、今度の土曜日はうちへ寄れ、と家での勉強会を提案したのは緑間で、呼んでおいてやはり帰れなどと言う非道さはさすがに浮かばない。
 自分が理性的であれば何も問題はないのだと気を取り直したところで──高尾は床に座った途端、緑間にキスをしようと身を寄せて来たのだった。
「……部室でちゅうすんのはよくて家でダメとか」
 オレのべろ噛んだくせに、と揶揄するように言われて、バカめと一言返す。
 今日の居残り練習後、部室に残ったのは緑間と高尾が一番最後だった。唇を合わせたのはどちらからともなく、おそるおそる唇を開いたのは高尾だった。そうっと唇の間を嘗められては緑間も欲望に負ける。
 かわいい、と思った。その衝動は、愛しい、と言うのかもしれない。
 ただおそるおそる嘗めあうだけの接触のあと、先っぽにやわらかく歯を立ててみると高尾の舌は竦んだ。怖がらせたくないのだと言う理性でゆったり背を撫でると、おそるおそるほどけて行くのが緑間の胸をじんわり痺れさせたことを強く思い出せる。
 高尾が緑間を好きだと言って来たのは、二年の夏、恒例の合宿も終わり、IHも終わってからのことだった。軽い口調でふざけた様子で告げてきたのに、指先が震えているのを見つけた緑間は、それを愛しいと思った。
 緑間も、高尾が好きだと思った。
 この瞬間だけでなくその先も、例えば明日も、来年も、五年後も十年後も、生涯を──と、思い、人事を尽くそうと思ったからこそ、緑間は高尾にオレもお前が好きだと伝えることにして、こいびと、と呼ばれる関係になり、今に至る。
 こいびとと呼び合う間柄となった高尾と、自分の部屋でキスをすることを全力で拒むことになっている、今に至る。
「──真ちゃん、意味がわからねーよ」
 胡坐をかいて揺れていた膝を両腕で引き寄せた高尾は、視線を落としながら呟く。その言葉は緑間の胸を軋ませる。
 そんな顔をさせたいわけではないと戸惑う緑間の沈黙をどう取ったのか、意を決したように高尾は顔を上げた。膝をついて、片手も床につく。緑間へ身を寄せ直して、Tシャツの肩に高尾は唇を押し当てた。
 鼻先が擦り寄せられることで、緑間の中にこみ上げるのは欲望だ。抱き寄せてしまいたいと思う思考に呑まれまいと首を横に振る。
「……高尾、止めろ」
 情欲があふれ出しそうで、伸びかける手をどうにか押しとどめる。堪えるせいで低くなった声はいかにも不機嫌そうに響いた。見上げる高尾の眉が、不安そうに寄せられる。なあ、と戸惑う声で囁く唇が、緑間に近づく。
「イヤなのかよ。なあ、緑間──」
「止めろと言っているだろう、高尾!」