ヴァニラ






「──真ちゃん、今日は、やっぱ」
 明日も授業あるし。とソファに沈み込みながら言う高尾が恥ずかしそうに視線を逸らしていて、緑間は、頭では告げられた言葉を理解した。
 しかし、そんな彼のシャツの中へ潜り込み、平らな胸元に置かれた緑間の手は、はたから見て理解したようには見えない動きを続けている。そうだな、明日は二人とも朝が早かったのだよ、と利口に相槌を打ちながらも滑らかな手触りの肌を撫で回し、ソファの上で高尾に圧し掛かった体も退こうとはしない。
「だから、真ちゃん、おい、聞いてんだよな?」
「聞いているのだよ、明日は授業がある。お前もオレもだ」
「スゲー撫で回されてんですけど。おっぱいとかねーよ」
 ふざけたことを言いながら高尾が身を捩るので、宥めるような柔らかさで胸を擦る。すると息を呑んだのが、肺が膨らんで手のひらを押し上げる動きでよくわかった。
 戸惑ったように眉尻を下げて見上げる高尾の顔を見下ろしながら、わかっているのだよ、と囁くと、いつもより甘い声が出た。高尾の揃った睫毛が瞬きに揺れる。平らな胸の筋肉による隆起へ、手のひらを押し付けるようにして左右へ撫でると、ふと指の腹に引っかかる粒立った感触があった。
「っ、おい」
「だから、聞いているのだよ」
 応じつつ、手の動きを止めて指腹でそこに小さな円を描いてやると、組み敷く体勢の中、高尾の腿が小さく跳ねて、緑間の足にぶつかる。
「は、あっ……」
 こういう関係になり、高尾が事の最中に上がる声をことさら殺すこともなくなってから、随分経った。素直に快楽を伝える癖のついた高尾の口からは声になりかけた吐息が零れ、その後ハッとした様子で唇が閉じる。
 とろんと蕩けそうになったオレンジ色の目が、瞬きによって冷静さを取り戻す。慌てて腹筋を使って起き上がろうとする高尾を、緑間は体重をかけて押さえ込んだ。
「真ちゃん、ちょっ、……おーい、真ちゃーん」
 ウエイトの差で起き上がれず、高尾は困った声を上げながら緑間の胸を押し返そうとするが、その力具合は弱い。跳ね返す弱さと、申し訳なさの滲む眉尻の下がった表情は、こうしてソファに雪崩れ込むまで、今日は最後までは控えたいのだと言い出せなかったからだろう。
 だが、高尾も普段ならば明日は朝が早いからとはっきり口にする。そういうときの高尾はそう口にした上で、だからキスだけなと微笑んで誘い、あるいは、抜きっこだけしようぜと甘えた挑発を仕掛けてくるので、緑間はその状況もまったくもって嫌いではない。
 今日は、少し違っていた。緑間の口付けを受け、少しの沈黙の後、黙って唇を押し付けて来た。何度も交わすキスの間、無口だった高尾は、緑間を手放せないとでも言うように唇が離れるたびに自分からキスをして来た。沈黙に舌が絡み合う水音が混ざるのはすぐで、ソファに二人分の体重を預ける衣擦れが聞こえ出すのも、すぐだった。
 ──つまりその間、高尾の中で理性が欲望に負けていたのかと想像すると、緑間は荒くなりそうな呼吸をことさらゆっくりと行って、落ち着け、と己に言い聞かせる必要が生じる。
 見下ろした先にある高尾の目は少し濡れていて、照明の入り込んでいるところは艶のある色合いだ。互いの唾液で湿った唇は物足りなさげに何度も小さく開き、赤い舌先が覗くのが誘っているようで緑間の腰を重く滾らせる。
 熱を帯び出した腰を、開いた高尾の足の間にぐいと押し付けると、ぁ、と甘い声が上がって、高尾はその甘いトーンのままで真ちゃんと呼ぶものだから、緑間はジーンズのフロントの窮屈さに浅い息を吐く。
