一番星





「あ」


 唐突に足立の声が聞こえた。
 なんだと背後を歩いて来ているはずの相手を振りかえると、足立は喉を思い切り反らし、ぽかんと口を開けて空を見上げていた。 堂島は、そんなに反って首が痛くならねえのかと思いながらそれを見ていた。
 空の焼けた赤から、夜の混じった紫。夕方から夜へ続くグラデーションの空を見上げる顔は、薄暗い上に空を見上げているのでどんな表情をしているのかわかりづらい。


「一番星ですよ、堂島さん」


 晒された喉仏が喋るたびに動くのが、表情よりもよく見て取れた。
 真上を見上げてはしゃいだような声を上げる足立の姿は、高校生の甥と大差ない若さに満ちている。むしろ菜々子あたりが同じことを言いそうだと、思って苦笑いが浮かんだ。
 菜々子の父親と言っても若い父親だと納得されそうな年の足立に、菜々子と同じ扱いをするものじゃない。だが、堂島の生活への密着具合で言うと、菜々子と甥と、仕事の相棒である足立は同レベルだった。情くらい移る。


「ああ、もう見えるのか。早いもんだな」
「早いって、もうそのへんの家は夕飯の時間ですよ。堂島さん、腹減らないんすか?」


 驚いた顔をされて首を捻る。腹をさすってみたが、特に強い空腹を訴えてはいなかった。
 空腹は仕事中の緊張感に負ける。よほど時間が経っていれば別だが、今日は昼もきちんとした時間に摂っていたし、仕事が終わってすぐの今の時間帯、特に意識するほどの空腹にはなっていない。家へ帰って菜々子の顔を見れば、そういえばぺこぺこだったなと空腹を思い出すのが常だ。
 脳裏によぎる娘の顔に、反射のように空腹感がよぎった。堂島は苦笑しながら再度腹をさすり、お前はどうすんだ、と足立に尋ねる。


「どっかで食って帰るのか」
「えーと、僕は冷蔵庫の中のもん片付けないと。何にしようかなー、キャベツと、…キャベツにソースかけたのと、キャベツにマヨネーズかけたのと、キャベツにドレッシングかけたのと」
「――おい」


 過保護ではない堂島でもさすがに眉を寄せるしかない発言に、呆れた声が出た。そんな食事で明日、もし何らかの事件が発生して目の前に犯人がいても取り押さえる力が出るのかと言いたい。この辺りは家賃も都会に比べて安いし、派手に遊ばなければもう少ししっかりしたものを食べるだけの給与は貰っているはずだ。
 堂島が呼びかけ以上の言葉を口にする前に、足立は慌ててぶんぶんと首を横に振った。


「や、安売りだったんですって!ジュネスで特売!買い過ぎてまだ残ってるんですよ!! あと、ビールっすかね。風呂上がりに、ぷはー!って」


 くっとビール缶をあおる手つきをして笑う。ビールを買う余裕があるのなら金に困っているわけでもないのだろう。ただ消費するためだけにキャベツ料理――とも言えないもの――の羅列をしただけらしい。


「消費するにしても、もう少し何かあるだろ…肉足すとか」
「え、だって面倒でしょ」
「面倒だからってな」
「堂島さんだってやらないじゃないっすか」
「……ん、まあ、そうだな」


 言い返せる言葉がないので、曖昧な肯定の後は黙って片目だけわずかに眇める。くくく、と足立はひそめた笑い声を漏らした。


「それに家で食っても味気なくて。食事ってか、サプリメント飲んでるのとおなじ気分になるんですよねー。外だと『さあ食事だぞー』って感じにお膳立てされてて、こっちもその気になるんスけど」


 ぽろりと足立の口から零れた言葉は、同情を引くような響きはない。トーンが少し低い、情緒の動きのない声だ。表情は、一番星をまた見上げてしまったのでうかがえない。夕暮れの影が濃くなっている。
 足立の声は、ただ単純に感想を述べただけのような、乾いた声だった。

 無味乾燥。そんな言葉が脳裏をよぎる。
 一番星に関心を寄せた情緒の後に、足立は無味乾燥の味気のない食事を摂る。そう考えると堂島は、「足立」と部下の名前を呼んでいた。


「足立」
「はい?」
「メシ食いに来るか」


 残って困ってんならキャベツも持って来い、と誘ったのはキャベツとビールしか冷蔵庫になさそうな食生活を慮ったせいだけではなく、足立の半人前然とした態度をなあなあにせず厳しくする分、面倒を見てやりたいと思う気持ちのせいだ――そう思う事にする。
 無味乾燥な乾いた食卓につかせたくない、と言う気持ちは、部下に向けるには少々度が過ぎているものに思えた。だから、これは、この行動は、面倒を見てやりたい上司としての労りだ。若い年代にとってはうっとおしいのかもしれないが、上司として度が過ぎてはいない範疇だろう。足立がどう思うかはわからないが。
 人数が一人増えるから、おかずが足りなくなるかもしれない。帰り道にジュネスへ寄って総菜を買おう。米は、甥が炊いて余った分を多少冷凍してあるから大丈夫だろう。
 そう考えながら答えを待っていると、足立は少し驚いたように丸く目を見開いて、それからすぐにくしゃりと眉尻を下げた笑い方をした。
 嬉しそうな顔をしていたから、手間をかけずに夕飯にありつけることが、腹が満ちることが嬉しいのだろうと、堂島は思っていた。そこに何らかの考えるべきことが転がっているとは少しも思わなかった。


 ジュネスの総菜コーナーへ寄って、値下げのシールのついた総菜をいくつかカゴに放り込む。手持無沙汰に周囲を眺めている足立の、堂島さんちってまっとうな家庭ですよね、と言う言葉に堂島は、豪勢ではないが一汁三菜を守ってくれている甥の働きを思い出し、菜々子もあいつも成長期だしな、と答えた。




 途中家に寄ってキャベツを持った部下と、連れだって家路につく。星が空で輝いている。
 事件があってもこういう時間だけは平和だと思うと、腹がぐうと空腹を訴えて鳴った。足立が笑う声を聞きながら、ああ、事件がある時でもこの時間は平和だと、思った。






2009/02/16/