午前一時に染み入る







 ソファでぐにゃりと怠惰な猫のような有様で眠っている生き物は、殺し屋だ。
 殺されているわけではない。殺し屋。人を殺すことを仕事にしている。
 名前は蝉と言った。長い金髪をいつもはくくっているが、今はぱらぱらとソファの上や、うつ伏せに寝ている彼の背中に散らばって、薄暗い部屋の中、わずかにきらきらと輝いていた。
「蝉ィ。起きろ、おい」
 おざなりに声をかける。そろそろ終電のなくなる時間だったが、このまま朝まで眠って行っても特に支障はない。一生懸命起こすのも面倒で、岩西は、かけた声で少しも目を覚ます様子のない蝉を、起こすのを諦めた。
 すう、すう、と小さく寝息を繰り返す唇が少し尖っていて、幼子のようだった。夜動くことの多い男の肌は岩西よりも白い。ソファから落ちているすらりと細い腕は、小さなライトだけついた室内でうっすら発光しているようにすら見える。
 蝉の腕は派手な筋肉に覆われるわけではない、細身の肉食獣の腕だ。今時の若者らしい手足の長さと、それから、細さ。
 岩西はソファから落ちている腕の、手首をそっと掴み、持ち上げた。その手首は、岩西の親指と人差し指を輪にしてじゅうぶん余る細さだ。こんな男が殺し屋だからこの世の中はわからない。
「こんな細っこい腕で人コロシてんだからなあ」
 呟いてみても聞く人間はいない。唯一この部屋にいる蝉はすっかり眠りの中で、起きる気配すらない。
 どれだけ深く眠っているのかわからないような、この生き物は殺し屋だ。
 岩西の事務所に雇われる社員だ。社長一人、社員一人の。岩西の唯一の、殺し屋だ。
 目を閉じると幼い印象の強くなる顔を見下ろして、蝉、と岩西は呟く。無防備に自分の手にとらわれている、蝉の利き腕である右腕に、岩西はそっと唇をあてた。




 ──ふ、と前触れもなく蝉が目を覚ましたので、岩西は内心驚きつつも、よう、と声をかける。
 ぱちぱちと眠い目を瞬かせた蝉は、ん、と子供がむずがるような声を洩らした後、手首を掴まれていることに気づいて飛び起きた。その拍子に、岩西が掴んでいた手も外れる。
「……なんかしてねーだろうな」
「誰がするか! 腕が落ちてたからソファに乗せてやろうとしただけだ、感謝しろ」
「マジか?」
 蝉は自分の顔をぺたぺた触り、手の甲で擦り、落書きでもされていないか確かめる仕草をしている。ずいぶんとガキくさい悪戯をすると思われているもんだ、と力が抜ける気持ちで岩西が溜息をつくと、蝉にじろりと睨み上げた。
「しょうがねえだろ、お前は大嘘つきだからな」
「へえ。そりゃ、よくご存知で」
 そこまで疑われては気分が良くない。岩西はニヤリとわざとらしいほどにいやらしく笑うと、蝉の腰に腕を回し、ぐいと抱き上げた。細い腰を腕で捕らえ、荷物のように片腕に抱えてやる。
「おい、蝉。やるぞ」
「はぁ!?」
 何事かと呆気に取られて抱えられた蝉は、岩西の──寝室へ向かう足取りに驚いて、意図に気づき、腕の中でもがく。
「ば、バカ、アホっ、なんで急にっ」
「うるせえな、暴れんな。オレは大嘘つきなんだろ? じゃあこれも嘘だ嘘」
「嘘だってのが嘘なんだろ、岩西っ」
「さあて?」
 細身の肉食獣を片腕に抱え、岩西の足はまっすぐ寝室へ踏み入る。飽きることなくみんみんうるさく怒鳴り続ける蝉に、やっぱりこいつは「蝉」だな、と思って、岩西は笑った。
 うるさい声は、寝室の壁に閉ざされ、そして、岩西の口に塞がれる。





2011.05.19./「こんな細っこい腕で人コロシてんだからなあ」はTさん案の台詞