悪い男




「叔父さん、今日は帰れないって」
 学校帰りに月上の家へ寄った日の、世間で言う夕飯時をすでに回った時刻。
 さすがにそろそろ帰らねーと、と話していた矢先、自宅電話にかかって来た電話の応対を終えた月上がそう言った。

 玄関近くの食卓で、出して貰っていたコーヒーの残りを飲み干しながら、陽介は電話を置く月上の顔を見上げる。
 刑事である堂島が帰れないと言う事は、何か事件だろうか。先日直斗を救出したばかりでまたすぐに事件とは今までに比べてペースが速い。
 ぞくりと背筋に走る寒気にも似た嫌な予感に、コーヒーカップを握った陽介の手に力がこもる。
「……アレ絡みの事件か?」
自然と声がひそめられた。
「いや、」
 首を横に振ってから、酔っ払い、と月上は可笑しげに小さく笑う。
「え?」
「酔っ払い。呂律がだいぶ回ってなかったから家まで帰るのやばいんだろう。途中から足立さんに電話代わったくらいだし」
「あ、ああ、事件じゃないわけね…」
 ほっとして、緊張の反動で思わず力が抜ける。
 じゃあ今夜は菜々子ちゃんと二人なんだなと月上と話していたら、だいじょうぶかな、と心配そうな菜々子がテレビの方から寄って来た。
「…おとうさん、風邪ひいてたのに」
「アレ? 堂島さん風邪か?」
「そう。今朝風邪っぽかったから、思ったより回りが早かったのかもな…ま、アルコール殺菌だと思えばちょうど良いのか」
「ちょっと違くね?」
 随分と大雑把な事を呟く月上に思わず突っ込みを入れる。
 菜々子は意味がわかっていないのか、心配そうな顔で月上を見上げていた。
 大雑把な事を呟いていた男は、優しく笑んで菜々子の頭に軽く手を乗せる。
「今から朝までぐっすり寝たら、叔父さんも朝にはきっと元気になるよ。足立さんも泊めてくれるそうだから大丈夫だ」
 その言葉に納得して、うんと頷く菜々子の頭を、月上の手がくしゃくしゃとかき混ぜた。サイド二つ結びにした髪の毛がもつれる。
 おにいちゃんぐしゃぐしゃになっちゃうよ、と上がる抗議の声は、もつれた辺りを指でとかして解決し、さて、と月上は冷蔵庫へ視線をやった。
「とりあえず夕飯食うか」
「菜々子おてつだいするよ?」
「ん、ありがとう」
 会話の内容からすると、今日は惣菜ではない夕飯の日のようだ。
 じゃあ俺は帰るわ、とカップを片付けに立ち上がろうと姿勢を正す陽介の肩を、そっと月上の手が押しとどめる。
「陽介も食って帰らないか?」
「ん、兄妹水入らずゆっくりしろって。明日休みだし」
「いいんじゃないの、家族になれば」
「は?」
「陽介も兄弟ぶって行けば問題ない」
「いやいや、きょうだいぶるってなに!!?」


 家長への報告なしの宿泊(しても今ではおそらくいびきが返ってくるだけだろう)を遠慮し、一度は帰ると断ったものの、
 ――菜々子だって陽介に泊まってって欲しいよな。
 とか、
 ――夜三人でトランプやろうかババ抜きも二人より三人の方が楽しいし。
 とか、
 ――明日休みだから三人でおはようして朝ごはん食べてどこか遊びに行こうか。
 とか言われた菜々子が目を輝かせ出した時点で、もう負けは確定したようなものだ。


