我等がホーム




 電話と言う物が恐ろしいと感じた事は今までなかった。
 共働きの両親からの帰宅連絡や、様子を窺う電話はまめにかかって来ていたので、月上にとっての電話は相手の言葉をすぐ身近へ運ぶものであり、便利なツールとしか感じた事はなかった。この町に来てからも電話は叔父の堂島と、携帯電話は友人らや外から家への連絡にと使用され、けして心穏やかな日常の話だけでなかったが、それでも、恐ろしいと感じた事は一度もない。
 家族と呼べる二人が入院してから初めて家に戻った日、しんと静まり返るひとりの家の中、置かれた家の電話機がやけに存在感を増す事に驚いた。


 良く堂島が座っていたソファは、人の体温も、名残も何なく、座ってみるとひんやり冷たい。
 尻ポケットに突っ込んだままの携帯電話が、ソファと尻に挟まれて存在を誇示していた。ぶる、と身が震えたのは、冷え込んだ家の気温のせいだろうか。指先がやけに冷たいのに、手のひらにうっすらと汗をかいている。
 病院と繋がっているのは家の電話と、携帯電話。
 もし菜々子や堂島に何か――どう何かなのかは詳しく考えたくはなかった――が、起こった時に、頼りになるのは電話だけだ。
 もし寝ていて気付かなかったら、あるいは外にいた時に圏外で繋がらなかったら、と一度思ってしまえば、眠れる気もしなかったし、携帯電話を少しでも離す気になれなかった。家の中は携帯の電波が圏外になる事ないが、明日から外に出ている時は気をつけよう。
 意識を研ぎ澄ませていないと、来た連絡を取り逃してしまいそう。何て頼りないツール。
 なんて。

「…………っ…」

 ぐら、と目眩のように視界が揺れた。落ち着け、と心の中で呟く。
 そうだ落ち着け。
 おそらく、久しぶりに感じる独りきりの家の静けさ、寒さにつられて悪い方向に思考が落ちている。柄にもない。落ち着け。
 今、自分がするべき事はこんなことではない、と目眩のする頭を振った。救い出した菜々子のこれからの経過を見守り、堂島の力となり、いざと言う時のために力を蓄えておく事。
 落ち着け、と心の中でとなえる。
 末端の指先がどんどん冷えて行く感覚に眉間に皺が寄りそうになった瞬間、しんとした部屋に不意に携帯の着信音が鳴り出して、思わず身が跳ねた。
 ポケットからストラップを引いて携帯を引きずり出すと、開いた液晶画面に表示された名は花村。
「――陽介」
 バックライトに明るく映し出されるその名を見た瞬間、名を口に上らせた瞬間、指先に急に血が通いだした、そんな気がした。

















『あ、もしもし、月上?』
「……ん、ああ、うん。ごめん、出るの遅くて」
『もしかして寝てた? 悪ィ』
「いや、起きてる。大丈夫」
『そっか? どうよ、夕飯食ったか?』
「食ったよ、陽介たちと。ジュネスから帰る前に」
『…お前、ポテトあんだけとかじゃ夕飯にならねーだろ』
「陽介、今日は突っ込みのキレが悪いな」
『なんだよ今のボケかよ!!』
「いや…、……、陽介」
『ん?』
「……なんでもない」
『なんなの、今度はちょっと呼んでみたかっただけーみたいなボケ?』
「陽介」
『……どしたよ』
「…今、外か? 車の音がした」
『ん、まあな。もう夜になると超さみーぞ』
「うん。薄着で出歩いて風邪引くなよ、もう、…冬になるな」
『ま、最近ずっとだからすでに冬の上着出してがっつり着込んでますけどね……。うし、お前にミッションを与えんぞ相棒!』
「ああ、そういえばこの前テレビでやってたな、そんな映画…たしか去年はやった、」

















「玄関開けてくれー」
 耳元と、玄関の向こうから。デジタルに変換されて届く声と、玄関の扉に阻まれて篭った声が、ステレオで同時に聞こえた。閉じかけていた目を見開く。
「え……」
「月上!さみーんだよ外!」
 慌てて立ち上がる。玄関への短い距離を走るように辿り着いて、鍵をかけていた戸をその前にいるだろう相手にぶつけないように慎重に開くと。
「よ」
 片手を挙げての軽い挨拶。外の寒さに少し肩を狭める陽介の、屋内に入って来て後ろ手に戸を閉めるなり眉を顰める様子を、月上は少し目を見開いたまま眺めていた。
「……中も寒いな」
「あ、悪い」
「悪くないって。そんな月上に丁度いいもん持って来てやったぞー、おでん食おーぜ」
 そう言って笑う陽介の、おでんの容器の入ったコンビニ袋を下げているのとは逆の手が伸ばされる。テレビの中で武器を持つのに馴染んだ指先が、髪の毛を掠めてそのまま月上の頭へと向かう。
 指先が月上の癖のない後頭部の髪をさらりと梳いて、そこへ指を潜らせたあと、手は止まった。陽介はいつもの、なんてことない普段通りの見慣れた顔で、こちらを見ている。
 シャドウと対峙した際に背中を預けている、そんな時と同じような心強い確かさを覚えて、月上はそっと息をついた。
「…大根ある?」
「あるある、任せろって」
 たたきと室内との段差分、いつもより低い位置にある陽介の肩へ抱かれていた頭を引き寄せられた。月上の体が傾ぐ。倒れないように背を丸める。

 ――電話を切りたくないと思ったんだ。陽介。

「玉子は」
「あるある。最初、豪勢に全種類1つずつ!とか思ったんだけどさ、流石に里中や完二呼ばないと食いきれなさそうだったから、…あいつら呼んだら全種類1つずつでも足りねーか」
「はは」
 耳元で聞こえるいつも通りの陽介の声に、熱心な顔でおでんを平らげる里中と完二を想像して思わず笑ってしまった。笑った唇を、陽介の肩口に押し付る。
 そのまま目を閉じて視界を遮断すると、電話と、それから間近の陽介と触れ合った頭や肩だけ神経が集中した。

 陽介、俺はいま電話がこわい。おそろしい。こころもとない。
 なんて頼りないツールだと思う。
 そんな頼りないものから聞こえたお前の声は優しくて、どうにか恐ろしさを受け流せたはずの心がやわく崩れてしまい、もっと傍に、と、すがりたくなった。ここにいてくれとすがりたくなった。

 そう思った事を上手く言葉にして告げる事が出来なくて、口にのぼらせてしまうと恐怖が増しそうで怖くて。
「……明日も菜々子ちゃんの見舞い行こうな」
 陽介の外気に冷えた上着はすぐに月上の体温で暖まり、押し付けた唇から洩れる小さな嗚咽をたやすく吸い取ってくれた。


























「あ、ごめん陽介。鼻水ついた」
「おまっ、空気読めよ…!」



2008/09/29/We are homes