あなたといると月がきれい



「君さぁ、堂島さんに似てるよね」
 こんばんは堂島さんいるかな、叔父さんは菜々子とジュネスに買出しに出てて、ああじゃあ出直すかなあ、一時間もかからないと思うんで上がってきますか、それじゃお邪魔しようかな君だけいかなかったのジュネス、テストが近いんです――と言う会話の流れに続く話なのか。
 俺が、足立さんに向けられた言葉にその前の会話との繋がりを探している沈黙の間に、足立さんは俺がすすめた座布団へ座っている。足立さんが来る時はいつもその位置だ。俺と菜々子の横。叔父さんの正面。家の人間三人はいつも座る位置が決まっていて、空いている場所はそこなので自動的に足立はそこへ座る。
 自分の定位置になっている座布団へ俺も座る。足立さんはちゃぶ台に頬杖をついて、俺の方を見ていた。
「ホラ、背丈とか」
 どうやら話はさっきの話題から続いているらしい。
「はぁ」
「目とか」
「叔父さんのが善人そうですよ」
 自分の目つきの悪さは理解しているので訂正する。
「そうなんだけど、違うって。や、違うって言うか、うーん、君の目つきが悪いってわけじゃ…あははは…」
 わざとらしい笑いで誤魔化す姿にも慣れて来た。可笑しくなって少し笑う。
 ああ、と呟いて俺を見る足立さんの目がちょっと和んだ。
「それだよ、笑い方。堂島さんもさ、普段あーんなしかめっ面なのに笑うと急に全開でしょ。最初見た時、うわっこのヒト人相悪いんだなぁって思……あ、オフレコねオフレコ」
 喋る後半は肩を竦めて、困ったように眉尻を下げている。この人はいつも、オープンなんだな、と思わせる喋り方をした。
 オープンと言うと表現が違うかもしれない。多分、色々とどうでも良いのだ――いや、それくらいが普通なのだろう、きっと。叔父の口の重さと比較してしまうせいだなと心の中で結論づけてから、尋ねてみた。
「叔父さん、怖いですか」
「え? キミも目の前で殴られてんの見てんだろ? べらべら僕が喋ってるとすぐに足立ィって怖い声で言われるか鉄拳だよ、もう。事件の事も同じように喋るんじゃないかって、心配しちゃってさぁ」
 参った、と肩を落とす足立さんを見て、この人は割と叔父さんと仲が良いんだなと思う。足立さんの叔父さんについて話す声に棘はなく、軽い口調で喋っていたし、普段言わずにいる不満を愚痴る風にうんざりした様子もなかった。気安く親しい相手に対するもののように聞こえる。
 何となく嬉しくなって笑ったら、足立さんの目元がまた和む。
「お茶でもいれましょうか」
 と尋ねると、いいよいいよと片手を振られた。
「テレビ見てたんじゃないの? お構いなく」
「静か過ぎるんでつけてただけで、……一緒に見ます?」
 つけっぱなしにしていた居間のテレビは、足立さんを出迎えに玄関へ行った時から番組が変わって、洋画が流れていた。去年コマーシャルを多数やっていた大きなタイトルだ。子供でも楽しめるタイプの、ハリウッド系映画。
 足立さんも知っているらしく、あー、とTV画面を見て声を漏らしている。
「もうやってんだこれ。こないだ公開したと思ったのに。知ってるよね?」
「去年はやったヤツですね。シリーズもののリメイク」
 異形の変身ヒーローもの。陽介や完二あたりが好きそうなアメリカンヒーロー。アクションもなかなかとの評判だったから千枝も見ているかもしれない。
「キミ、映画館で見た?」
「いや…映画はチケット高いんで。DVDになったらそのうちレンタルしようと思ってて。そうしてるうちに稲羽に来てて、レンタル出来ないまま見てないです」
「うんうん、このへんレンタルもあんまり揃ってないよね、揃ってないから新しいのはすぐ借りられちゃってるし、やけに古いのはあるんだけどさ…」
「そうですね。でも沖奈まで出て借りるのも面倒だし」
 AVとか見たくない? と、こそっと尋ねてくるので、友達から回って来ます、と親指を立ててみせて笑うと、また足立さんの目元が笑いに和んだ。
 話しながら足立さんの手が自分のスーツの胸元を探っている。指先で何か取るような動きをして、止めた。仕草にピンと来て、立ち上がって台所の端から灰皿を持ってきてちゃぶ台へ置いた。
 足立さんはちょっと目を瞬かせて、よくわかるなぁ、と感心したそぶりを見せた。
「叔父さんも時々やってるんで」
「そうなんだ。でもこの居間、煙草の匂いしないよね……ここ、窓開けていいかなぁ」
「どうぞ」
「あんがとね」
 灰皿を持った足立さんは膝立ちになり、畳みの上でずりずりと膝をずって窓際まで移動する。足立さんの手が窓を開けると少し冷えた夜気が流れ込み、それは雨が近いせいか草の匂いが濃かった。続いてかきんと小さい金属音、オイルの匂い、そして煙を吐き出す低い溜息、うっすらとした煙草の匂い。
 足立さんの喫煙姿を見るのは初めてだったが、馴れた仕草だった。
 叔父も、家ではそういう姿を見せないが深夜に時々吸っているようだ。外でも。事件があったりすると、一際濃い煙草の匂いを染み付けて帰って来る。
 縁側へ足を投げ出すように窓際へ座った足立さんの横顔を、黄色っぽい街灯の灯りと月が、淡く金色に照らしていた。
 街灯があっても稲羽の夜は暗い。町全体の光りの量が都会とは違うのだろう。都会での夜空はグレーだったが、ここの夜空は、しっとりと黒い。
 それでも満月の今日はいつもよりだいぶ明るかった。
 足立さんが吸って吐き出す煙草の煙が、夜風に揺れて消えて行くのが少し面白くて、俺はちゃぶ台へ頬杖をついてそれを眺める。
「アイラブユー」
「え?」
「アイ・ラブ・ユー」
 ゆっくり区切って、足立さんの指はTVを指差す。視線を向けると、TVではヒロインとヒーローが並んで、どうやら告白シーンのようだった。
「英語の方がなんかたやすい気しない? I love you」
「あ・い・し・て・る、より、短いからですか?」
「ああ、それもあるなぁ。音が違うよね、英語と日本語。でもそれじゃなくってさ」
 ふう、と、足立さんは溜息のように低く煙草の煙を吐き出してから、続けた。
「あいしてるって何だか重いじゃない」
 そうでもない、と俺は思ったが、ここへ越して来て色々な事を考える前までは、愛してると言う言葉は自分になじまない何だかとても重い重要なもののように感じていた事を思い出した。
「そうですね。同じ意味の言葉でも、少し印象は違う」
 重いよねぇあいしてるなんて、と足立さんは頷いて笑う。重い、と言う言葉につられるように、頭の中にアイラブユーの印象的な訳し方のエピソードが浮かぶ。
「日本語に訳すときに、死んでもいいって訳し方をした人がいるって、このまえ授業で、」
「だったら死んでみろよ」


