早春散歩







 高校の卒業祝いに何でも好きなものを買いなさいと叔父に言われた蘇芳は、本が欲しいのだと気恥ずかしそうに言った。



「夜だとこの並木道も人が少ないですね」
「そうですねえ、駅の裏の方は飲食店が多いので、あっちに人が集まっちゃうみたいですよ。そろそろお夕飯時ですから」

 街中は車が停めづらいからと電車で来た蘇芳とヤシロは、市で一番大きな本屋から、自宅へ向かう電車が出る駅までの並木道を連れ立って歩く。
 蘇芳が選んだ本は、古い絵本だった。
 メリーゴーランドが描いてある表紙の本。レジで並ぶ間、昔遊園地に行った後、母親に買って貰ったと蘇芳はヤシロに話した。気恥ずかしそうに、だが、楽しい思い出話をする時らしい、ヤシロが思わず目を細めてしまう笑顔だった。
 その時のことを思い出したヤシロが、そっと目を細めて蘇芳の横顔を見やると、視線に気づいた蘇芳がちらりとヤシロを見上げて来る。ニッコリ笑ってみせると、なぜかキョトンとされた後、真っ赤になられた。一瞬怪訝に思ったが、ヤシロはすぐに合点が行く。ああ、この格好のせいか。
 二人で出かける時に、ヤシロが運転する車ではなく徒歩で並んで歩くことは珍しい。徒歩で村の外を歩くため、悪目立ちしないよう、ヤシロの格好は、いつものメイド服ではなく、町並みに溶け込む、成人男性が着ていて違和感のない服装だ。見慣れないヤシロの姿に、蘇芳は時々我に帰ったように照れる時がある。
 にゅふふ、といつも通りにヤシロは笑った。

「本だけでよかったんですか? 旦那様はたぶん、時計だとか、車を選んで貰うつもりでカードを渡したんだと思いますよ」
「車はさすがにちょっと。いいんですよ。尊也さんにも自信持って言えます、これが欲しかったんだって。火事になった時にだって持って逃げますよ」

 幼い頃、母親に読んでやったのだと蘇芳は話した。読んで貰ったのではないかと思いながらヤシロは思い出話を聞き、大事そうに蘇芳の腕に抱えられた本屋の袋へ視線をやって──少し、幼子のような独占欲を覚えた。

「それだけ大事にされるご本に、ちょっと妬けちゃいます」
「はは、ヤシロさんにも読んであげましょうか?」
「ぜひお願いします。旦那様には内緒ですよ、羨ましがっちゃいますから」

 ヤシロの冗談めかした言葉に、フヒヒ、と悪戯っこの顔で蘇芳が笑う。
 笑う蘇芳を見て、ヤシロは思う。同じ歩幅とリズムで歩くこの並木道の風景を写真に収めておけたら、きっと自分は火事の時に持って逃げるだろうと。

「ヤシロさんは火事の時、なに持って逃げます?」
「そうですねえ、ヤシロは荷物が少ないんですよー」
「ポケットに七つ道具が入ってるくせに、おヤシロさん」
「にゅふふ、あれは買い直せますから」

 婀娜っぽい視線で軽口を叩く蘇芳に、しれっと返す。あんなもの消耗品だ。蘇芳に使った思い出はあれども、その時の蘇芳の姿や、様子や、声なんかの記憶さえあれば、物などどうでもいい。

「ヤシロの大切なものなんか本当に少ないんです」

 同じ口調で、だがほんの少しだけ重みを含んだ言葉は、蘇芳に察されたようだった。真っ黒い少年の目がヤシロを真っ直ぐに見つめ、伺う。

「あの、ヤシロさんの大切なものって……」
「────わかって言ってるのか?」

 口からするりと零れた言葉に、蘇芳は足を止めた。ヤシロも足を止め、人通りのほとんどない夜の並木道で見つめあう。──蘇芳の真っ黒い目に街灯の光が映って、まるで夜空の星のようだった。だが今は自分以外の姿を映したくなくて、ヤシロは身を屈め、ぐっと顔を近づける。黒い双眸に、ヤシロの微笑む顔だけが映った。

「お前、知ってるよな。奥水ヤシロが誰を好きで、誰に恋をして、誰のことが一番大切かなんて────わからないなんて言わせないよ」
「ヤ……」
「なーんて。ささ、帰りましょう、蘇芳様。旦那様が、夕飯に置いて来たカレーを、温めるのを通り越して焦がしてないかヤシロはちょっとだけ心配です」

 そう言って姿勢を正し、手を差し出すと、蘇芳はぎゅっと手を握ってくれた。ヤシロがニッコリ笑って一歩歩き出すと──繋がった手に重みがかかった。

「蘇芳様?」
「ゆっくり帰りましょう」

 繋いだ手を引き止めるように握った蘇芳は、そう言って、さっきよりも半分くらいのペースで歩き始める。ヤシロも同じペースで歩きながら、急にどうしたのかと目を瞬かせていると、蘇芳が身長差ぶん見上げながらうっすら頬を赤くしてニヤニヤ笑った。

「忙しないデートじゃなくてもいいじゃないですか。あー、ほら、俺だって恋人とのデートの帰り道は名残惜しいんです」

 奥水ヤシロが誰を好きで、誰に恋をして、誰のことが一番大切か。
 わかっていると、蘇芳は言外に言って、並木道を歩く。ゆっくりとした足取りで。家に辿り着けば終わってしまうデートが名残惜しいのだと。

「ねえ、蘇芳様。戻った時、火事になっていたらどうします?」
「そりゃ、ヤシロさんと一緒に尊也さんを助けます」
「ヤシロもそう思ってました」

 恋人の手をきゅっと握り直して、ヤシロは笑った。
 
「ヤシロは蘇芳様と旦那様との毎日が大好きですから」

 蘇芳にそう微笑みながら、今の自分を幸福だと思った。
 今までの自分はひどく不幸だったのだろうと、認めながら。






2011.04.14.