夜に溶ける







 チョコレートを買ったのは、つい先日の日曜日だ。
 家の用事で呼び出され、親と妹と連れ立った帰り道、デパートでチョコレートの催事をやっていた。色めきたったのは妹たちで、寄って行きたいと言われてしまえば荒北はめんどうだと思いながらも付き合うしかない。全ての用事が終わっているなら、めんどうだからと先に帰っても良かったのだが、これから夕飯を親に食べさせて貰う予定で、寮にもそのように届けを出してしまっているのだ。このまま帰っては食いっぱぐれる。
 ただ立って待っているのも暇なので、端の方の店を眺めていると、ショーケースには様々なチョコレートが並んでいた。そんな店がいくつもいくつも集まった催事場で、妹たちが買うものに迷わないはずもなく、案の定、時間がかかりそうで荒北は舌打ちをしそうになる。
 そのとき、ふと目が留まるものがあったのは、きっと、新開の影響だ。新開が学校で飼っているウサギを、荒北も、福富たちも可愛がっている。可愛がり出してからウサギの形をしたものが目に入りやすくなった。今回もそうだった。
 ケースの中に展示されたチョコレートは、ウサギの形をしていた。
 それから荒北がしたことは、母親に、金渡すからアレ買って来てくれと頼むことだった。母親はそんなにチョコ食べたいなら買ってやると言い出したが、いいって、と無理やり千円札を渡す。金を出してもらうわけにはいかなかった。母親からのチョコを新開にやるなど何のコントだ、冗談じゃねえ、と思いながら、母親が会計を済ませるのを待つ。
 はい、と渡された紙袋は、チョコレートの小さい箱がひとつ入っているだけなのに、なぜか、妙に重たい存在感を持って荒北の手の内に入って来た。

 そのチョコレートは、二月十四日の昼休みになった今も、荒北の寮の部屋の机の引き出しにある。手元にはない。女子たちは朝のうちからチョコレートを渡したり、放課後呼び出す約束を取り付けたりなどしていたが、荒北は学校で渡すわけにはいかないと思ってる。目立ちすぎる。チョコレートをくれてやる相手は、東堂ほど賑やかさでは目を引かないものの、校内でも大きい部である自転車競技部のエーススプリンターであり、充分に目立つ男だ。
 その目立つ男は、いま、学食で荒北と向かい合って食事をしている。
 お互いに丼のセットを食べ終わり、食い足りない新開はさっき買い込んだパンを食べ出した。荒北も少し足りない気がしたので、パックのジュースでも買ってくるか、と視線を自販機の方角へ向けたところで、新開が言った。
「靖友、この前奢ってくれたやつのお返しな」
「あ?」
 奢った覚えなどない。何の話だと新開を見ると、目の前にぽんとパンの包みが置かれた。
 チョコレートクリームの挟まったパンだった。
 意図を把握して、うわ、こいつ、と正直びびる。人目のある校内で、バレンタインデーに、チョコレートの名のつくものを寄越すとはどういう度胸だ。いや、自分が過敏になっているのかもしれない。これはただのパンだ。チョコレートの名がついていて、そのクリームが挟まっていて、ただ今日がバレンタインデーなだけだ。唇を歪め、真顔でパンを見下ろす荒北は、どうやら新開の想像範疇内だったらしい。気を悪くした様子もなく、どうした? などと、しれっと首を傾げて来る。
「靖友、チョコ嫌いじゃねえだろ?」
 頬杖をついてにこにこと笑う新開の頭をはたいてやりたくなったが、ここは学食だ。人目がある。これが目の前にある状態で目立つ真似をしたくない荒北は、黙って、パンの袋を手に取る。
 包みを開こうとしたとき、あの、と細い声がかけられた。視線を上げると、女子が一人、新開に声をかけていた。まだ幼い顔をしているから、一年だろうか。見覚えがない少女は、新開先輩、と緊張した細い声で呼びかける。
 聞いていない素振りで耳にしたのは、少しお時間もらえますか、と緊張しきった少女に、新開が誘われている言葉だった。どう考えても、チョコレートを渡す前触れだった。
 生徒でいっぱいの食堂は目立ちすぎる。人のいない場所で渡すなり、渡しながら告白をするなりするのだろう。
 新開が去年から義理ではないチョコレートを渡されるたびに「オレ、好きな子いるけど貰っていいのか?」とはっきり口にしているのは知っている。女子の間でも知れていることだろう。それでも渡す女子は、いる。玉砕覚悟の勇気を、健気だと、荒北は思う。思うだけでしかない。どうしようもない。
「あ──すまねえ、今、」
「いいって、行って来いヨ」
 荒北といることを理由に断りかけた新開を促す。躊躇う新開をよそに、荒北は、先行ってろヨ、と少女に向かって廊下を指差した。少女が頭を下げて離れて行くのを待ち、そんで、と小声で付け足したのは、少しだけ新開が不安そうな目をしていたからだ。
「早く帰ってくりゃいいだろ」
 眠そうなタレ目が、ぱっと輝く。立ち上がった新開と一緒に廊下を歩いて行く少女を思うと、性格の悪いことを言った気もしたが、どうしようもない。
 呼び出した少女には悪いと思ったが、あいにく、その男はオレんだよ、と荒北は内心で思いながら、パンの包みを開いた。
 どうしようもない。