 ――俺は物凄く間の抜けた顔をしたと思う。
 ぽかんと、口まで少し開いていただろう。目をちょっと見開いて、眼球が乾燥しかけて痛んだのを切っ掛けに瞬く。それまでずっと、目の前の人を凝視していたのだと知った。
 だったらしんでみろよ。頭の中でリフレイン。やけに声が低かった。だったらしんでみろよ。棘のある声色。だったらしんで。
「…って思わなかった? キミが授業で聞いた時。ホラ、高校生くらいってひねて考えるからさー、愛だとかそんな気恥ずかしいし」
 また膝立ちになった足立さんは、ずりずりとスラックスの膝をずって俺に近づいて来る。笑みの形になっている口には銜え煙草。手を伸ばせば届く距離まで俺に近づいて、銜えていた煙草を指で摘み、フィルターの方を俺へ向けて来た。
「吸ってみる?」
 話題は変わっていたようだ。
 そんな続ける話でもなかったのか、わざと話をそらしたのか、気まぐれなのか、判断できるほどの付き合いは俺とこの人の間にはない。
 瞬きをする事で驚きから思考をそらし、軽く首を傾けてみせる。
「いいんですか刑事さん」
「かったいなぁー、一口吸ったくらいじゃなんともならないって」
 煙草の先の、何百度かの熱を持った鈍い赤色が足立さんの動きに合わせて少しだけ揺れる。
「吸ってみなよ」
 誘う声はいつもよりひそめられて響きが甘い。こんな声も出すのかだと感心しながら、手を伸ばすとなぜか煙草を持った手が上へ逃げる。
 つられて持ち上がった俺の手を足立さんの手がすり抜けたと思うと、唇に煙草のフィルターを押し付けられていた。
 明らかにおもしろがる目がこっちを見ている。
 …病院清掃のバイトで知り合ったナースと少し似てますよ、と言いそうになった。どんな人か問われて、誘われるんです、と返したらどんな顔をされるだろう。別にそのときのリアクションが見たいわけではないので、口に当てられたフィルターを唇で挟んで銜えた。
 す、と吸い込むと、うっすらと広がるメントールの冷たさ、口に広がる煙の感覚。肺まで入れると慣れない刺激に喉が微かに痺れたがむせなかった。唇で煙草を銜えたまま、ゆっくり吐き出した煙は霧のように俺と足立さんの間に割って入ってすぐに消える。煙さで目をしばたいた。
「どう? うまい?」
「苦いです」
「平気な顔しちゃって」
 煙草を持った手を戻しながら、足立さんは笑う。目が笑っていない。どうして今まで気づかなかったのだろうか――ああ、叔父さんがいたからだ。いつも。足立さんがいる時には。そうでない時は短い挨拶や世間話しかしていなかった。
 今のように目を眇めて口元だけで笑う顔は、チェシャ猫に似ている。初めて見るその笑い方と、空気中に残る煙に、俺はまた目をしばたく。
「ど? 大人の味がする?」
「まぁ」
「あんまりうまいもんじゃないでしょ」
「うまくないけど吸うんですか」
 疑問に思った事を尋ねた。足立さんは、うーん、と唸って眉を寄せ、しばらくの間逡巡し、そして微妙そうな顔のまま、
「ん、まぁ。その時によるかなぁ」
 と、曖昧な返事をくれた。ちょっと肩をすくめてから、喋っているうちにまた短くなって来た煙草を、灰皿で潰して消している。灰皿に視線を落とす足立さんの目元は、また少し和んでいる。
「堂島さんが吸ってるとうまそうに見えてねー。おじさんが吸ってるのってやけにうまそうに見えない?」
「足立、お前、そんな事考えながら吸ってたのか?」