「着替え持って来てねーよ」
「俺の貸すよ」
「急によそんちにって迷惑じゃね?」
「俺も菜々子も嬉しいよ。それとも、陽介、もう家でおばさん夕飯作ってる?」
「いや…」
 忙しい両親は食事の時間帯もまちまちで、陽介とかち合う事はジュネス営業日には難しい。朝は一緒に食べられても、夕飯は適当に、が定番だった。
 なので世間一般の夕飯時を過ぎてまで外にいても、何か食べてしまっても問題はない。
 元々なぜこんな時間までいたのかと言うと、おとうさん帰ってくるのおそいのかな、と少し寂しそうな顔をする菜々子が気になったからだ。
 月上に聞くと、堂島はこの一週間忙しかったようであまり菜々子と顔を合わせていないとの事だった。
 それで今日はついつい長居をしてしまっている。
 そんな所に、兄弟ぶると言ったおままごとのような設定に沿ったらしい菜々子から「陽介おにいちゃん…?」などともじもじ呼ばれてしまえば、ご馳走になろっかな! と言わざるを得ない。
「うっわー、もう超カワイイな菜々子ちゃん!」
「か、かわいくないよ」
「うちの菜々子はやらないぞ」
「ちげーよ!!」
 ふざけて冗談を言い合ってから(ただ、やらない、は本心だと陽介は思う)、夕飯の支度するから手洗っておいで、と菜々子に言う月上は、まるで父親のようで、陽介はその微笑ましさに思わずほくそ笑む。
 が、見逃さない月上にすぐにわき腹を突かれて一瞬悶絶しかけた。



 月上の料理は弁当でも時々腕前を味わっていたが、夕飯のコロッケもまた絶品だった。
 出来立ての味わいは、冷めても美味い系の弁当とはまた違っていてそれも美味しい。
 そして菜々子の成型したそれはさすが女の子とでも言おうか、ハートの形をしていて、照れくさくも嬉しい。
 この辺りで、陽介の脳裏にクマが知ったら激しく羨ましがるだろうなと言う想像とその光景がリアルに浮かんだが、今は無視してコロッケを味わ事にした。
 クイズ番組を見ながら賑やかな三人での食事を済ませ、食後のデザートにはアイスまで食べる。
 菜々子を風呂に行かせている間に月上と陽介で片付けを済ませ、その後のババ抜きは、はしゃいだ菜々子が引きの強さで三連勝した所で終了となった。
 菜々子が眠そうに目を擦り出したからだ。
「菜々子、もう眠いんだろ?」
「うん……でも」
「明日起きても陽介はいるから」
 月上の優しい声音に、菜々子の視線が陽介へ移る。
「朝ごはんいっしょにたべてく?」
「おう、勿論! 食ったらジュネスに行こうか菜々子ちゃん」
 毎回芸なくて悪いんだけど、と付け足して陽介は少し眉間の寄った額を押さえる。
「…俺だけ泊まったの、クマが拗ねてっだろうしな。お前と菜々子ちゃん連れてかなかったらヨースケだけズールーイーって喚かれそうだよ、ったくあの寂しんぼ」
「……うん」
 困った顔で答える陽介に眠そうな顔で微笑んで頷き、おやすみなさい、と二人と挨拶を交わすと、菜々子は目を擦り擦り寝室へと入って行った。
「寂しくなさそうだな、菜々子ちゃん」
 寝室へのふすまが閉まったのを確認してから、トランプを片している月上へ小さく言う。
 うん、と答える月上の声が穏やかで、何だかひどく安心した。
 その声は春からの事件を追う間、何度も陽介を冷静にさせ、力づけ、心の奥へ深く入り込んで来た声だった。
 深く刻み込まれて馴染み切った声。
 二人きりの穏やかな空気の心地よさに、なんだか眠くなるなとちゃぶ台に頬杖をつく。
 頬杖をつくのはどこの筋肉が弱ってるんだっけな、と授業を思い出しながら少し目を伏せると、陽介、と心地よい声が耳元を擽る。
 目を開けると、いつの間近づいていたのか、目前に月上の顔があった。
 陽介の横に膝をついて、顔を覗き込んでいる。その、間近にある月上の静かな呼吸を意識した瞬間、キスされる、と思った。
 …なぜ思ったかと言うとそういう関係になったばかりであり、お互いそういう事がしたい盛りだからで。
 だが月上の顔はそのまま肩へ下りて行き、肩口に額を押し付けて来る。
「……月上?」
 そのまま陽介へと無言で額を擦り付けて来る様子が、猫のようだ。
 学校や友人の間では常に冷静、テレビの中では先陣切って戦うこいつがこんな甘え方をするのはおそらく自分にだけと言う予想が、陽介のテンションを密かに上げる。
 知らずにやける口元はそのままに、時々されるのを真似て髪の毛へ撫でるように触れてみると、触れた陽介の手のひらへ、月上の頭が擦り寄ったらしい。さらさらした髪の毛が擦れてくる感触があった。
「お前、かわい……っうお!!」
 にやけていたのはほんのつかの間。
 大人しい猫のような素振りを見せていた男に、圧し掛かられた。
 陽介の肩を押して仰向けに転がせて――いわゆる、押し倒された、とでも言うのだろうか。
 しかも腰の上を跨いで来た月上の顔が真上にある状態。
「なななな何」
「しぃ」
 人差し指を自分の唇の上へ当て、静かに、と仕草で示された。
 陽介の真上、蛍光灯の光を遮る位置で、月上が囁く。
「菜々子が起きる」
 囁く声は穏やかだ。
 だが普段のじゃれるのとは違うやけに穏やかではない強い力が、肩にも、押さえつけるように陽介の腰を挟み込んだ膝にもかかっていて、体重を乗せられた状態では、身を起こすのもたやすくは行かない。
 見上げた先の顔はふざけているようには見えない。真面目な顔だ。
「……つき、がみ?」
 思わず息が詰まった喉から、どうにか、名前が洩れ出た。
 呼んだ相手の、月上の唇が、息をかすかに吐き出しながらゆっくりと動いて、


