天国への扉は開かれている







「足、貸せ」
 自室に戻るなりベッドの上で胡坐を掻いていた荒北に手招かれ、風呂上りの新開は、まだ湿った前髪をタオルで後ろへ掻き上げながら、僅かに首を傾げた。
「靖友? おまえの言っている意味がよくわからねぇ」
「いちいちめんどうくさい言い回しするか、バァカ。そのまんまだよ。そのまま寝転がってて足だけ寄越せっつってんだ」
 ぱん、とベッドの上を叩かれる。そこは荒北のベッドの上だが、乗って良いらしい。何事か理由を知りたいところだが、まあ理由を聞くのは後でも良いだろと新開は言われるままに荒北のベッドの上へと乗り上げた。
 荒北と向かい合って座り、少し迷って両足を荒北の体の両脇へと投げ出す。
「どっちだ?」
「どっちでもイイよ」
 胡坐を掻いた姿勢のまま、荒北は上半身を屈めるようにして新開の膝を眺める。手のひらが、視線の後を追うようにして新開の左膝へ乗った。ゆるり、と手のひらで丸く擦られて、僅かに走ったぞわりとした感覚を、新開は腹筋に力をこめて堪える。
 荒北の手のひらは、するすると新開の足の表面をなぞった。膝からふくらはぎを通り、足首へと流れて行く。視線と手のひらに、撫でられる。
 まるで道具かなにかを確かめているようだ、と新開は思った。
 ――インターハイでの福富のオーダーは、今日の練習後のミーティングで聞いた。
 荒北は、道具かなにかを確かめているようだった。二日目に自分の代わりをするものを。自分の代わりに福富をゴール前まで運び、ゴールに向かって弾き出す。そのためのものが、自分の代わりになるかどうか。
「あのさァ……」
「ん?」
 荒北はわずかに沈黙を置いてから、スプリンターの脚だな、と言った。視線は新開の足をじっと見つめている――検分している。
 足首から離れた荒北の手のひらは、今度は腿の横にひたりと張り付く。手はまたするすると新開の肌の上を動き、シフターをクリックする時のように、荒北の指先が腿の裏の筋肉をぴんと掠めた。
 ぴく、と緊張して力が入って浮き上がった新開の筋肉の形を、ビアンキのロードレーサーを操る指が、そうっと膝の裏まで撫でる。
「――靖友、そろそろカンベンしてくれ」
 そこで新開は根を上げた。
 夏の部屋着など上はTシャツで、下は薄いスウェットのハーフパンツだ。体の変化があからさまにわかってしまう。そろそろ平静を保つのがつらくなってきたと両手を上げてホールドアップの真似をしてみると、理解したらしい荒北が、んァ、と微妙な返事のような呟きを洩らし、新開の足から手を離した。
 視線を逸らしている荒北の横顔は、まだ触り足りない、と言う表情が浮かんでいる。それは満足行くまで点検していないと言うことなのだろうが、好きな相手に触り足りない顔をされていると言う事実に、新開は、自分の肌から手を離されてなお理性がグラつくのを感じた。
 そして、平静を保つことをあっさりと諦めた。自分だけ確認されるのは不平等と言うものだ。
「靖友も触らせてくれないか」
「あァ?」
「足」
 言いながら、組まれた左の足首に指をかけると、荒北は視線を新開に向け、少し考え、値踏みでもするようにじっと見てから、好きにしろよ、と右足を新開の方へ投げ出した。
 新開は預けられた足の、引き締まった足首部分を手のひらで持ち上げ、きゅ、きゅ、と親指で緩く足首の骨のふちを押す。くるぶしをなぞり、マッサージのように筋を柔らかくさすってやると、荒北は心地良さげに、フン、と鼻先で笑う。
 しばらく足首の周辺をマッサージしてから、新開は背を丸めて頭を低くし、古い傷の多い膝の上に唇をつけた。
 うっすらと白い筋のような膝の傷跡に、出した舌先をそっと押しあてると、ぴくっと荒北の眉が寄る。
「オイ、まだ風呂入ってねェぞ」
「そんなの構わねぇ」
「このボケナス、オレが構うんだよ!」
「じゃあ指食うのは止めとくよ」
 そんなことする気だったのか、と言いたいのだろうと良くわかる、荒北のあからさまに引きつった口元を上目で見ながら、新開は笑った。足の指まで嘗めてみたかったが、嫌がられたいわけではなかった。
 新開は足首に触れていた手で荒北の足を持ち上げ、出した舌先で、膝の代わりに足首を嘗める。足指と比較してみれば許容範囲だったのだろう、荒北は、抵抗もせず足を預けている。ちらりと見上げた新開の視線の先では、唇を嫌そうにゆがめながらも、じっとこちらを見る荒北がいた。
