Enough is a feast




 五時のサイレンは、幼い悦史にとって敵わない敵だった。
 幼い悦史の世界における規律として存在していた。
 蘇芳はその規律に従って帰ってしまう。あれは悦史から蘇芳を奪って行く、敵だ。
 五時のサイレンが鳴ったら蘇芳は帰ってしまう。蘇芳がずっとここにいればいいのに。蘇芳とずっと一緒にいたい。好きになればなるほど思った。

 早く大きくなって、蘇芳と一緒の学校に通って、蘇芳ともっとたくさん遊んで、いつか五時のサイレンが鳴っても一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒に一緒にああ誓ったのにどうしてお前は行っちまうんだよ!!









「悦史」

 呼ぶ声で目が覚めた。
 目が覚めた、で良いはずだ。こちらが夢じゃない。悦史は寝汗で濡れた首筋や背の不快さを気にするよりも、そのことばかり必死に考えた。あれから十年経っている。蘇芳は悦史のもとに戻り、村も後にして、あの時に悦史の敵だったものはもう何もこの世に存在しない。そのはずだ。――こっちが夢ではない。現実だ。
 もしもこっちが夢だったら世界をぶっ壊してやる、と全身を緊張に強張らせて見開いた悦史の両眼を、蘇芳がひょいと上から覗きこんだ。

「す、お……う」

 夢の中の幼い容貌ではない、十年経った男の顔が悦史を見ている。その名を呼んだ悦史の声も、十年前の、少女と偽れるものからすっかりと声変わりし、男のものになっていた。悦史のいつになく鈍い反応と緊張感に、無防備な表情だった蘇芳の顔にもわずかに緊張が走る。

「悦史? もう夕方だぞー」

 鼓膜を震わせる蘇芳の声に、悦史はようやく力を抜いた。心臓がどくどくと脈打っている。悦史は寝ている間に強く握りしめていたらしい拳をぎしぎしと音がしそうな動きで開き、腕を持ち上げ、蘇芳の頬に触れさせた。
 蘇芳の頬を撫でた手は、ぬるりとした感触で滑った。
 奇妙な感触に二人揃って目を見張る。蘇芳の動きの方が早く、蘇芳は悦史の手首を掴んで何事かと手のひらを検分すると、自分の頬に血をつけたまま微かに肩を跳ねさせた。伸び気味だった爪が手のひらに食い込んだらしい小さい穴のような傷口が四つ、手のひらに開いていた。

「……うわ、血! どんだけ強く握ってたの、えつっさん!?」

 爪切り爪切り、と蘇芳は慌てて爪切りを置いてある棚に向かう。取り残された手を持ち上げたまま、悦史は周囲をようやく見まわした。大丈夫だ。これは夢などではない。十年前のあの時のことの方が、ソファの上でうたた寝をしていて見た夢だ。
 こんな傷どうってことない。すぐに治る。慌てる必要もないのだが、蘇芳が自分のために何かしている姿を見ているのは、甘えた気持ちが満たされて、悪くなかった。そう思いながら起き上がる。
 ソファに座り直してから見た自分の手のひらには赤黒い血が薄くついていて、そして、傷跡はやはりすっかりと塞がっていた。

「あ、そうか」

 爪切りを携えて戻って来た蘇芳はソファの前に膝をついて座ってから、やっと悦史と同じように手のひらを見て傷がないことに気付く。それから濡れた血をティッシュで拭い、手の甲が上になるように悦史の手をひっくり返した。

「でも一応、切っとこうぜ。またなると痛いし」

 蘇芳の言葉に悦史は返事をしようとしたが、喉が塞がれたように息苦しく、声が出ない。黙っていると指先を摘まれ、蘇芳の持った爪切りが悦史の手元に近づく。延び気味の爪を切り落とす前に、蘇芳はうかがうように悦史を見た。悦史は顎先で応じる。許可を待ってから、蘇芳は悦史の爪を切り始めた。自分の頬についた血など、悦史の傷に気を取られて忘れているようだと気付いて、悦史はもぞもぞと尻が落ち着かない。
 爪を切られるなど初めてだ。もしかするとうなされていた自分に対して蘇芳が気を遣っているのかと思うと、甘やかされているとも言えるこの状態に対して穏やかな気持ちが満ちたが、同時に舌うちが漏れた。欲しかったものは、ただひとつ欲しかったものは手に入れたのに、まだ頭の端に闇をこびりつかせている自分自身に対して。
 ぱちん、ぱちん、と爪切りの音だけが部屋に響く。悦史の冷えた指先は、爪を切るために預けた蘇芳の手の中で少しずつ温まって行った。

「蘇芳。今何時だ」

 最後の爪をぱちんと切り落とした音と同時にやっと悦史の喉から出た声は、掠れていた。蘇芳は切り落とした爪をゴミ箱に捨ててから、ジーンズのポケットにつっこんでいた携帯電話を取り出して時間を確認する。

「んー、五時過ぎたなぁ。夕飯どうする? 俺がえつっさんの美味い手料理で外食出来ない体になりかけてるのと、月末の懐事情を鑑みると、」
「訊く意味ねぇだろうが」
「悦史のご飯が食いたい」

 蘇芳の素直な言葉に、最初から言えよ、と言い返しながら緩みそうになる頬を堪えたら、眉間に皺が寄った。蘇芳ににやついているのを見透かされるのも、機嫌が悪いと思われるのも御免だ。悦史は自分の頬についた血を忘れてしまった様子の蘇芳の頬をティッシュで拭ってやると、さっさとソファから立ちあがって、冷蔵庫の中身を思い返す。料理を作るのは、いつでも蘇芳のためだった。いない時でも。

「悦史って照れ屋だよな」

 ふと思い出に遠くを見かけた悦史の意識を、蘇芳の言葉が一本釣りのごとく一気に引き戻した。何の話だと座ったままの蘇芳を見下ろすと、彼はいつも半眼気味な目をますます細め、なぜか、にんまりと笑みを浮かべていた。その表情のまま蘇芳は立ち上がり、悦史の顔を覗き込むように身を寄せて来る。
 細められた蘇芳の目には、隠しきれない――隠そうともしない情が浮いていた。

「悦史、かわいい」
「はぁ?」
「りょうちゃんの顔がきれいなところ、俺が来るの楽しみに待ってるとこも、オレのあげたもの大事にしてくれるところも。案外世話焼きなところも好きだ、悦史が嬉しそうにしてくれるのが好きだ」

 どこが好きなのかと蘇芳に問いかけた十年前の思い出が、悦史の脳裏に蘇った。同時に、その時の心臓が弾けそうなほどの嬉しさや照れ臭さ、蘇芳が好きだと言う気持ちも蘇って、悦史の頬は紅潮する。
 その頬に、追い打ちとばかりにキスをされた。

「好きだよ、悦史」
「て、テメェ……!」
「あれ、嬉しくない?」
「うるせえ嬉しいよ嬉しくて悪いか俺だってお前が嬉しそうにアホヅラ下げてんのが嬉しいし可愛くて仕方ねぇよこれでいいかこのバカッ!」

 立ち上がった時から赤くなっていた耳をますます赤くして悦史ががなればがなるほど、蘇芳は嬉しそうに声を立てて笑った。








2010.09.27.
充足こそが、ごちそう。