上司をTVの中へ突き落としてやろう。





いつか終わるけど




 その日、足立は朝起きてふと思い立った。
 最近、早朝の空気は随分と冷えていて、そのせいかなかなか血圧が上がらなく瞼が重い。夢見が悪かったり妙に神経が高ぶっていたりして寝つきが悪くなっているせいだと足立は認めない。自分は宵っ張りなだけだ。
 宵っ張りって表現もどうかと思いながら起き上がり、部屋のTVのサイズを、コンベックスは置いてないので手で測る。横幅が、目いっぱい広げた親指から小指までの長さが二つ半くらい。ちょっと肩を押して転ばせたくらいでは入らないが、意図的に押し込むには充分な大きさだ。確認して、大きく伸びをした。寝ている間に固まっていた肩の関節が鳴る。
 寝巻きのまま、散らばった雑誌を避けて小さなキッチンへ向かう。ケトルを火にかけてトースターへパンを突っ込む。他に料理を作るのは面倒で、寝巻きの襟元から手を突っ込んで肩をばりばり爪で掻きながら、湯が沸き、トーストに薄い焦げ目がつくのを待った。湯がなかなか沸かない。肩から胸にかけてはうっすら赤い引っかき傷が出来ただろう。前に作った傷が小さく赤黒いかさぶたになっていて、そこをまた掻き壊す。
 外では鳥がいい気なもので軽やかに鳴いている。







 TVの中へ突き落としてやろう。







 その夜、足立は上司を誘って家へと連れ込んだ。
 ベッドの上に寝起きのままたごまっている毛布をせめて整えておけば良かったかなと考え、たごまった毛布の上に背を落としてしまえばそんな考えもすぐにどうでもいいような気になって、とりあえず整えられていないベッドを更に乱すようなことに専念してから、熱を吐き出した後のけだるい眠気を押さえ込みながら、荒く息をつく上司の腕を強引に引いてTVの中へ押し込んだ。
 上司は、堂島は、不意を打たれて抵抗らしい抵抗もしなかった。ただ、信じられないと言う目をしていた。
 足立は、ああ早い所こうしてしまえばよかったと言う安堵感で笑んですらいたかもしれない。
 ついさっきまで自分に触れていた、かさついて荒れてはいるが決して人を傷つけるためのものではない堂島の指先が、助けを求める事態なのかと迷い、足立に助けを求めるべきなのか迷い、足立のやっていることをどう理解したものかと迷い、結局何も出来ずにその手はTVの中へ消えた。
 黒い黒いTV画面は、堂島の体をすっかり飲み込んだ。
 朝から考え続けていた計画は、あっけないほどに簡単に達成され、終わった。簡単に終わってしまったTVの前で、足立は立っていた。
 これだけのことだ。これだけのことだった。足の裏に安いラグの感触を感じ、指先が冷えていくのを感じながら、足立はTVの前に立っていた。
 これですべて終わる。簡単な話だ。
 気に入っていたアナウンサーが不倫で降板になって、醜聞が真実だと知った時だって。
 拒んで自分のプライドを傷つけた女子高生だって。
 興味を持った宝石は近くで見るとくすんだ安いガラス玉でしかないことばかりだ。興味を持ったって、自分のものにしたくたって、本当は何もかもそんなにきれいなものではない。だから、くだらないことなど終わらせてしまえばいい。簡単な話だ。
 堂島のことも、簡単な話だったのだ。
 くだらないことをくだらないと切り捨てて簡単に終わらせて来たのに、そんなことも思いつかなかった。終わらせてしまえばよかった。これで、よかった。
 自分のものにならないことを苦く想うなど、くだらない。


 足立からすると、堂島は、最初はくすんだ安いガラス玉のようなものしか見えなかった。
 アナウンサーや女子高生のような宝石でもなんでもない。ラムネの瓶なんかに入っている安いビー玉レベルのものだ。たいした人じゃない。ただの田舎の、子持ちの、自分より十歳以上年上の、正義感がやたらに強い男。
 しかしそのビー玉は近くで見れば見るほど透明で、やがて、うっすらと入っている気泡まで足立にはきれいに見えた。
 ビー玉を間近で覗いてみると、円の形状が世界を歪ませて見せる。
 すでに歪んだ足立の目には、彼を通した世界はむしろ真っ直ぐに見えた。


 それをTVの中へ落としてしまった。自分のものにならないことを苦く想うなど、もうない。堂島が、自宅へ帰ることもない。
 あの男は、もう、足立のものだ。
「……どうしまさん」
 息をするように名を呟くと、やけに熱い喉がひゅうと鳴った。
 その音が嗚咽じみていることに驚いて、足立は、目を一度瞬かせた。







 TVの中へ突き落としてしまった。







 ―― 一度目を瞬かせると、足立はきちんと肩まで毛布をかけて、仰向けになってベッドの上で寝ていた。


「え?」


 見開いた目からほろりと零れた涙が、耳の方へ落ちて気持ち悪かった。夜更けの冷えた空気に気化熱を奪われて耳が冷たくなる。
 しっかりかかっていた毛布に、肩から下の体温は保持されて暖かいので、涙のせいによる冷たさが余計に際立った。寝ながら泣いていたことに気づくと、冷たさのせいではない寒気で身震いした。気持ちが悪い。
 寝る前を思い出そうとしてもどこから夢だかがわからない。朝、急に堂島をTVの中へ落とそうなどと思い立つ辺り、最初から夢だったのかもしれない。まるで胡蝶の夢だ。荘子を実体験するなど思いも寄らなかった。しかし、夢とはどこかから介入があって見るものではない。自分の頭の中に堂島をあの中へ「落としたい」と言う願望でもあったのだろうか。それとも「落とす」ことと、堂島のことが混ざったのだろうか。混乱した。泣いているのも意味がわからない。わけがわからない。わけのわからなさで不快感でいっぱいになる。クソ、と呻くような声で呟いた。そして。
 堂島がその場にいないことに安堵した。
 自分のものにしたい相手が、自分のものにならない世界に安堵した。


「は…はは……」


 乾いた笑いが渇いた喉に引っ掛かって不快だ。
 矛盾を孕む感情がひどく滑稽に思えて、足立は可笑しくもないのに暫く笑っていた。






「――何してんだ」




 と、勝手にシャワーを浴びたらしい堂島が顔を覗かせるまで。



2009/02/03/世の中クソだな!