エナメル





 お袋が「クマくんに」と買って来たらしい歯磨き粉はイチゴ味で、薄いピンク色の中身を絞り出すと甘いイチゴの香りがする。
「……お袋はお前を何歳だと思ってるわけ」
 俺より下だとは思っていそうだけど、幼稚園や小学校低学年、たとえば菜々子ちゃん辺りが使いそうな子供用歯磨き粉を与えるまでだとは思っていなかった。寝起きで癖のついた髪を掻きながら、ピンクのパッケージの歯磨き粉の置かれた洗面台の前で愕然とする。
 休日かつバイトもない俺と違い、バイトのシフトが入っているクマは俺より早く起きていて、すでに身支度をばっちり済ませていた。出かけるまでの時間が暇なのか、俺が起きた途端にうろちょろ絡んでくる。正直まだ眠い身としては、邪魔で仕方ない。しかも自慢げに新しい歯磨き粉を披露して来る。
「クマがねー、歯磨き粉がからいからいって言ってたらママさんが買ってくれたのよー。ヨースケもちょっとなら使っていいクマよ」
「や、いらねーし」
「ちなみにいつもの歯磨き粉は切らしてるので、クマがバイト帰りに買ってくることになっています」
「マジか!!」
 英語にしたらきっと、ジーザス! になるだろう気持ちをこめて叫ぶ。クマが神妙な顔で、マジです、とうなずきやがるので、俺はがっくりと肩を落とした。
「さあ、観念してクマとオソロイになるクマ!」
「くっそ、ミント系じゃないとスカッとしねーだろ…」
「ふう。あんなからいのでよく磨けるクマね、ヨースケは」
「なんだその、もう〜子供ね〜、みたいなリアクション! 逆だろふつー!!」













「っつーわけで、口ん中にやたら甘い匂いが残ってんだよな…」
 ジュース飲むかと聞かれ、苦いっぽいモンがあればそっちがいいとリクエストした俺は、遊びに来た堂島さんちの居間で、そんな朝のクマとのやり取りを月上と菜々子ちゃんに披露していた。
「はい。日本茶、濃いめに入れた。コーヒーはいれるの叔父さんが担当だから出してやれないけど」
「おお、さんきゅ!心の友よ!!」
 食卓にされている居間の机に、湯呑が置かれた。月上の前と、一緒に座っている菜々子ちゃんの前にはジュースのグラス。オレンジ色のそれをうまそうに一口飲んでから菜々子ちゃんは、俺の方を見て小首を傾げる。
「じゃあようすけくん、いま、イチゴのにおいがするんだね」
「まぁね、他に香りのするもん食ったりしてねーからさ」
「どれ?」
 唇に触れそうな勢いってくらいのごく間近まで近づいた月上の鼻が、小さく鳴った。
 あまりの近い距離に、ぎくりと身がこわばる。
「ちょ…」
「あ、ほんとだ。甘い匂いがする」
 へえ、と感心したように呟きながら、あっさりと月上の体は離れた。月上を見る目が思わず半眼になるのは必然だと思う。
「……お前さ」
「なに?」
「なんでもないです…。あのさ!」
 お前、菜々子ちゃんいんだぞ! と思った俺の気持ちの行き場は存在しない。とっとと気持ちを切り替えようと、ことさら明るい声を出した。
「菜々子ちゃんもクマみたいなイチゴ味とかの使ってんの?」
「うん!菜々子のはメロンなんだよ。おにいちゃん、こんどは、クマさんとおそろいにしてもいい?」
「じゃあ今のが終わったらジュネスに買いに行こうか」
「わあ、やった! あのね、もうすぐなくなるの」
 菜々子むしばぜんぜんないんだよ、と自慢げにあーんと口を開けて見せる菜々子ちゃんと、えらいえらい、と頭を撫でる月上は、実際は従兄妹だが、俺から見ると――きっとどこの誰から見ても、――仲の良い年の離れた兄妹に見える。
