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 恋がどうとか愛がどうとか雑誌にもテレビにもラジオにもあふれていて、興味のあること以外があまり目に入らない真波の耳にも頻繁に入って来る。
 イヤフォンから聴こえて来る曲も愛がどうとか歌っていて、真波は廊下を歩きながらそのメロディを口ずさむ。イヤフォンのコードは、父親のCD棚で見かけたアルバムのデータを入れた携帯電話に繋がっていた。このリズムで漕ぐとケイデンスは80くらいだ、と思うと足がうずうずした。ほとんど夜のような夕暮れの中、坂を登るイメージが心に忍び込んで来ていてもたってもいられなくなる。校門を出たら乗れる。右手で牽いたLOOKの愛車に今にも跨りたい欲求を押さえながら、校門の手前でライトをつけると、白い光がともるのに気付いて、少し前を歩いていた生徒が振り返った。
 新開だった。
「帰りが遅いじゃないか、真波」
「新開さんだってそうじゃないですか」
 真波は、後ろのライトも点けながら応じる。
 紫紺混じりの夕焼けに、新開の赤っぽい髪が馴染んで溶けて、いまにも消えそうだ。本当にこの人ここにいるのか、と子供のような疑問が浮かんで、真波は立ち止まった新開に追いつくと、ワイシャツの袖を指先でつまんだ。本当にそこにいた。
 新開は真波の仕草に目を細め、幼い弟にでもするような、優しい声で言った。
「分かれ道まで一緒に行くか」
「え? あ、うん、暗いですね。送ってあげましょうか、二人乗り出来ないけど」
 真波は本気で言ったが、新開は声を立てずに肩を震わせて笑う。なんで笑われているのかわからない真波の背を叩いて、行こう、と新開は平静を取り戻した顔で言ったものの、声が笑いに震えていた。
 新開と並び立って校門をくぐる。ついさっきまでは、そのまま飛び出すように自転車に乗りたかったが、今は新開がいるので、真波はLOOKを牽いて歩く。
 校門を出たら外そうと思っていたイヤフォンを耳から引き抜いたところで、真波は、ふと隣の先輩を見上げた。
「新開さんも聴く?」
「ん?」
「ラブソング」
「なんかの新曲か?」
「ううん、ふるいやつ。親父のCDの中にあった、えーっと、愛がどうとか」
「愛がつく歌は山ほどあるからわからねぇよ」
 大雑把な説明に笑った新開は、真波に渡されたイヤフォンの片耳分を受け取って、どれ、と左耳に、愛がどうとか歌う曲を流す。
「ああ、この曲か」
「知ってる?」
「一昨年くらいにCMソングになってた」
「へー」
 新開が小さく口ずさみだした歌は、たしかにさきほどまで真波の聴いていた歌だが、愛してるとか好きだとか、見知らぬどこかの歌手ではなく、彼の口で、彼の声で紡がれると、まったく知らない歌のようで驚いた。ラブソングに興味はないが、新開が歌っているのはやけに新鮮だ。
「新開さん、ラブソング好き?」
「そういうわけじゃねぇけどよ」
 尋ねると、新開はくすぐったそうな顔で笑う。
「聴いてると気持ちいいんだ」
「そうなんですか」
「おまえが坂見て、寄っちまおうって思うのと似てるよ、真波」
「その歌が?」
 きょとんと目を瞬かせると、新開は笑ったままの目で、答えてくれた。
「この歌の内容」
「ラブソングなんでしょ?」
「そう」
「ふーん」
 短い言葉のやり取りを続けていると、寮と小田原への分かれ道になった。送ります? と真波が尋ねると新開はやはり笑って、耳に入れたままだったイヤフォンを真波に返すと、また明日な、と片手を振った。あたりは景色の端の方だけに夕暮れが残っている程度に暗くなっていたが、送らなくていいらしい。真波は去って行く新開の背を見ながら、なんだかあの歌が聴きたくて、戻って来たイヤフォンを耳に入れてみたが、さっきまで聴いていた新開の歌声が耳に残っていて、違う声がその歌を歌っている奇妙な違和感にすぐに外してしまった。
「しんかいさーん」
 遠くなった背に声をかけると、人影が振り返る。街灯に照らされた顔は、不思議そうに真波を見ていて、真波はにっこりと笑うと大きく片手を振った。
「あとでメールしますね」
「ん?」
 わかった、と、了承の言葉を残して、新開はまた背中を向けた。
 遠ざかって行く背を見送り、真波は携帯電話で宛先が新開隼人に設定されたメールを打ち始める。五秒もかからずに出来上がったメールは、たったの二文字だった。それで充分だった。
「えい」
 掛け声をつけて送信ボタンを押す。
 新開は、あのラブソングが、真波が坂を見つけてどうしても登ってしまうときの気持ちと似ていると言っていた。
 メールを送った瞬間、真波は、自分にとってはこの瞬間の方が、坂を見つけて、どうしても登ってしまうときの気持ちと似ていると思った。
 きっと意味合いは同じだけれど。






 暗い道を、新開が慌てて引き返して来るのが見えて、真波は声を立てて笑った。
「新開さん、返事早いですね!」













【すき】




2011.11.21.