Living will







 岩西の前で眠っている青年の顔はあどけない。
 空には月がこれ以上ないほど太り、岩西の腿の上に頭を置いて眠る蝉の顔を、太陽ほどではないが、はっきりと照らしていた。
 しん、とした場所だった。腿の下には草がある。草原らしい。芝生のようなちくちくした感触がしない、やわらかい草の上に、蝉は体を投げ出し、やわらかくない岩西の腿の上に頭を置いて眠っている。

 蝉の薄く開いた唇からは、目立つ八重歯が覗いている。唇の端から見える尖った歯は目立つが、歯並び自体はきれいで、岩西の並びの悪い歯とは違う。岩西は顎が小さいせいで、蝉と同じ本数の歯は、ガタガタに生え揃った。
 岩西は、蝉の首の裏側に腕を差し込み、持ち上げる。とろりとした瞳が、瞼の間から覗いた。至近距離の睫が揺れる。
 唇の奥に舌先を差し込んで、岩西は、蝉の下側の歯を嘗める。抵抗はなかった。おずおずと、年相応よりも幼い印象を覚えるほどおずおずと、顎が動いて口が開く。下の歯を舐め、開かれた奥へと岩西は進んだ。少しこわばったような、薄い舌に触れる。絡めとる。蝉はもう瞼を伏せている。
「ん……」
 湿った舌先を吸ってやると、蝉は喘ぐように息を漏らす。頭を抱き上げられた体勢で、蝉の右手が行き場を求めるように動くのが、岩西の視界の端に映った。手を伸ばし、夜の空気を掻く指先に、岩西は自分の指を絡めて握る。ナイフを握る手は、皮膚がかたくなっていた。

 なぜこんなことをしているのか。岩西は、自分でもわからなかった。酒を飲みすぎた時のような、意識の一部に霞がかったような不確かさがある。だが少しも不安ではなく、ひどく落ち着いていた。警戒心が欠片もわかないことなど珍しい。新宿。あの町で、警戒心を忘れたことなどあっただろうか──いや、なかった。警戒心を忘れた瞬間、死ぬ可能性は増える。女を抱いている時でも、どこかで警戒の意識があった。故意の油断は死の可能性を増やす。そんな手間のかかる、アホらしいことがあるか? 自殺に近づくことから、意識してか無意識か、岩西は離れようとしていた。

 そこまで考えて、はた、と気がついた。

 そういえば俺は死んだんだったか。
「お前も死んだんだったっけな、蝉」
「『生きているように死んでたくない』」
 噛み合わない、返答でもない言葉が蝉の口から出て来て、なんだ、これは俺の夢かと岩西は思いかけたが、べえ、っと蝉の口から舌が突き出され、幼い反抗表現を向けられた所で、俺の夢でもないようだ、と知る。初めて会ったあの頃から、蝉は、時々、岩西の想像から少しだけ外れたことをして来た。
「……とは、ジャクリーンも言わなかっただろ。だから気づかなかったんだろ。岩西、お前さ、今頃かよ。気づくの遅ぇよ、ばーか」
「ジャック・クリスピンだ。おい、蝉。お前、いい加減わざとだろ?」
 岩西が少し高いトーンで不服を投げると、ぎゅっと不機嫌そうに蝉の眉が寄る。そして、喋るより有益だとでも思ったのだろう。噛み付くようなキスが来た。実際、歯がぶつかった。
「痛ぇな」
 岩西も眉間に皺を寄せ、キスを返す。
 鼻先を軽くぶつけて、じゃれるようにすると、蝉は一瞬息を呑んで、視線を彷徨わせる。ふっ、と唇に息をかけてやる。ビクン、と体を震わせ、何事かと言う目で見るので、ニヤっと笑う。むっとして、蝉は、岩西の唇を齧るように歯を当てに来る。犬歯が少し食い込んで、痛い。
 ひひ、と笑って、金に黒の混ざった髪を撫でながら、岩西は、キスの距離から顔を離した。指先に、蝉の襟足の髪をくるくると纏わせる。
 動く岩蝉の指にうなじをくすぐられ、蝉はくすぐったさをこらえるように眉を寄せたままでいたが、「蝉」と呼ばれ、ふっと眉間の力を解く。
「なんだよ」
「蝉」
「だからなんだっつーの」
「見ろよ、月がきれいだ」
「は?」
 なに言ってんだ、と言葉がなくても顔を見ればわかるような、あからさまな怪訝な顔で蝉が岩西を見る。月がきれい、などと、情緒豊かな台詞が岩西の口から出ることに、怪訝を通り越して退いている。
「なに言ってんだ、気持ちわる……」
 言葉でも言い、だが、蝉はそこまで言って口をつぐむ。
「…………ジャック・クリスピン曰く?」
「ひひっ」
 まったくわかっていない青年に、岩西は笑った。
 この青年は、自分の自慢になった。だが、もう少しばかり、本を読ませておくべきだった。生に後悔があるとすれば、その程度だ。
 愉快な気分になった岩西が、蝉の口に口づけると、蝉は、月夜でもわかるくらいに赤くなり、驚きにまるく目を見開くので、ますます愉快になった。草の上から拾い上げて、膝の上に抱き上げる。次の瞬間すべてが消え去っても、こいつを連れて行く。そう思いながら、岩西は蝉を抱きしめる。






2011.04.19.