 この二人を見ていると、きょうだいとかって血のつながりではなく関係性が作るんだなと時々しみじみ考えることがあった。俺も朝、クマが構ってほしそうにうろちょろまとわりついて来るのをもう少し構ってやりゃよかったかなと頭を掻くと、どうした、と目ざとい月上が聞いて来るので肩をすくめて笑った。
「俺も、もう少しいいにーちゃんにならねーとなって。まあ、クマきちは優しくするとすぐ調子に乗っちまうけどな…」
「陽介は今のままで充分いい兄貴だよ。クマも毎日元気で楽しそうだ」
「ようすけくんは、クマさんのおにいちゃんなの?」
 月上との会話に菜々子ちゃんが目を瞬かせた。
 ああ、そうか。金髪の外国の王子様みたいな(外見だけは)クマと(王子様なのはあくまでも外見だけ)、色を弄った茶髪の俺とだと血の繋がりがあるようには見えない。一年生の菜々子ちゃんには、にーちゃんだの兄貴だの言っていたら不思議なんだろう。
「ん、そーだな。血はつながってないけどな、菜々子ちゃんとこいつみたいな感じ?」
「そうなんだ!」
 歓声のような声を菜々子ちゃんが上げる。自分と同じことを喜ぶ菜々子ちゃんは、花がほころぶみたいに笑う、って表現が似合ってる笑い方をするから、俺はついつい目を細めた。
「じゃあクマさんも、クマさんのおにいちゃんなようすけくんがだいすきなんだね。菜々子といっしょだー」
 だいすき、と言うストレートな物言いに、一瞬言葉に詰まる。照れくさい俺と反対に、平然とした月上は、優しく菜々子ちゃんへ微笑んだ。
「そうだな。菜々子もお兄ちゃん大好きだもんな」
「うん! あっ、ようすけくんもだいすき。クマさんも。おねえちゃんたちも」
「うわっ、告られちゃった。どうしようおにいさん」
 絶対に笑っていない目で「俺と叔父さんを乗り越えないと菜々子とは付き合わせない」なんて言われると思いながらふざけてみると、
「俺も陽介が大好き」
 物凄く想定外な答えが返って来て、頬杖をついて笑う月上と目を合わせたまま俺は、再度言葉に詰まった。
「は、はは……」
 月上はにこにこと俺を見ている。お前、面白がってるだろ! と思った俺の気持ちの行き場は、存在しない。
 菜々子ちゃんの少し頬を赤らめながらのもじもじしたような期待の目が可愛すぎて、俺の言う答えはひとつしかない。
「そっか、俺も菜々子ちゃんと月上が好きだぜ」
 そしてウインクひとつ。動揺を菜々子ちゃんにバレないようにこんな男前な態度してみせた俺凄くね?
 みんななかよしだね、と嬉しそうにしてくれる菜々子ちゃんはマジ天使だと思う。菜々子ちゃんの兄貴は、顔伏せて隠しているが揺れてる肩で笑ってるのがバレバレだ。













「妬ける」
 月上の部屋に入った途端言われた言葉はあまりにも端的で笑う。
「おいおいリーダー、成績良いのに主語がないって」
「今は授業じゃないから良いんだ。そういえば宿題終わった?」
「……そういうテンション下がることはやることやってから言おうぜ」
 色々と走り回ったり遊びまわったりで過ごしている夏休みの切り離せない添加物(正式名称は宿題)を思い出して、がっくりと肩が落ちる。「やることやってから」とわざわざ反芻するように俺の言葉を繰り返した月上が、ソファへ手招いた。
「そうそう、やることやってから」
 軽い調子で頷きながら、俺は先に座ったヤツの横に座って、月上の手が俺に伸びてくるより先にジーンズに包まれた腿へ触れる。
 爪でジーンズの硬い生地を引っかくと、ぴくん、と月上の腿が短く震えて俺はいい気分になる。引っかいて、手のひらで撫でて、それを繰り返すと月上の手が俺の首筋から耳の裏へなぞって来た。今度は俺が少し震える。
