8月2日







 深く息を吸って、吐く。
 跨がった自転車のトップチューブを指でなぞると、つるりとした慣れ親しんだ感触に心が落ち着いた。
 ずっと漕いで来たサーベロの車体は、新開の手足のように体に馴染んでいる。ハンドル幅に、ペダルの大きさ、前後のタイヤの先端までの距離――自分の手がどこまで届くのか意識しなくても知っているように、それは、新開にとって当たり前の把握だ。
 手足のようなロードレーサーに、一日目は温存していた満タンの足。福富が率いるチームと、四番の最速のゼッケン。高校最後のインターハイ。
 頭の中で思考を巡らせながら、新開はハンドルに腕を預けて俯く。思考はいつしか、一つの感情へ集中されて行った。
 走りたい。
 その欲望の深さに呑まれそうになりながら、走りたい、ともがくように望むたび、小さな子ウサギの毛並みのやわらかさやあたたかさを思い出す。守ってやらなくては、と罪悪感混じりの保護欲に見舞われる。――ブレーキをかける動きを、指が無意識になぞっていて、新開はその指を反対の手でぎゅうっと握り込んだ。
「走んの」
 不意にかけられた言葉に、握りしめた両手がビクッと揺れる。声の方へ振り返ると、そこには荒北がTシャツにハーフパンツのリラックスした格好で、片手にヘルメットを持ち、片手でビアンキの愛車を引きながら、新開の方へ歩いてきていた。
「靖友……」
 荒北はそのまま歩み寄り、新開の横に並び立って足を止める。
 少し高い位置にある細い目が、すがめた形で新開を見た。
「走らねーの」
「靖友」
 オレは走りたい。感情のままに唐突な言葉が出そうになったがこらえて飲み込み、だがたまらなくなって、もう一度名前だけを呼んだ。
「靖友」
「おらよ」
 荒北から返って来たのは、なんだよ、と問う言葉ではなく、口が触れ合うだけのキスだった。
 不意を打たれて目を瞬かせる新開の顔を近い距離で見ながら、荒北は、新開が驚いた顔をしたことに一瞬ニヤリと笑い、「で?」と問う。
「まだなんかあんのォ」
 面倒そうな声で促す荒北の優しさに引きずられるようにして、新開は思いのままに口走っていた。
「靖友、オレは、走りたくてしかたがねェんだ――」
「そんなの当たり前だろ、普通だよバカ! インターハイ最中に煮詰まってんじゃねーよ、バァカ!」
 吠えるような声に新開の声は打ち消され、ヘルメットでぽかんと尻を殴られた。軽い素材のそれはほとんど痛みなどない。
 ぱちぱちと瞬きすると、でけぇ目、と荒北は新開の目を見ながら感想を漏らす。お前が細いんじゃないか?と思いながら目を見返すと、もがくような息苦しさも、たまらなく思い詰まった気持ちも、どこかへ行ってしまったようだった。
「そう、だな、当たり前だ」
 この欲深さは、自分だけではない。多かれ少なかれ、インターハイに出る選手は、走りたい欲求に突き動かされている。自分だけではないと言う事実は、自身の欲深さにあてられそうになっていた新開の頭をクリアにした。
 じっと見てくる荒北の視線に、急に気恥ずかしくなった新開ははにかんで苦笑する。
「すまねェ、オレ格好悪いな」
「カッコよかった試しあんのか」
「一回くらいはなにかあるだろ、レギュラー決めの時とか」
「オマエが勝つに決まってるモン見て、カッコイーもなにもあるか」
 荒北の、勝負結果を決め付けたような物言いに違和感を感じて、新開はわずかに首を傾げる。
「靖友はオレを信じてくれる……のか?」
「ハァ?信じてねーよ」
 即答だった。荒北は皮肉げに唇を歪め、新開を見ながら笑う。
「盲目的に、おまえが走りゃ勝つなんて、オレは信じてねーよ。知ってるだけだ」
「知ってる?」
「そりゃそうだろ。オレも福ちゃんも東堂も、おまえのことを知ってるだけだ。おまえがスプリンターの才能持って生まれて来て、オレらの知ってる高校生の中で一番速ェってよ」
 知っている。
 彼らは新開の力を、過分にも、不足にもとらえていない。
「……揃いも揃って容赦ねェ」
 新開は思わず肩を震わせて笑っていた。彼らは、ひどいくらいに容赦がない。それは、少しでも手を抜けばすぐわかる、と言われているようなものだ。
「一番容赦ねー直線鬼が何言ってンだ」
 呆れた顔の荒北の手が、持っていたヘルメットで背中を小突く。
「行くんなら早く行って早く帰って来いよ、レギュラーがソワソワしてっと下級生までソワソワしてウルセーからァ」
「泉田か?」
「ヘラヘラしてっから懐かれんだよ」
「悪い気しないだろ」
「知らねーよ、オマエのことだろ」
 返事をせずに荒北の肩口へ顔を寄せ、すり、と犬が懐くように額を擦り寄せた。顔を傾けて様子を見ると、あからさまな渋面があって笑ってしまった。肩に頬を寄せたまま、靖友、と呼ぶ。
「一緒に走るか?」
「走らねェよ、疲れる」
「じゃあ、キスがしたい」
「甘えんな」
「さっきは甘やかしてくれたんだな」
「るっせ!」
 怒鳴った荒北の口の横に、ちゅっと音を立ててキスをする。ぎゅっと眉間に皺を寄せた荒北に、早く行け、とまた背中を叩かれたが、怒られはしなかった。



2011.08.08.