「腹が減った」
そう言いながら後ろから絡んで来る鴇也の腕を邪魔に思いながらも、仁介は振り払わず、包丁で玉ねぎの頭と尻を切り落とす。
「ごめん、すぐ作るよ。チャーハンでいい?」
鴇也へ返事をしながら玉ねぎを切る仁介に、鴇也は、きゅう、と鳴る腹の音で応じた。不服が出ないので、仁介はトントンとまな板と包丁が当たる音を立てながら玉ねぎを切る。後ろから腹へかけて回された鴇也の腕のせいで、どうにも切りづらいが、鴇也は腕を離す気などないようだった。
「仁くん。兄さん、仁くんを食べたいって言うのは我慢してやるからビールを寄越せ」
「何その二択」
「仁くんがどうしても、らめぇビールなんかよりオレの方構ってぇって言うんなら兄さんは」
「玉ねぎ切り終わったらすぐにビール出してあげるから!」
台詞の途中で返事をし、不穏な気配を断ち切ると、チ、と悪役のような鴇也の舌打ちが仁介の耳元で聞こえる。
舌打ちを聞こえなかったことにし、作業しづらい体勢のまま、いつもよりのろのろと玉ねぎを切っていたら、仁介は、徐々に自分の瞬きの回数が多くなっていることに気づいた。
やがて瞬きだけではフォロー出来ないほどに両目を淡い痛みが覆う。
玉ねぎは、素早く切らなくては目に沁みる。鴇也に絡まれてもたもたしているうちに、まんまと沁みてしまったらしい。ぐす、と鼻を啜って袖で涙を拭おうとする仁介の顔を、背後から鴇也が覗き込んだ。
「どうして仁くんの目からは涙が出てんだ」
「兄さんが邪魔して来て手早く玉ねぎを切れなかったせいだよ」
若干の厭味を込めて言うと、べろんと鴇也の舌が目尻を嘗めて来て、その唐突さに、ひ、と仁介は喉を引きつらせた。咄嗟に目を閉じる寸前の仁介の視界には、鴇也の赤い舌の印象が焼きつく。
「に、にいさ、ん」
「泣くなァ、仁くん。兄さん勃っちゃう」
「もう勃ってるくせにいいいい!」
目尻から頬にかけて嘗めた鴇也が、尻に何やら固い感触をぐいぐいと押し付けて来るので逃げようとすると、耳に「仁介」と名を呼ぶ声が、息と一緒に吹き込まれた。声と息に肌を撫でられ、仁介はビクリと目を見開きながら、一瞬背骨がぐらついたような気分を味わう。
ぐにゃりと腕の中で力の抜けた仁介に、鴇也は鼻先で上機嫌に笑い、伸ばした舌先で耳朶を掬うようにして口に含む。鴇也の鋭い犬歯が柔らかな耳朶に食い込んで、そのせいで仁介は、奇妙に高い声が自分の口から洩れる羞恥に赤くなる。
「バカ、兄さん、包丁持ってんだぞ……ッ」
「大丈夫だっての」
気づけば、手に持っていたはずの包丁は洗い場の中へ移動している。仁介が目を閉じてぐにゃぐにゃしていた隙に、鴇也が移動させたのだろうか。まるで魔法でも使われたような気分で、沁みて痛む目を瞬いた仁介の目に、また鴇也の赤い舌が映った。
「ぎゃあ!」
「あー、しょっぱいしょっぱい。ほらほら、兄さんが高血圧になっちまうぞ」
慌てて目を閉じる仁介の目尻や頬を、鴇也はまた背後から嘗め回す。ちゅっちゅちゅっちゅとリズミカルに自分の頬に吸い付いていく鴇也に、仁介は諦めたようにはふっと息を吐いて、首を捻り、背後を振り返った。
鴇也の唇と仁介の唇の位置が合う。間近で、鴇也の薄い色の瞳が一瞬見開き、すぐに、甘く蕩けた。
「仁くんはいい子だな」
甘やかす声は仁介の安心を誘い、それだけで仁介はまた力が抜けて行く。背後から押し付けられた固い感触とは裏腹に、鴇也はひどく優しく、柔らかく、仁介の唇を嘗めた。