「…菜々子ちゃん帰ってくんの夕方だっけ」
「友達と河原って言ってたから、二時間くらいかな」
 お互い家族と住んでいる学生の身としては、こういう接触中は常にささやかな緊張感を伴う。留守中を狙って、部屋の鍵は閉めて、声は出来るだけ殺して、などと考えて、それでも目の前にこうして熱い体温と肌と肉があれば夢中になってしまうのは仕方がない。
 上半身だけ横へ向け、鼻先を寄せたら月上から唇を合わせて来た。表面を触れ合わせるだけのキスをしながら、俺は相手のTシャツの裾を捲り上げる。
 わき腹をなぞり上げると、首裏をくすぐっていた月上の指先に力がこもって項の骨の上を引っかいた。首を抱いているのとは反対の手が俺のシャツを胸まで引き上げて、その動きの延長で、月上の親指が乳首んとこを引っ掛けて行くからつい息が零れる。あっちも息が少し忙しくなるのが、触れ合わせている唇ですぐに知れる。手の動きが段々と大胆になる。ソファに片足を引き上げて体を捻り、腰もあいつ側に向ける。あいつも同じようにして向き合った。
 お互いにお互いのいい場所を探すのに夢中になりながら、口をくっつけてるだけじゃ我慢出来なくなって舌を伸ばす。すぐに月上の口が開いて、舌がくっついた。じん、と背筋が痺れる。
 ぐにぐにと俺の乳首を弄っていた手は一旦退いて、その後、両腕を俺の体に回して来た。ソファの上に引き上げていたお互いの膝がぶつかって邪魔になったから、俺は月上の片足を跨ぐように足を退かす。ぎゅうっと腕の外側から抱かれ、動きが不自由になった。腕を動かそうとしても月上の力はやけに強いので、肘から先だけ動かしてどうにかわき腹だのジーンズのウエストの辺りだのを弄る。あいつのボタンが指先に触れたのでそれは外して、ジーンズのジッパーを下げる。舌先が吸われた。俺も自分のジッパーを下げて前をくつろげようとする。舌を絡ませながらもぞもぞと俺が動いても、月上の腕は、俺をきつく抱いたままで変わりはない。
「陽介、まだちょっとイチゴの甘い匂いがする」
「確かめんな、恥ずい…」
 声は、またすぐに合わさった月上の口の中に飲み込まれるようだった。上下順番に唇を啄ばまれ、つるつるとした歯のエナメル質を何度も嘗められる。神経のないそこは嘗められても明確な感覚がなくて変にもどかしい。もどかしさのせいで、月上の舌が歯以外の場所、歯肉や唇、舌なんかに触れると妙に体が跳ねそうになる。ビク、ビクと不規則に震えるのを抑え込むように、月上はがっしりと腕を俺の体に絡ませっぱなしだ。
「っ、はぁっ…」
「陽介」
 とうとう明確に喘いだ俺の名前を呼ぶために、月上の舌が離れた。ついでとばかりに舌の腹んとこで唇を嘗めて、また口の中に舌を含まされる。水音が響いて、体中に血が巡る。
 今日は月上の方が勢いづいていて、貪るようにキスをして来るから少し押されていた。俺の方が溜まっていたりすげー触りたいテンションだったりで勢いづいてて、こいつがされるがままになってくれる時もある。そういう時もあるから、お返しに今日はされるがままになってみようかとも思ったが、あいにく俺の下半身はこらえ性がなかった。
 両手で腿を掴み、内腿を親指で足の付け根へ向かって撫でながらぎゅうぎゅうと体を押し付けるようにくっつくと、ヤツは一度ごくりと喉を鳴らす。熱い息が唇にかかった。
「陽介」
 溶けそうに甘ったるい声。少し掠れた声。体の芯が疼く。
 俺の名前を呼んだ月上は、自分の唇を濡らしている二人分の唾液をぬぐうように舌なめずりをする。唇から覗く真っ白いエナメル質。お互いのつるつるとした歯の感触と口ん中の柔らかさを味わい尽くすうちに、俺の口ん中の甘ったるいイチゴの香りは消え失せていた。