 チョコの味がする、と新開が言う。
「食っただろ、靖友も」
 荒北の部屋のベッドで二人寝そべり、新開が覆いかぶさる形でキスをしていたのは、すでに時刻は零時まであと三十分足らずとなった頃だった。
 夕飯も終わり、風呂も終わり、寮が静まった頃、新開は荒北の部屋にやって来た。新開は当たり前のような顔で部屋に来て、荒北は当たり前のような顔で新開を入れた。ドアの鍵をかけた途端、新開の腕が荒北の腰や肩に絡んで来る。新開は当たり前のように抱きしめ、荒北は当たり前のように抱き返す。一緒に寝ようぜ、と新開が言ってきたので、狭ぇよ、と言いながら、ベッドの中に招いてやった。そしてキスをしたら、新開がさっきの言葉を言い出した。
 体温の高い新開の体に圧し掛かられたまま、舌出してくれよ、靖友、と、ねだられる。応じてやると、味を再確認しているのだろう、丁寧に新開の舌になぶられた。
 舌の付け根をつつかれて、唾液が溢れてくる。ぐちぐちと新開の舌と絡んで立つ水音は、わざわざ新開の手が耳を塞いでくるので、荒北の頭の中に反響して、足の裏の方までびりびりして来る。息が上がる。膝がぐいぐいと足の間に入って来て、太腿が作為を持って股間を押し上げるので、荒北は逃げるように身を捩るが、新開は体重すらかけて押さえ込み、存分に荒北の舌を吸った。
「重ぇンだよ!」
 夜なので、叱り飛ばす声もひそめている。ひそめずとも、散々なぶられた舌はもつれそうで、息も上がったままで、大きい声など出せるはずがない。新開の指は大きく上下する荒北の胸を撫で、服の上から尖る先端をぐりっと押しつぶした。ビクンと震えた荒北の体が、圧し掛かっている新開の体にぶつかる。のっぴきならない下半身事情になりつつ荒北の唇をべろりと犬のように嘗め、新開は熱を帯びた目で、笑う。
「靖友の口ン中のチョコ、うまい」
「おまえ、ほんっと、アホだろ……」
 素直すぎる感想に、呆れる以外のリアクションが荒北には浮かばない。新開の手が下肢に伸びてきたので、荒北も同じように新開の股間をまさぐってやる。





 出してしまえば冷静になる。
 身も蓋もないことを考えながら荒北はティッシュで新開の精液に濡れた手を拭う。新開も同じように荒北の体液で濡れた手を拭っていた。はぁ、と射精後のけだるさに仰向けに横になり直す。隣に寝転がった新開が毛布を引き上げておとなしく寝る体勢になったのを横目で見て、荒北は、何てことないように言ってみた。
「食い終わったらやンよ」
「え?」
「今日オメーが貰ったやつ全部食い終わったら、オレもやンよ」
 寝転がった新開が身を起こす。つられてめくれた毛布の間から外気が入り、寒ィ、と苦情を言うと、すまねぇ、と新開はまた隣に寝転がった。
「あるのか?」
「だから、食い終わったらやるっつってンだろ」
「あるのか?」
「だからァ」
「靖友の口から聞きたい」
「調子乗ってんじゃねーよ」
 徐々に鼻先へ鼻先を寄せてくる新開は、無愛想に照れる荒北を面白がっているか、他の甘ったるい感情で思っているのか何かでニヤニヤとしている。
「一日二個までにしとけよ」
「時間かかるじゃねぇか」
「一日一個ずつ食っても賞味期限切れねーよ、ボケナス」
 世の男子高校生に聞かせたらフルボッコだろその台詞。荒北は一般的な男子高校生として、平均以上の個数を貰っている新開の言葉に呆れたが、その個数を上乗せするのは自分だと言うことに気づくと、どうしようもない気持ちになった。
 荒北は新開のことが好きだ。どうしようもない事実だった。自分でも最初は否定したいとすら思ったが、どうしようもなく、事実でしかない。
 そして新開も、荒北のことが好きだった。荒北の自惚れではなく、どうしようもない事実として。
 それは夜に溶けて消えてしまう程度に、いつものことだった。




2012.02.05.PEDAFES配布ペーパー