想いだけが走り出し、理由は後から追って来る







 携帯の液晶から洩れる光量は、案外強い。
 同室に泊まっている連中を起こさないように、東堂は薄手の毛布を頭までかぶった。すでに消灯しているのだ。
 開いた携帯電話の液晶画面に表示されているのは巻島の電話番号だ。番号を交換してから何度もかけて、覚えてしまった番号が、さっきからずっと表示されている。
 明日はインターハイの初日だ。待ちに待った日を迎えるにあたり、気分は高揚しているし、調子はいい。だが、高揚し過ぎて、眠る予定の時間から三十分も過ぎていた。明日は巻島と戦える。交わした約束通りの勝負だ。それを思うと気持ちは高揚し、巻島も同じ気持ちだろうかと期待に似た思いが湧いてきて止まらない。

 巻ちゃん、巻ちゃん、巻ちゃん。

 どく、どく、と自身の鼓動を感じる。なあ、巻ちゃん、おまえの調子はどうだい。オレと同じように胸が躍っているか? オレのことを考えているか――そう思いながら、なんだかたまらない気持ちになってぎゅっと目を閉じると、ぎゅっと握った携帯が手の中で一瞬震えた。
 はっと目を見開くと、かぶった毛布の中を明るく照らし出す携帯の液晶画面に、巻島祐介、の文字があった。メールだ。着信したそれを見るため、急いでメールフォルダを開く。

『寝てんだろーな』

 メールは件名もなく、一行だった。東堂は急いでボタンを打ち、作ったメール文章を送信する。

『寝てない。巻ちゃんこそ』
『返事返す前に寝ろヨ。オレももう寝る』
『また明日な』

 短いやり取りは、五分にも満たないうちに終わった。巻島からそれ以上のメールはなく、携帯には、最後に送信した「また明日な」の五文字のメール以上の変化は訪れない。
 東堂はしばらくじっと携帯の液晶画面を見つめて、身動きひとつしなかったが、やがて返信ボタンを押してカチカチとボタンを打ち始めた。

『巻ちゃん起きてるか』
『起きてる。寝ろヨ』
『巻ちゃんこそ。さっき、メール送ってから思ったんだが、また明日と言ったのは初めてだ』
『そりゃ学校違うしな』
『明日も、また明日なって言って別れられるな。明日も明後日も同じレースに出れることが嬉しい。おやすみ』

 送ってから、おそらく返信は来ないだろうなと思って、東堂は目を閉じた――その瞬間、携帯電話が一瞬ではなく、震えた。
 メールではないバイブの振動に目を開くと、着信の表示と、巻島祐介の名があって、東堂は思いがけない着信にどうしたのかと慌てながら通話のボタンを押す。

「巻ちゃ、」
「オレもだ」

 それだけ囁くような声が電話から聞こえて、すぐに通話は途切れた。

 胸の奥、体の奥、深い場所で何かが震えた気がした。通話を知らせる携帯電話の振動のように、途切れ間のないさざなみのような震えが、東堂の中で沸き起こる。
 それはささやかで、確かな歓喜だった。

 東堂は携帯電話を握り締めて、今にもロードに乗って走り出したいほどの歓喜を押さえ込もうと毛布の中で背を丸めて縮こまる。ぎゅうっと目を瞑る。

 巻ちゃん、巻ちゃん、巻ちゃん。

 このまま眠りに落ちて次に目を開ければ、今以上の歓喜が待っている。その幸福さに誘われて、眠気がやって来た。








『寝てんだろーな』

 送信ボタンを押すまでに五分もかかった。
 馬鹿馬鹿しい、と思いながら頭までかぶっていた毛布をずらして、フットライトだけ点いた室内を見た。外はもう真っ暗で、寝静まっている。眠らなくてはいけない。充分な睡眠、休息、グリコーゲンを充分に回復させた体で挑まなくてはならない。
 暑さ、紫外線、それに伴う疲労の蓄積。夏の暑さで行うレースはひときわ体力の消費が過酷だ。初のインターハイを前にした一年の連中の様子が気になったが、そこまでガキ扱いする必要はないショ、とどこか不安を感じている自分に苦笑して、また毛布をかぶった。
 それを見ていたかのようなタイミングで、手に握っていた携帯がチカリと光ってメールの着信を知らせる。
 差出人の表示は東堂だ。なんだあいつ起きてんのかよ、と自分からメールを送っておきながら思いつつメールを開く。