 真ちゃん、とまた呼びながら、高尾がおずおずと緑間の頬に触れた。その指に頬を擦り付けてやると、高尾はその懐く仕草に目を細めて、下がっていた眉尻が少し和らいだ。
「いや、オレもしてーんだけどな? やっぱ明日、朝はえーから、カラダきつくなりそーで」
「……高尾。お前が無理を強いられることが好ましいと言うのならば、その言葉を無視して事に及ぶことはやぶさかではないが、ちなみにオレにそういう性癖はないぞ」
「話がおかしいだろ! つか真ちゃん、さっきから聞いてねーだろ、人の話!?」
「聞いているのだよ」
 それはもう、お前が口にしている言葉以上に──と思いながら、緑間ははっきりと応じる。
「いれないから安心しろ、中断もしないから安心するのだよ」
「は、……あ、うん。ん?」
 緑間がそう言うと、高尾は驚いた様子で頷いたが、すぐに意味を掴みかねた様子で首を捻った。
 高尾に触れることに夢中で忘れていたが、事を進めようとする前に言うべきだったかと緑間は思う。だが、今言っているのだから構わないだろう。
「つまり、挿入するとただ射精するより負荷が大きいのだろう?」
「まあ、そーゆうことなんだけど」
「それに、明日が早いことは覚えているのだよ。だから最初から挿入する気はない。元からその気なら、お前にカレーやキムチなどの刺激物は食わせない」
「え? 真ちゃん、そーゆう人事の尽くし方してたのかよ……」
 緑間の宣言に、ぽかんとしながら高尾が呟く。
 本日、我が家の夕飯はお好み焼きで、高尾が自分の分にキムチをしこたま足すのを緑間は止めなかった。高尾も、自分の食べた夕飯の内容を覚えているだろう。つまりはそういうことだ。
「お前にいれたいだけでこういうことをしているわけではないのだよ」
 思いを口にしてみると、どうにも何だか良いことを言っているような錯覚に陥ってしまい、緑間は思案する。
 ぽかんとした顔で頬を赤く染める高尾を見つめつつ思案しているうちに、まるで「お前とのセックスが目当てで付き合っているわけではない」と言う雰囲気の台詞だったなと気づき、じわりとした罪悪感が浮かぶ。お前は高尾の体が目当てなのかと言われたら即座に否定が出来るので、緑間の言った台詞はけして間違いではないが、セックスも出来るのならば勿論、一度たらず二度三度としたいので、完全に正しいわけではない。
 ので、正直に言った。
「──いれる以外にもしたいことは山ほどある」
「おい、このムッツリ!」
 自分の中にある望みをそのまま口にすると、高尾は笑い出しつつ、人聞きの悪いこと──と緑間は一瞬思ったがすぐにまあ妥当な評価だろうと思い直した──を言う。
「ブッハ、すっげームッツリしたツラで、ップ、ムッツリなこと言うから、は、ギャハハ!」
 手で口を押さえても堪えきれない爆笑の混じった高尾の声は聞き取りづらい。反対の手で腹を押さえ、笑いに全身が震えているのが密着した体勢ではよくわかる。
 評価に納得はしつつも、まるでさっきまでの雰囲気がなかったことのように大笑いされて、緑間の眉間には皺が寄った。笑いのツボが浅い男が最中に大笑いし出すことには慣れているが、そこから本題に引き戻すには、言葉だけだと手間がかかる。一度ツボにハマってしまった高尾は、緑間が言う言葉がいちいちツボに入ってしまうのだ。
 ここは実力行使で行くか──と、急くほどに興奮していた緑間は唇を開くと、笑いっぱなしの口元を押さえ切れていない高尾の指の背へ、おもむろに噛み付いた。