 唐突に割り込んだ低い声に、びく、と派手に足立さんの肩が揺れた。俺も驚くには驚いたが、足立さんの驚きっぷりには負ける。
 振り返ると、ジュネスのビニール袋を持った叔父が大股で居間へ来る所だった。窓際からでも見渡せる台所では、菜々子がジュネスエコバッグの中身を冷蔵庫にせっせと詰めてる後姿が見えた。おかえり、と声をかけると、ただいま、と明るい声が返って来る。
「あのね、玄関のかぎあけっぱなしだったから、ドロボウでも入ったんじゃないかってお父さんしんぱいしたんだよ」
 菜々子の言葉に、それで静かに入って来たのか、と納得した。夜は鍵をかけておく習慣にしているのに、そういえば、足立さんを招きいれた時に鍵を閉め忘れている。
「ごめん、忘れてた」
 気をつける、とすぐ傍に立つ姿を見上げて詫びると、叔父さんは少しだけ頷いてから、座っている俺と足立さんの顔を立ったまま交互に見た。視界の端で、叔父さんを見上げた足立さんがまた少しびくっとするのが見える。
「って、ど、ど、堂島さん、いつから」
「ついさっきだな、お前らが喋るのに夢中だったんだろ、…悪さするのにって言い換えた方が良いか?」
 声のトーンを低くした叔父さんが視線をずらす。それにつられてずらした視線の先には灰皿があって、また見上げると、叔父さんはこっちを胡乱な目で見ていた。あ、そうか吸ったのばれたか、と思うと同時に頭をはたかれた。痛くはなかったが反射で目を瞑ってしまう。
「ほら、土産だ。後でしっかり歯磨いとけよ」
 次に目を開けた時には、口に包装を剥がしたホームランバーを突っ込まれていた。端がちょっと溶けている。唇の熱でバニラ味のアイスが余計溶けて、落ちそうになるのを慌てて噛んで止めた。
「はりはと、ほひは。あ」
「わかったわかった、食いながら喋るな」
 苦笑いしてる叔父の足元で、足立さんは頭を抱えそうな勢いでうなだれていた。足立さんの驚きっぷりが想像以上だったのだろう、見下ろす叔父さんは片眉を跳ね上げる。
 俺からは、まずいところを見られてすごい恥ずかしい死にそう、とか言いだしても驚かないような足立さんの困った顔が見えて、叔父さんの、思った以上に驚かせてちょっと気まずいんだろうなと言うわかりやすい表情が見えるが、二人はお互いの顔が見える位置じゃない。
 足立さんは、うなだれたまま溜息のように呟く。
「うっわ、不覚……」
「お前はしょっちゅう不覚取ってるだろ。いまさら嘆く事かよ」
「え、ちょっと堂島さんひどいっスよ、それ。僕だって僕なりにがんばったりしてるじゃないっスか、割と」
 叔父さんの呆れたような言葉に返す足立さんの声のトーンはいつものちょっと高めの、軽い声になっている。言いながら上げた顔は、さっきまでの恥ずかしがっている顔じゃない。いつも通りの表情に叔父さんがほっとした気配がした。
 あーわかったわかった、と適当になだめる叔父さんの手が新しいホームランバーの包装を剥いていて、菜々子のかな、と思ったら、白いバニラアイスは、足立さんの口元へと向かう。
「ほら足立」
 甘いものでも食わせて驚かせすぎた詫びにするつもりだろうか。俺の叔父は。
 案の定足立さんは、コンビを組んだ年上の男にアイスを口元に差し出される状況にうろたえている。
「え、ちょっ、何歳児扱いですか」
「知るか、ほら溶けるだろ。早く食っちまえ」
 叔父さんの言葉に足立さんは困った顔をしていたけれど、目元はちょっと和んでいて、なんだかんだと困ったような事を言いながらもホームランバーにかぶりついていた。