『寝てない。巻ちゃんこそ』

 そりゃそうだ、オレだって寝てるはずの時間だ。返って来たメールの文面に、クハ、と息だけで笑って、巻島は返信メールを送る。

『返事返す前に寝ろヨ。オレももう寝る』
『また明日な』

 短いやり取りは、五分にも満たないうちに終わった。
 巻島はそれ以上メールを返すことはなく、携帯の液晶に表示された、「また明日な」の五文字のメールを見つめていた。
 また明日な。また明日。またあした。
 三日、続けて戦える。一対一の競り合いは一日目だけだとしても、二日目も、三日目も。明日も明後日も明々後日も。走れるのだ。総北のチームで、インターハイで、東堂がレギュラーの座を獲得した箱学と競いながら。
 その事実は、じんわりと巻島の胸の奥を熱くした。この熱がどんどん膨らんで、明日、自分の体の中にあるエネルギーをいつになく燃やすような気すらした。
 明日。また、明日だ。
 巻島は東堂から来たメールの、「また明日な」の文字をまだ見つめていた。
 同じ学校であれば何てことない挨拶だ。だが、巻島と東堂にとって、また明日、と別れられることなどなかった。また明日も、と簡単に会って走れる距離に住んでいない。それでも交流や個人的にやり合った回数は多いと思う。同じ年の、競り合える、認めあえるクライマーと出会えたことに、巻島は高揚していたのだろう。携帯番号とメールアドレスを交換してから、やり合う誘いには都合が合えばいつも乗った。高揚していた。そして今も。
 ――小野田、明日がこんなに楽しみなのはおまえのお陰ショ。
 今頃くうくう寝ているだろう一年の後輩を脳裏に浮かべて感謝を心の中で呟いてから、巻島は目を閉じ、心の高揚をゆっくりとおさめた。さきほどの微妙な不安は消えていた。リラックス出来ている。調子はいい。明日が楽しみだった。
 ふう、と息を吐いて高揚を収めきる。するとまた見ていたかのようなタイミングで、手に握っていた携帯がチカリと光ってメールの着信を知らせた。

『巻ちゃん起きてるか』

 東堂からだった。なんだあいつ起きてんのかよ、と自分のことは棚に上げてメールの返信画面を表示させ、短い文章を打つ。

『起きてる。寝ろヨ』
『巻ちゃんこそ。さっき、メール送ってから思ったんだが、また明日と言ったのは初めてだ』
『そりゃ学校違うしな』
『明日も、また明日なって言って別れられるな。明日も明後日も同じレースに出れることが嬉しい。おやすみ』

「――……と、」
 東堂、と名前が口をついて出そうになった。
 あまりにもストレートで、てらいのない、素直な言葉に耳が熱くなる。恥ずかしげもねェヤツだ、と毒づく気持ちも、上がった体温に溶けるように消えた。

 巻島の手は、衝動のままに東堂の電話番号を表示させ、通話ボタンを押していた。

「巻ちゃ、」

 通話はすぐに繋がった。名前を呼ぶ東堂の声を遮り一言、オレもだ、と囁いて通話を切る。

 さすがにこの時間、電話をかけ直すのは気が引けるのか、東堂からの着信はない。早く寝ちまえヨ、尽八。巻島は液晶を眺めて目を細める。自分もだと素直に伝えたことで、何だかひどく満足していた。
 ――明日が楽しみだ。
 巻島は携帯に額を押し付けて目を閉じながら、唇が笑ってしまうことを許した。



2011.08.12-8.18.