「ぎゃっ、に、にゃんだよ真ちゃん、猫みてーだな」
 口元にある手を甘噛みしたせいで、互いの顔の距離は近い。驚いて見開かれた高尾の目に、自分が映っているのもわかるほどだ。
 なんだよと問う言葉には返事をせず、無言で薬指の第二関節に犬歯を当ててやると、前歯を当てていたときより尖った歯の感触が痛いのか、高尾の手指が強張る。
 焦点を合わせづらいほど近い高尾の目をじっと見つめながら、緑間は噛んだ箇所に柔らかく唇を擦り付けた。高尾の手指がまた、ぴくんと強張る。
「指先は敏感だと言うが」
 喋るために口を離しても、高尾の指は緑間へ差し出されたままだ。触覚の感度が高いその先を小さくぺろりと嘗め上げる。
「……性感帯に為り得ると思うか?」
「は、……ぁー……そーゆうこと、したかった?」
 息を吐いて笑う高尾の両眼には、瞬きのたびに期待が見え隠れする。口元に浮かぶ笑みは、少しも先にあることを怖れる様子がなく、好奇心があらわになっていた。それが、緑間を調子付かせる。
「お前を見ていると、したくなることが多くて困るのだよ」
 心の底からの言葉だった。
 ほんとうに、困る。緑間はそう思っている。人事を尽くしても尽くしても、その次の瞬間には尽くし切れた気がしない。それでいて満たされているのだからおかしなものだ。
「はっ? え、それ、オレのせいか?」
「割とな」
 真面目に答えると、そうかよ、と高尾は喉を震わせて笑う。楽しげな様子に、何がおかしいのかわからないまま、緑間は目前にある人差し指の先を咥えて、引っ張った。
 仕草に促され、真っ直ぐに差し出される高尾の指のうちで一番長い中指を口の中へ第一関節まで迎え入れて、短く切られた爪の先のなめらかさを舌先でなぞる。高尾の視線を感じながらも、それを無視して遠慮なく爪の間を尖らせた舌先でくすぐると、高尾が思わず手を引き戻そうとしたので、手首を掴んで引きとめた。
 緑間が濡らした指の先を視線で追い、手のひらを覗き込んで、そこにある高尾の運命線の筋を舌先でなぞってやると、掴んでいる手にはビクリと震える感触が伝わって来る。
「手のひらは、いいのか」
「い、いっ……」
 首を竦めながらの高尾の声が、息を詰めた喉に引っかかったのか掠れた。
「気持ちがいいのか、不要の意味での『いい』なのか、どちらだ、高尾?」
「っせーよ……! 気持ちいーっての!」
 悔しげに眉を寄せながら言い返される。望んだ通りの答えが高尾から返って来たので、フン、と満足さに鼻で笑い、今度は舌先を揺らして手のひらをちらちらと嘗めてみた。手首に近い位置の方を嘗めると高尾が、ん、と声を零すので、緑間の舌は、高尾の肌の上を移動して行く。
 手首を掴んだままだった指はずらして、脈の上を舌でなぞる。顔を傾けながら手首から肘へ向けて、腕の内側に、緑間は舌を這わせた。はあ、と高尾のひそやかな吐息が洩れる。空いている手が緑間に伸びて、いい子いい子とばかりに頭を撫でられた。
「それって、味見でもしてんの、しーんちゃん?」
「ああ、そうかもしれないな。どこもかしこも嘗めてやりたいと思っているのだよ」
「……うわー、マジレス来ちゃった……」
 肘の裏側の皮膚は、また一段と薄くて柔らかい。熱心に舌で辿っている緑間へ、高尾から向けられた冗談は、冗談として成立しなかった。言われてみれば、たしかに味見のような気分だ。少しずつ啄ばみ、嘗めて、小さな反応を味わう。少しだけ。大口を開けて食らいつくのとは少し違う気分で、高尾に触れる。