 相棒の味がする。













「……ふつー飲むモン?」
「わからない。陽介のしかしたことないし。AVとかは参考にならないよな」
 平然とした顔で首を傾げられて、俺は口の中のものを吐き出したティッシュを丸めながら、飲むべきだったかなと何だか罪悪感のようなものを覚える。飲めとは絶対に言われないだろうけど。
 経緯を説明すると――お互いのものを、その、寝転がりながら咥えあって、口ん中の月上のがイきそうかもと思うと俺の方もその考えで一気に上り詰めてしまい、「イく」だの申告もなかった俺の出した体液は月上の口内に受け止められた。ほとんど間もなく月上も俺の口ん中で達した。で、舌の裏に溜まる精液をどうしようかと脱力しながら考えていると、萎えた俺のを口から外した月上が先に起き上がり、片手で口元を押さえていると思ったらその次の瞬間には喉仏が嚥下の動きをした。飲んだ。あきらかに飲んだ。射精感と同時に上がっていたテンションで、のぼせ上がったような頭は、その出来事で一瞬にして冷めた。そこいらにあったティッシュを拝借して口の中の生暖かい体液を出し、「おま、飲んだ!?」と詰め寄ると、月上は「思ったより平気だった」と何の抵抗もない顔で感想を言った――経緯終了。
「陽介だって少しは胃に入っただろ。ごめんな」
 身支度を整えながら気遣う様子で言われた言葉に、胃の辺りと、ついでにもっと下、ジーンズの中におさまったばかりの辺りがカッと熱を覚えて、俺はちょっとうなだれる。腹ん中にあいつのが入ってると思うと、何だかやたらと頭を抱えたくなった。
 体の中、口以外にあいつのソレを入れたことはない。俺のもあいつの体の中は口の中以外知らない。そういう入れたりなんだりのやり方を知らなくはないが、まだそこまでは到っていなかった。
 お互いの腹の中にお互いの出したものが入っていると思うと、正直興奮する。入れるのと入れられるのと、同時に興味を覚えて、復活しそうな下半身を隠すために俺は余計にうなだれる。
「陽介? 嫌だったか?」
 心配そうにかけられた声に、悶々とした思考から慌てて抜け出した。
「嫌じゃなくてさ。そうじゃなくて」
「なくて?」
「……前かがみになりそうだ」
 少しの沈黙の後、ああ、と神妙な相槌が返って来た。恥ずかしさに眉を寄せて顔を上げると、月上は何やら本当に嬉しそうにしていて恥ずかしさも削がれる。
「陽介。手、拭いたけど洗いに行くか」
 匂い残るし、と月上が互いの手同士を軽く握り合わせた。口に咥える前のものをべたべた触っていたので、ティッシュで一度拭ったけれど、湿ったような感触が残っている。
「あー…と、口もゆすいでいーか?」
「俺もゆすぐ。ついでに歯磨いて行け」
「歯ブラシねーよ」
「ストックがあるからあげる。あと歯磨き粉も、うちの使ってるストックがあるから持って行けばいい」
 部屋を出て、階段を下りながら喋るお互いの声は、すっかり普段のものだ。さっきまでの掠れたりやたら甘ったるくなったりする響きはない。
 温度の高い雰囲気から抜け出すこの時間は、寂しいような、寒いような、頭が沸いた状態から抜けて少しほっとするような、複雑な気持ちに駆られる。
「さっきの主語だけどさ」
 洗面所に続く戸を開けながら、月上は唐突に口を開いた。
「俺はクマに、が入る」
「クマ?」
「陽介の口の中がクマとお揃いなのは妬けるので、俺と同じ歯磨き粉にしませんか」
 わかりやすいだろと振り返る月上の肩の向こうでは、顔を赤くした俺が洗面台の鏡に映っていた。





2008/11/30/