それは祈りにも似た恋







「おたんじょうびおめでとうございます」
 下駄箱や机や手渡し以外で手紙が届くのは珍しい。寮の住所と部屋番号の後に「東堂尽八様」と書かれ、裏側には何の署名もない、八十円切手を貼られた淡いピンクの封筒。自室に戻った東堂は、美しい紙に対して申し訳ないような気持ちながらも封筒の角を指でちぎって開く。
 中から出てきたのは一枚の真っ白な、レースの模様が型押しされた上品なカードで、そこに書かれた美しいボールペンの文字は読みやすく、気遣いに満ちた繊細さがあった。
 その文字を口に出して、東堂は読む。部屋に小さく響く言葉。お誕生日おめでとうございます。
 たしかに今日は東堂の誕生日だった。
 朝は寮生から、登校中は友人から、教室ではクラスメイトから、部では部員たちから何度も言って貰った言葉だ。お誕生日おめでとう。
 ──これが巻ちゃんだったらオレは驚いて、それから迷わず電話をかけていただろうな。
 まずそう考える時点で、自分は思っていた以上にあのライバルへの感情が強いのだと東堂は自覚する。そして息を吐いた。はあ、と溜息にも似た息だ。最近、想いの強さを自覚することがどうにも多く、またか、と思った結果の吐息だった。
 誕生日に溜息などらしくない。東堂はそう思う。東堂にとって誕生日は良いものだ。生まれてこれて嬉しい。両親にも感謝をする。今日はひたすら嬉しい日だ。生まれていなければこの場にいない。箱根学園のメンバーとも走っていない。そして、巻島と競い、こんなに速く走れるようにはなっていないのだ。
 もし今の自身ではなかったらと考えると、ぞっとして足が竦むような恐怖を感じた。いや、違う、と首を振って東堂は気持ちを切り替える。もし、と言うことは考える必要はない。いま東堂はこうしてここにいて、自転車に乗ることと、チームのために戦うこと、巻島と競うことが出来る。
 誕生日には楽しいことと感謝のことばかり考えねばいかんよ。東堂は改めて自分の中のきまりごとのような意思をもって頭を一度振り、あらためて、手の内の手紙を見た。
 お誕生日おめでとうございます。
 リターンアドレスのない手紙の痕跡から、東堂は何かを探ることが出来ない。東堂への気遣いと祝福だけしか読み取れない。東堂はそこから何かを読み取る探偵の真似事は無理だとあきらめて吐息し、ポケットから携帯電話を取り出した。開いて、待ち受けの画面を見つめる。そこに、手にある手紙の主よりも何よりも東堂の頭に浮かんでしまった、巻島の名があれば嬉しいのだが、携帯電話はしんと静まり返って待ち受けを映し出すだけだ。
 手の中の封筒を、東堂は携帯の画面を見つめたまま腕を伸ばして、そっと机の上に置いた。せっかくの祝いだ。差出人がわからないものでも、大事にしまっておくつもりだった。
 宛先のない祝福は、祈りにも似た見返りの求めなさを感じる。
 純粋で、美しい。
 だが、東堂は欲も美しいと思う。速さを求め強さを求め頂点を求め一位を求めそしてその勝負には、
「巻ちゃん」
 そうして思わず感情のままにつぶやいた名が、まるで魔法のように、東堂が凝視していたディスプレイに表示されたのでぎょっとした。
「ま、巻ちゃん!?」
「うわ、おめぇ出んの早ぇ、っつーかうるさい」
 即座に通話を受けて携帯電話に名を叫ぶと、巻島の声が聞こえた。最初は驚いて、最後は半ば呆れたような調子で聞こえた巻島の声は、よう東堂ォ、といつものように挨拶をして来る。
「たいした用じゃねぇんだが、東堂、おめぇ誕生日ショ」
「ああ」
「おめでとうさん。クハ、おめぇのことだしもう言われ飽きてんじゃねーの」
「ありがとう。巻ちゃんから言われんのは初めてだぞ!」
 頬が熱くなるのを感じながら、東堂は返事を返す。巻島と出会ってからまだ一年経っていない。初めてだ。年を重ねた日に巻島の声を聞いたのは。最高のライバルがいる世界で迎えた誕生日は。
「嬉しいよ」
 電話の向こうで沈黙した巻島は、照れているのか呆れているのか。東堂にはまだ手に取るようにはわからない。だが、わざわざ電話をかけて来てくれたこと、祝ってくれたこと、何より、世界に巻島がいてくれることが嬉しい。
 東堂は自分が生まれたことに感謝し、巻島がこの世界にいてくれることにも感謝をする。
 これは祈りなんかじゃない。欲望がひそみ、見返りを求める。だが、祈りにも似た、真っ直ぐな気持ちだ。
「巻ちゃん」
 東堂はもう一度名を呟く。



2012.03.28.