「兄さん、犬みたい」
「ああ?」
「オレが泣くと嘗めるだろ。ほら、あの時とか」
「ヤってる時か」
「まだ外が明るいうちからあからさまなこと言うのはオレの教育上よろしくないんじゃないかな」
悪あがきのようなことを仁介が言うと、にやぁ、と鴇也の唇は歪む。瞳にも、悪戯っぽい光が宿った。仁介の反射的に逃げかけた腰は、鴇也ががっしりと抱いているし、背後には腰を押し付けられていて逃げられない。
「外が暗くなったら、仁くんの教育上? よろしくない? コトなんかを言わせてもいいって?」
「兄さん、後で耳かきしようか。オレの言葉が何か変換されて届いてるみたい」
そう言いながら仁介が痛みの残る目を瞬くと、また涙が滲んだ。それも鴇也はしっかり嘗め取って行く。くすぐったさに肩を竦める仁介を抱きしめながら、鴇也の舌先は、仁介の睫の隙間までなぞって行く。
濡れた感触が離れるのを待って目を開いた仁介の目には、自分を見つめる鴇也の顔が映る。
「……そういう時に涙嘗めまくって、高血圧になっても知らないよ」
「オレとヤってる時のお前の涙は、しょっぱくねぇよ。ま、仁くんが他のヤツとヤる時なんか一生ないんですけどね!」
「わかってる、わかってるって……」
そんな時にはどんな地獄絵図が繰り広げられるかわかったものではない。仁介が想像すらしたくない、もっと言えば、想像することすら出来ない仮定に苦笑いしていると、鴇也はまた仁介の目尻を嘗めに来た。目を閉じた仁介が、チュ、と額でリップノイズが鳴ったので目を開けると、鴇也が今度は唇に触れるだけのキスをして来る。
「交感神経の刺激で出る涙はしょっぱい。副交感神経の刺激で出る涙は、味が薄いんだ」
「兄さんが涙で利き酒みたいな真似してるとはさすがに思ってなかった。……つまり、そういう時のオレの、その、味は、副交感神経の刺激ってこと?」
「そう。嬉しい悲しいで出るヤツだな」
上機嫌な声に仁介が振り返ると、鴇也は、唇の端を吊り上げてにんまりと笑っていた。腰を抱いていた鴇也の両手が、意図を持って手のひらを仁介の腹に押し付け、撫で上げる。服ごと撫で上げられて捲くれたTシャツの裾から、鴇也の握力のない左の小指だけが直に肌を掠め、仁介は一瞬息を呑んだ。
「なあ、仁介。……オレに抱かれててそんなに嬉しいかよ」
鴇也の甘ったるい声は、応、と言う答えしか認めないような自信に満ちていた。最近仁介は、それに自分への甘えがあることを、ほんの少しだけ気づき出している。
「嬉しいよ」
「――――……」
素直に言ったと言うのに、鴇也はなぜか何も言わなかった。キョトンと目を開いて、何を言われているのかわからないとでも言うような、不思議そうな表情で顔が固定されている。
頬を赤くした仁介が、何か言え、と言うか、冗談で流すかの判断をしようと思考を切り替えそうになった瞬間、鴇也は仁介をまな板の上へ押し倒す勢いで抱きしめて来た。
「兄さん、痛、痛いってえびぞりにな、ぎゃああああああ」
「ああくそっ! 仁くんったら、兄さん勃っちゃうって言ってんだろがァ!」
「だからもう勃ってんだろおおおおおお!!!」
仁介の悲鳴など、鴇也の前では甘いじゃれ合いにしかならない。
そして鴇也のキスに塞がれてしまえば、それ以上、叫ぶ気になどならなかった。
2010.01.03