”I love you”







 日本語と言うものは便利だ。
 利益と利益をぶつけ合う交渉ごとには使わない表現も、山のようにある。美しいのはジャック・クリスピンの言葉だが、便利なものは日本語だ。蝉には通じない類の日本語が山のようにあるのだ。
「月が綺麗だぞ、蝉ぃ」
 ビールのアルコール分など、禄に岩西を酩酊させはしなかったが、多少は舌をなめらかにしたらしい。自分でも対した考えなく、するりとそんなことを言っていた。窓から見る都会の空は狭いが、眩い満月はちょうどビルの合間から見える角度に位置していて、充分に月見が出来る。月を愛でると言うよりも、酒を飲む口実でしかない中秋の名月を味わいながら、岩西は横でジュースを飲みながら月を見ているはずの蝉へ視線をやる。
 そこにあったのは、蝉の赤い横顔だった。完全に予想外だ。しらけた顔で月を見上げるか、月見、と言う体験したことがないだろうイベントに興味津々かの両極端な想像しかしていなかった。
「なんだ、蝉。勝手にビールでも飲みやがったか、このガキ! それとも風邪でも引いたかよ」
「なんっでもねえよ! バカ!」
 みんみんと喚かれた。喚かれる理由も浮かばない岩西は、はぁ? と片眉をひそめる。
「バカたぁ何だ、バカはそれしか語彙がねぇのか?」
「ご、ごい?」
「……お前、少しこの事務所にある新聞でも読め」
 呆れ半分、教育半分で言うと、不意に、蝉の顔色が変わった。ますます頬を赤くし、ぎりぎりと刺しそうな目で睨んで来る。そんな目で睨まれても、真っ赤な耳をしているので迫力などない。プロの殺し屋がする顔とも思えない幼い表情に、岩西はつい笑いそうになる。
「笑ってんじゃねえ! 新聞くらい読んだよ! 読んだから……」
「ん?」
「なんでもねえって言っただろ、うぜえ!」
「読んだからって話し始めたのはお前じゃねえか」
 正当な言葉に蝉はぐっと言葉に詰まり、大っ嫌い! といつも通りに喚いて大股で玄関に向かってしまう。
 帰んのか、と尋ねかけて、岩西はやめた。引き止めているような台詞だった。少なくとも、岩西自身にはそう思えた。
 蝉が去ってしまえば、一人で何か喋る癖もないので、岩西事務所の中は静かだ。静か過ぎて耳の神経を使うな、と岩西は、普段より小さな物音も拾う自分の耳を自覚しながら、部屋のテーブルに置きっぱなしにしていた新聞を手に取った。新聞は一面が表側になく、内側の、コラム欄のある面が表になって畳まれていた。きっと蝉の仕業だろう。端が上手に合わさっていない畳み方は、面倒だったのかもしれないし、新聞を扱い慣れずに苦戦して畳んだせいかもしれない。ぐしゃぐしゃな新聞の、表の記事に岩西は目を通す。新聞のコラムには中秋の名月に合わせて、月にまつわるエピソードが書いてあり――岩西は、自分の舌をなめらかにしたビールのアルコールに、クソ、と小さく罵り文句を吐き出した。


 コラムは、「月が綺麗ですね」と言う言葉を、とある英語の和訳とした話が載っていた。


 通じないと思っていた言葉がうっかり通じていると言う間抜け。など、喜劇でしかない。
 岩西は目の前が眩むのを感じて、両眼の上を手のひらで覆った。記憶の中のジャック・クリスピンの言葉に、このような時に効く言葉を探そうとしたが、見つからなかった。





2011.09.12.