彼がこの町に来てから春が過ぎ、夏が過ぎようとしている。
転校生、と言う呼び方も似合わなくなり、すっかり町に馴染んだように見える。転校生だった彼は、今は転校生を迎える側の人間になっているし、赤ん坊の頃に会った以来だったらしい堂島の家にも馴染んでいる。
二学期も始まって、こうして休日に遊びに来た彼の部屋は、春前までは彼のものではなかった部屋のはずだ。でも彼の叔父も従妹も、ここに彼の部屋がなかったことなど忘れているだろう。それほどに彼は馴染んでいた。
まるでずっとここにいるかのように。
まるで、これからもずっと、
まるで、
「陽介」
呼ぶ声にはっと目をしばたいた。
ローテーブルを間に挟んだ向こう側、月上がテーブルの上に身を乗り出していて、陽介が意識していたよりも距離が近い。もしかすると、何度か呼ばれていたのかもしれない。
「陽介? 眠いのか?」
「あ、わり。何だっけ」
明日はテレビの中に行こうって言ったんだよ、と告げる声に、ざわついた胸のうちを悟られまいと視線を伏せて頷く。胸は嫌な具合にざわめき続け、おさえようと、少し深く呼吸をした。
ちら、と視線を戻すと、月上はまだ陽介の方を見ている。胸のざわめきが、心臓から血液に溶けて、全身に回って行くような錯覚を覚えてくらくらした。
窓から吹き込む風が頬を撫でて行く、気持ちの良い日だった。そろそろ冷房も要らなくなって来たくらい気温は秋に向けて下がって来ているのに、やたらと頬が熱いのは、なぜだろう。
月上は陽介を見ている。陽介も月上から視線を外せないでいた。
遠くで自転車のベルが鳴る音がしても。テーブルの上の、月上が翻訳のバイトに使っているらしい辞書の薄いページが風にぱたぱたと音を立てて捲られていても。
「……陽介」
「ど、どうしたよ」
呼ぶ声に余計体温が上がるようで、返す声は少し上擦った。視線を繋げたまま、どちらも顔を逸らせない。
目元にかぶりそうな前髪の下の、月上の目のふちがいつもより少し赤いなと陽介が気づき、少し目を瞬かせたのがその均衡を少し崩したようだった。月上の腕が動き、それが自分の方へ伸びてくるのを、陽介はじっと見ていた。もう一度目を瞬かせるだけの時間をかけて、頬へ伸びて来るその手を避けるなんて言う考えが自分の中からすっかり抜け落ちているのに気づく。
「陽介」
名を呼ぶ親友の、剣を握って堅くなった指の腹が、陽介の頬を辿って顎を滑ると、項の辺りがじんと痺れるように痛んだ。月上の指の当たった皮膚が、やけに過敏だ。
合わさった視線を通じて、考えている事が全て筒抜けるような気になる。
戦闘中の、神経が昂ぶっている時によく感じる、肌でわかるとでも表現するのが正しいような感覚。
戦闘中に相棒と攻撃のタイミングを合わせるため、目配せをしようとする時、向けた視線の先にはいつも同じように陽介を見て来る月上がいた。視線を合わせると力が湧くような気がするのは、陽介だけでなく月上も同じなのだろう。真っ直ぐに信頼に満ちた目が陽介を見て、陽介もそんな目で相棒を見て、まるで何もかもわかっているような気になる。
今も、お互いにそんな目をしているのかもしれない。
「どうしよう、陽介」
黙りこくった中、先に口火を切ったのは月上だった。
「離せない」
手が、と真顔で言う月上に、何言ってんだと笑い、冗談にして返す事だって出来たはずだ。
「――俺も」
出来たはずだった。
出来たはずだがしなかったと言う事は、あー、何だ、そういう意味だろ、と陽介は心の内で納得して、そういう意味の同意を正しく受け取った察しの良いヤツのよく見知った顔へ、自分からも顔を寄せた。
目はお互いにぎりぎりまで伏せず、相手の目を奥を覗くようにして、そして、粘膜が触れる瞬間、示し合わせたように互いの目が伏せられる。
背中を守りあって戦っている時のような呼吸の合い方に、陽介は笑って、月上もまた同じタイミングで、笑った。
「離せないって思っている事まで息が合うんだぜ、すげーな俺ら。な、相棒」
「ほんとにな」
2009/02/25/