kiss my lips!







「今日は楽しかったな、巻ちゃん!」
 てらいのない東堂の言葉に巻島は、クハ、と小さく笑うだけの返事をした。
 前日に巻島の家へ泊り込み、朝早くから存分に走った二人は、非常に満足した気持ちで巻島の部屋にいた。シャワーも浴びてさっぱりとし、あとは腹を満たして、ベッドに飛び込めば早々に寝付く最高の日になるだろう。ぐう、と鳴る腹をおさめるため、巻島は風呂上りのさらりと乾いた足をジーンズに突っ込みながら提案した。
「東堂ぉ、着替えたらメシ食いに行くっショ」
「肉が食いたいな! 肉が! ファミレス行こう、巻ちゃん」
 客と言う理由で先にシャワーを浴びさせた東堂は、すっかり乾いた髪を揺らして勢い良く同意する。
 風呂上りのせいか、東堂はカチューシャをつけておらず、前髪がさらさらと頬に落ちているのが珍しい。カチューシャカッコ悪いっショ、と未だに思う巻島だが、見慣れたせいで、カチューシャがない方が不思議に見える。
 見慣れるくらい一緒にいたのか、コイツと──そう自覚すると、巻島の頬は自然と熱くなる。気恥ずかしさを感じた巻島が乱暴にTシャツをかぶり、頭を通そうとすると、髪が何かに引っかかって頭皮が引きつれた。
「いてえ」
 不意の刺激に思わず声が出る。
 引っ張られた頭皮はちりちりとした痛みが残っていて、巻島はTシャツの中で眉をしかめた。頭を通す方向だと痛むのならば戻せばいい、そう思ってシャツを引くと、今度は反対側の方向に髪を引っ張られる感覚がした。この方向も駄目だ。
「巻ちゃん? 何してんだ」
「ファスナーかなんかに髪引っかかった、いてて」
 東堂の声に応じながら、前へも後へも進めない状態になった巻島が苦戦していると、ぽんぽん、と頭の上を何かが撫で叩いて来た。何かもなにも、この部屋にいるのは東堂だけなのだが、いかんせん巻島からは周囲がまったく見えない。
「東堂、何してるショ」
「巻ちゃん髪長いし、色々ついた服着てるからな。よし、俺が取ってやろう!」
 何してる、に東堂からの返事はなかったが、手助けは正直助かるので巻島は頷く。
「あー、頼むわ。解いてくれ」
「ワッハッハ、任せろ! 巻ちゃん、いま、タマ虫より亀みたいだぞ」
「うるせぇ」
 頭からシャツを被って頭が抜けない状態では、亀といわれても否定のしようもない。誰がタマ虫だと反発するよりも早くこの状態をどうにかして貰いたい。
 視界がきかない巻島は、東堂の手がシャツの裾から手繰り、髪が引っかかってる位置を探すに任せた──シャツに覆われた顔の前、服越しに何か柔らかいものが唇に押し付けられ、チュッとリップ音が鳴るまでは。
「っ、何し、いてぇ!」
 驚いて思わず飛び退こうとすると、東堂が掴んでいたシャツに引っかかったままの髪が痛んで短い悲鳴を上げる。身動きの取れない状態で動こうとしたせいでバランスも崩して、よろけた背を東堂の腕に支えられることになった。
 シャツに覆われた視界では周囲の状況がまったくわからない。
 東堂の声はない。
 背を支えてくれた手は無言で退いて、巻島のシャツを手繰り、髪が引っかかる位置を探すのを再開する。
 東堂の声はない。
 髪が絡まる場所を探り当てたのが、微かに髪を引かれる頭皮の感覚でわかった。
 ──東堂の声はない。
 声はなく、動きすら止まる。数秒待っても、動く様子がない。耳を澄ますと微かな息遣いはする。ついでに自分の心臓がやけに早く脈打っていることにも気づいてしまった。
「……何で止まってんだヨ」
 巻島が小さく問う。東堂の声はない。
 相手が視認できないもどかしさの中で、じんぱち、と巻島は重ねて呼んだ。
「巻ちゃん」
 掠れた東堂の声がようやく返ってくる。頭からTシャツを被ったままの奇妙な格好のままだが、巻島は少し安心して、シャツの中で小さく息を吐く。
「どんな顔して巻ちゃんの顔見ていいか考え付くまで待ってくれ」
 緊張したかたい東堂の声に、巻島は、いま吐いたばかりの息を呑んだ。



2012.04.19.