 明日の仕事に関する話を少しと、菜々子を交えた賑やかな会話をしばらくかわした後に足立さんは帰って行き、風呂に先に入った叔父さんと菜々子も早々に寝室へ寝に戻っているので、俺が部屋に戻ったときには堂島家は静まり返っていた。
 開けっ放しにしていたカーテンからは満月が見える。丸く眩しい月がきれいだ。カーテンは開けたままで寝よう、と部屋の電気を消す。暗い部屋の中、畳んだ布団の上で、携帯が小さいライトを明滅させて、メールの受信を知らせていた。
 雨の日は何があるかわからないので、肌身離さず脱衣所にも持ち込む携帯だが、今日は晴れているので帰宅してからずっと放ってあった。片手で携帯を持ち上げて、片手で布団を引きずって敷きながらメールを読むと、差出人は陽介で、新しいコミックを買ったから明日持ってくとかそんな内容だった。
 じゃあ昼休みは屋上な、と一度返信の文章を打ってから、ちょっと考えて、クリアボタンを数秒押した。返信画面の文章が消える。
 月がきれいだ。今度はそれだけ打って件名もなしにメールを送る。なんだか陽介に凄く言いたくなった。
 整えた寝床に潜り込んで、枕に頭を沈める。欠伸をしながら枕の横へ携帯を置こうとすると、短くメールの着信音がした。表示は花村陽介。眠気に力を抜きながらメールを開く。

 ――ちょうあかるい。

 変換もない返信。想像するに陽介はもう寝ていて、俺からのメールでちょっと目を覚まして、どうにかカーテン開けて月を見て、半分寝ながらただ打ち込んだのだろう。相棒からの特に重要性のないメールに、眠い目を一生懸命こすりながら。きっと。
 あいらぶゆーとメールを打ってみたら、みーとぅーと返って来て、あいつ寝てるなと思わず一人で吹き出しそうになる。
 おやすみ相棒、と陽介の常套句を奪ってメールを打ちながら、煙草も、いつか陽介が美味そうに吸っていたら俺も吸ってみようかと思った。


 その時の煙草の味は、想像してみたらやたらと美味そうだった。



2008/10/23/I love you、を、夏目漱石はそう訳した。