「陽介お兄ちゃん」


「………………………………………………………………………………………」
「…………お前のそのドン引きって顔、俺からやっといて何だけど微妙に傷つく」
 顔に思い切り出ていたらしい。
 陽介に圧し掛かっている月上が、いささか沈鬱な表情になっていた。
「は…」
 詰めていた息がこぼれる。息なんか詰めている事なかったのに、と自分の馬鹿馬鹿しさに、いつもなら冗談で返せたかもしれないネタにぐったりと脱力してしまう。
「そりゃ引くだろ真顔で急にお兄ちゃんって! 完二に兄貴って言われたら引くよりも身の危険だけどね!?」
「かわいいかわいい菜々子を膝の上に乗せかけてたくせに、俺は乗せられないんだ、陽介お兄ちゃん」
「え、流石に照れてのっかんなかっただろ俺の膝には! て言うかお前、菜々子ちゃんと俺、どっちに妬いてんの!」
 無言。
「それはともかく」
 すでに先ほどの沈鬱な顔もどこへやらの月上へ、俺とお前ってお付き合いしてますよね? と突っ込みかけたが、菜々子への家族愛を良く知っているので黙っておく。
「陽介、家族だから一緒に風呂入ろっか」
「は?」
「今日は一緒の布団で寝るだろ、家族なんだから。お前、誰か一緒だと眠りにくいタイプ? じゃないよな。寝室別々派? だったらちょっと将来のために今から話合いを…」
「ちょ、待った月上!」
 どんどん進む話の方向性が何やらおかしな方向に行っているようで、菜々子を起こさないような小声で慌てて止めると、なに、と小首を傾げられる。

(…高二にもなった男が傾げるなよ、かわいーんだよ)

 頭の沸いた事を思いながら、月上の体の下、次いで言おうとした自分の言葉や思考の矛先にむずがゆい気持ちで視線を逸らす。
「それって家族っつーか何つーか、もちっと、こう、ホラ」
「ん?」
 続きを促すような満面の笑顔。
「……お前、悪い顔になってんぞ」


2008/09/27/