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 オレは、福富のなにかになりたい。


 そう願う気持ちに気付いたのは、部に入ってまもなくのことだった。
 福富と仲が良い新開や東堂とも知り合い、気やすい連中は「靖友」だの「荒北」だの頻繁に声をかけて来る。
 頻繁に、と感じるのは、肘を痛めてからオレに声をかけるヤツが殆どいなかったせいかもなァ、と思いながら荒北がローラー台でいつもよりペースを上げて回していると、それではもたない、と通り掛かった福富が言った。確かに心拍数が上がりすぎていた。荒北は顎先に滴ってきた汗をグローブで拭い、ペダルを回すスピードをわずかに緩めながら、良く見ているもんだと感心する。
 きっと、主将や先輩の目の届かない場所を、経験者の福富はさりげなく見ているのだろう。前を向け、と福富の言った言葉で、鬱屈したストレスの渦の中で苛立つだけだった荒北が引きずり出されたように、自転車を漕ぎ前へ進むようになった人間はこの部に何人いるんだろうか――自分と同じようにローラー台で黙々とペダルを漕ぐ部員をちらりと横目で見て、荒北はそんなことを考える。



「福富があんな面倒見いいのってェ、中学で部長やってたから?」
 入部して二ヶ月も経った頃、練習が終わったあとの部室で新開と二人になったとき、ふと荒北は聞いてみた。
 自分と同じ年で、自分より遥かに速く走り、自分より余裕もあって……など、なにかのスーパーマンかあの鉄仮面、と荒北は、福富を掴み所のない生き物のように思っていた。荒北にロードバイクを馬鹿にされて憤ったときも、静かに、そして整然と荒北の考えをたたきのめした。
 掴み所のない福富のことを、荒北より新開の方が知っているだろう。新開は中学から福富と同じと言うし、福富のことを部内で一番知っているはずだ。
 その新開はワイシャツのボタンを留めていた手を止めてまで荒北に向き直ると、荒北の問い掛けに、やけに嬉しそうな顔で笑った。
「面倒見いい? 寿一が?」
 質問に質問で返された荒北は、意外な笑顔に腰が退けつつ、だってそうだろ、と頷く。
「あいつの言ってるようにすると速くなんだよ。よく見てるってことだろ、部の中ンことをよ。あいつ、来年のインハイ終わったら主将になるんじゃねーの」
「……靖友は寿一を強いって思ってるんだな」
「はァ?」
 さっきの笑顔のまま、新開は尻尾があったら振ってそうなほど嬉しそうだった。おとなしい犬がばさばさ尻尾を振っている幻覚が見えそうになって荒北は目をぱちぱち瞬かせる。当たり前だが尻尾はない。そして嬉しそうな笑顔は変わらない。
「なあ靖友、あいつも、他の一年やつら全員に構ってられるほどの余裕はないぜ。だいたい寿一のやつマイペースだしな。あ、余裕に関しちゃオレもだけど。うるさく見えるけど尽八もだな。一年の誰にもそんなもんないさ」
「あ?」
 マイペースに関してもそうだろ、とも思ったが、余裕がないと言う言葉の方が気にかかって、首を捻りながらも新開の言葉の続きを聞いた。
「靖友は、寿一が気にかかる走りをするんだろ」
 ばきゅん、と口で言いつつ、新開は人差し指で荒北の胸を指す。その仕草に、こいつけっこうノリやすいバカか、と思った。それよりも言われた言葉が一気に頭の中で膨れ上がって、呆れた気持ちが押しやられ、消える。
 気にかかる――なにかがあるのか。
「寿一にあるのは、自分は強いって自負さ。王者のな」
 ちょっとだけ誇らしい顔で、新開はそう言った。
 なんでこいつ他人のことでこんな嬉しそうにしてんだ、と荒北は頭の中で思いながらも、胸の中はさきほど新開に言われた言葉でいっぱいになっている。
 ――あの、あれだけ速いやつが、もし気にかかるようなことが。自分の中にあるのなら。




 その思いが、荒北の背中を前に突き飛ばした。




「福富。――オイ、福ちゃん!」
 寮の廊下で荒北が呼び止めると、振り返った福富はわずかに目を見開いていて、驚いているのがわかった。不意の呼び方に、どういう反応をするかいくつか想像をしていたが、そのどの想像よりも感情の表れた表情だった。
 ――なんだ、鉄仮面じゃねェなコイツ。
 荒北は愉快な気分になって、立ち止まるその肩をバンと叩いた。
「三倍どころか三倍以上練習してやらぁ! 見てろよ」
 宣言する荒北に、福富はいつもの眉間の皺が緩んだ、少し幼いような、きょとんとした顔で見返す。
「福――……ちゃん?」
 呼び方がおかしかったかと、若干の不安を持って荒北は再度福富を呼ぶ。福富は、その呼びかけにはっとした様子できょとんとしていた目を瞬かせた。
「……あ、ああ」
「なんだよ」
「荒北」
「あぁ?」
「おまえも笑うんだな」
「へ、ェ!?」
「初めて見たぞ」
 びっくりした、と真顔で言う福富に、そうだったっけかと荒北の方がびっくりしていると、通りすがりにやり取りを聞いていた東堂が背後で爆笑し始めたので、荒北は全力を挙げて東堂を追いかけ回してカチューシャを奪ってやった。




2011.10.31.