 緑間が成程と納得しながら味見を再開し出すと、 高尾の指が髪の中に潜り込んで来て、肌へ吸い付くたびに力の入った指先がきゅっと丸まる。頭皮に感じる淡い刺激でそれを知りながら、緑間は高尾が着ていたTシャツの袖を肩まで引っ張った。
 手首を引いて腕を持ち上げさせ、あらわになった二の腕の内側、腋のそばの薄い皮膚にもキスをして行く。舌を伸ばし、あまり触れることのない二の腕の裏側を腋に向かって嘗めると、ビクンと震えた高尾があっと小さく声を上げた。
「し、視覚の暴力!」
「何の話なのだよ」
 高尾の腕を真上に持ち上げている緑間は、わけのわからない訴えに問い返しながらも、チュ、チュ、と音を立てて二の腕の内側にキスを落とす。日焼け慣れた腕の先と比べてあまり日に焼けずに皮膚の薄いこの辺りは、男の体の中でもすべすべとしていて柔らかい。しっかりとしていてなめらかな高尾の肌の手触りは好きだが、ここも良い。緑間が熱心に吸い付いたり嘗めたりを繰り返し、淡い痕さえ残す間、高尾は、ん、ん、と短く詰めた息を何度か零し、最終的に身をよじって逃れようとした。
「はっ、ァ……そこだと、嘗めてるとこちょー見えんだっつーの……なんつー顔してんの、真ちゃん……」
 更に訴えられて高尾の顔を見ると、頬が赤い。困ったように眇められた目と、薄く開いた唇が物欲しげでいやらしい。高尾に両手でわしゃわしゃと髪をかき混ぜられ、こいつが見ていたのは一体どんな顔なのかと緑間は目を瞬かせる。
「なんつー顔とは、どんな顔だ」
「夢中っつーかなんつーか……すげー可愛いから、今度、写メ撮って見せてやろっか」
「……お前の感性に文句をつけるつもりはないが、時々、視力が悪いんじゃないかとは疑うのだよ」
 正直なことを言うと、高尾は一瞬唇を引き結んでこらえたもののこらえきれずに一度噴き出してから、撫でていた緑間の頭を宥めるようにぽんぽんっと撫で叩いた。
「視力も趣味も悪かねーよ、むしろ良いっしょ。こいびとなんだからしょーがねーだろ、可愛いって思われんのくらい理屈で考えねーで許容しろよ」
 腹筋を使って身を起こし、頭を持ち上げた高尾が、ちゅう、と緑間の唇に吸い付いてくる。な? とダメ押しのように甘い声で促され、緑間は頷くしかない。
 自分を可愛いと思う高尾は理解できないが、高尾を可愛いと思う自分も理解されないだろうと思って頷く。高尾にとって緑間は恋人であるが、緑間にとって自分自身はただの背が高く筋肉もついている大柄な男でしかない。
「だが写メは断る」
「そ? まあ、オレだけ知ってるってのも悪かねーわ」
 こーゆう顔の真ちゃん、と囁く高尾の唇が口元から逸れて、緑間の耳へたどり着く。耳朶を唇で挟まれて、ぴくりと首筋を強張らせると、くく、と高尾の笑う声が耳のすぐ傍で響いた。
 ちゅう、と音を立てて耳の下を吸われたかと思うと、その口は緑間の首筋へと向かう。キスをしながら、高尾は体ごとずり下がって緑間の体の下で移動した。鎖骨も唇で挟まれたと思うと、不意に緑間の股間をジーンズの上から指で撫でて来るので、腰が跳ねそうになる。
 高尾の肌を夢中で味わっている間も、緑間は自分が興奮を増している自覚があった。慌てて腰を引こうとすると、ちゃっかりとベルト通しに高尾の指が引っ掛かっていて引き戻される。
「たっ、高尾……!」
「あー、そーゆう顔も、可愛い……」
 うっとりと目を細めて、慌てる緑間を見上げながらそんなことを言う高尾の気が知れないが、緑間の体の下にいて、すっぽり覆われてしまう高尾の方こそ可愛いと緑間は思うので反論が出来ない。