 悪くはなさそうだ――新開は嬉しさに笑いそうになるのを堪え、チュッと音を立てて足首に口づける。そして、足の正面の真っ直ぐな骨のラインを舌でなぞった。
 男の足の皮膚は日に焼けて、ざらっとした刺激がある。滑らかではないが、新開に齧りつくたくなるような興奮を与えた。
 興奮に負けて途中、歯を立てると、ピクンと荒北の足が揺れてくっきりとふくらはぎの筋肉が浮かび上がる。その筋肉のラインを嘗め上げてやると、また荒北の足が揺れた。
 荒北はこういう時、声よりも、それを堪えて繰り返される呼吸が多い。足に顔を伏せて夢中で嘗める新開の頭の上で、荒北の呼吸は少しずつ乱れて行く。膝の上の、内側にまで舌を這わせるとそれは顕著で、息を飲むような短い呼吸が聞こえた。
 新開は荒北の徐々に荒くなって行く息も、それを変わらず堪えようとするところも、好きだと思う。
 舌で味わう荒北の足は、スプリンターの自分の足とは少し違う筋肉の付き方をしていた。新開は内股の皮膚を痕がつかないよう軽く吸ってから、荒北の膝の上から足の付け根に向かって存在する筋肉の上を、舌の腹でなぞり上げる。日焼け痕が途切れて白い、腿の上側は、日に焼けた皮膚よりも少しだけ滑らかだ。
 筋肉のかたさを舌先でつつく。「疲れた」と言ってサボる姿が目立つが、サボっているだけでは、これだけロードレーサーに乗る体にはならない。この足がペダルを蹴り、引き、ロードレーサーを進ませ、エースをゴールへ向けて押し出すのだ。オレたちのエースを。寿一を。そう思うと新開は感慨深さにじんと胸が熱くなるのを感じ――
「っ、オイ!」
 気付けば新開の唇と荒北の足の付け根が、目前となっていた。ぐいっと額を押しのけられ、嘗めるために出していた舌をべろんと伸ばしたまま、新開は目を瞬かせて荒北を見る。
 やり過ぎだと怒鳴られるかと新開は想像していたが、怒鳴られることはなく、無言で荒北の顔が近づいた。伸ばしたままの舌を唇で挟まれ、口内に吸いこまれる。
「や、」
 やすとも、と呼ぶ暇はなかった。
 荒北の唇は笑っていた、ような気がする。動体視力は良い方だが、それでも認識出来ないくらい、あっという間に新開は口づけられていた。がぶりと噛まれた舌を強く吸い上げられ、舌の根が震える。
 唇以外はとらわれていないのだからすぐ逃れられるキスだったが、新開が息苦しさに仰向きかけるだけでも、荒北は新開の厚みのある唇を噛み、舌を絡めて強引に引きとめる。その仕草に、クラクラした。
 顔を傾けて合わさる角度を深くし、誘うと、荒北はすぐに誘いに乗って来る。深く嘗めまわして来る舌に、新開は待ちわびてたとばかりに吸いついてやった。
 顔を寄せて甘噛みし、食らいつく。
 荒北は怯むことなく、舌を差し出し、また、新開の唇を貪り返して来た。
「やす、とも」
 顎まで唾液で汚れるのも構わずに交わした長いキスの後、はっ、はっ、と走った後のように短い呼吸が二人分、重なる。
「なァ、ん、だよ」
 頬を紅潮させ、浅い息交じりに応じる荒北に、ぐっと胸が詰まった。
 好きだ。そう思いながら新開が口づけると、荒北も顔を寄せてキスを返して来た。濡れた唇が触れて、離れて、ちゅ、と音を立てる。
 ――満たされ過ぎてクラクラする。
 ぼうっとした新開の頭は、だが、荒北にぱしんと平手で叩かれて、一瞬で平常時に引き戻された。
「やりすぎだ、ダァホ!」
「おまえも人のこと言えないぜ、靖友……」
 むしろおまえの方がひどい、と新開は肩を竦めた。散々もつれあわせた唇と舌がじんじんと痺れている。下肢も甘ったるく血が巡り、重いを通り越してそろそろ痛い。
 欲しいと伝えるようにギュッと抱きしめると腕の中の荒北が、あつい、と呟いた。ただの感想のようで、不服の声ではなかった。
「インターハイは、もっと暑いな」
「あァ、……ったく、めんどうくさい」
 新開の言葉に頷いた荒北は、新開の腕に応じるように背を抱き返し、背筋を撫でながら身を寄せて来る。触れあった腰は互いに興奮を示していた。
 これから触れ合うことよりも更にあついことを知ってしまっているオレたちは不幸なのかな幸せなのかな、と、新開はとりとめもないことを考えながら、荒北の足の付け根へと指を這わせた。



2011.07.14.