「三月の、二十一日になったよ。稲羽を出て行くのは」








でぐちはすぐそこ




 ざあ、と風が木々を薙いで木擦れの音を立てた。
 その音は荒々しくなく、穏やかな日差しに似合った優しい音で、ああ良い天気だと俺は明るい空を見上げる。
 こちら側の天気は、今は向こうとどう繋がっているのだろう。もう霧は出ない。世界は晴れて、シャドウと戦う事もなくなって、俺は一年の稲羽の生活を終えて月末にはここを出て行く。

 柔らかい草の上に寝そべった相手の、柴犬とかコーギーとか、そんな犬種を思わせる淡い色合いの髪が風に揺れる。
 いつも着けているヘッドフォンは耳を覆ったままだが、おそらくこちらの声は聞こえているのだろうと思った。伏せたままだった睫が、見下ろす俺の視界の先で小さく揺れる。
 目はまだ閉じたまま、唇がゆっくりと動いた。
「――テレビの中に一人では行くなって、俺は言ったよなぁ?」
 吐き捨てるような声。
「そうだな」
 最初の頃、テレビに入りだしてからほんとうに最初の頃にした約束だった。陽介が言い出し、それに同意し、いつも入る時はフードコートで集合してからと言うのが鉄則で、こうして一人でこの世界に立っているのは初めてだ。
 きっと仲間に言えば心配して一緒に来ると言ってくれただろう。だが今回は一人で来たかった。感知出来るクマとりせにだけ、夜にまで戻らなかったら悪いが探しに来てくれるかと頼んで、一人で来た。
 俺は一人だ。そして彼も一人だ。一人で寝そべったまま、眉を顰めてる。
 軽く腰を折って覗き込むと、俺の体で出来た日陰の中、彼はうっとおしそうにため息をついた。
「何でノコノコ来てんだよ、こっちには誰もいねーっつのに」
「お前がいるかと思って」
 答えると沈黙が落ちた。
 普段の陽介も行儀が良い訳ではないが、殊更乱暴に、気だるさを全身に満ちさせて手足を投げ出し、睨んで来る目は金色。
 視線が絡み合って、俺は目を細める。最初に見た時はあんな冷たい色に見えた目が、今はやけに甘い色合いに感じるのは、俺の意識が変わっているのか、こいつの意識が変わっているのかはわからない。
「陽介、…ジライヤ、とか呼んだ方が?」
 はん、と鼻を鳴らして笑われる。
「ジライヤでもスサノオでも影でも何でも同じだっつーの」
「…そうだな」
「全てが俺で、あいつも俺で、俺はあいつ。もう判ってるだろうぜ、あいつも。だから俺は別に何もしねーで、ここでぼうっとしてりゃすぐ戻んだよ」
 受け入れられさえすれば。
 陽介の抑圧している内面のかけら。陽介を構成する一面。
 頭の側へ座り込んで頬へ指先で触れると、陽介に触れるのとまったく同じ感触がした。
 頬から顎へ、指先を滑らせる。彼はじっと俺の目を見つめたまま動かなかったが、指先が顎の下のくぼみから喉仏へとなぞりだすと、撫でられた猫のように目を伏せた。抑圧のない感情のかたまりである彼は、急に無防備な顔をして俺に撫でられる事を選んで来る。
 いつもの現実世界での陽介と対峙しているような気分になって、顔を伏せ、短い前髪に唇を触れさせた。これは浮気なのだろうか。
 伏せた顔を上げようとすると頭の後ろに遮るものがあって、間近で見上げてくる金色の目に、俺はその遮るものが彼の、花村の手だと知る。
「行くなよ」
 苦しいような少し抑えた声が囁いた。
 金色の瞳が濁って、薄い茶色に見える。陽介、と思わず名を呼ぶと、強い力で腕を掴まれた。そのまま服を手繰り寄せる手に肩を掴まれる。頭と肩とを、懐へ引き寄せられて体がぐらついた。花村の横に片腕をついて自分の体重を支えなければ倒れ込んでしまうほど間近まで引き寄せられて、息を感じる距離で見た花村の顔は、痛いものを堪えるように歪んでいた。


「行くなよ。行くな。お前が帰っちまったら、毎日学校に行ってもお前がいない。この町ん中、どこに行っても会えない。それなのに、どこにもお前との思い出があってきっと俺は毎日お前を思い出す。毎日まいにち。呪いみたいだ。俺らの町だろ。お前の町も、稲羽だろ。それなのになんで行くんだ。お前の帰る場所はここじゃねーのかよ。声は電話で聴けても触れらんない。この町にお前がいない。離れても友達だとか、好きだとか、仲間だとか、特別だとか、そんなのは当たり前だ。ただ毎日にお前がいなくて、触れられなくて、リーダーも相棒も仲間も友達も好きなヤツもいっぺんに離れちまう俺はどうすりゃいい? なあ、月上。なあ」


「陽介、」
「……絞め殺しちまえばいいか?」
 そうすればお前は離れて行かないかと、問うような響きで囁く花村の指が首にかかる。ひやりとした感触が首を掴み、両側から、親指と人差し指が脈を押えた。手のひらが喉仏を押して息が重くなる。地面についた指先に力がこもって土を浅く抉る。
 少し眇めた目に映る花村の顔を、まっすぐ見据えた。
 多分、俺にシャドウがいれば、いまここで花村に喜んで殺されただろうに。
「そうしたら、黄泉にまで迎えに来てくれるか」
「……イザナギはお前だろ」
 首を押さえる力が弱まった。眉をしかめてうかがうように俺を見て来る花村と視線を繋げたまま、息苦しさから開放された喉が掠れた息を漏らす。
 動いた喉仏をゆるりとなぞって来る親指の感触に、さっきとは違う息が漏れた。
「体でも投げ出せば、何でもしていいっつったらこのままここにいるっつーの?」
「それは無理だ」
「だろうな」
「でも愛してる」
 頭で考えずに言葉が滑り落ちた。
 お前を。この町も仲間も。


「…”俺”も、お前も、色んな感情をこねくり回して理屈をつけて理解して納得して、面倒くせーったらありゃしねーよなぁ」


 暫くの沈黙を置いて、花村が可笑しそうに笑う。喉に増えれていた手が力を失って草の上へ落ちる。視線は繋がったままで、花村の金色の目が笑みにやわらぐのを俺は見ていた。荒れた気配はすでに薄らぎ、普段の陽介の柔らかく軽やかな気配が伝わって来る。
 なあ、と、さっきまでの吐き捨てるような声とは違う響きの声で、花村が問う。
「なんで俺がいると思ったんだ?」





 答える前に影はふわりと空気にかき消えて、残るはただただ風の音。





 陽介の何かが納得行ったのか、解消されるような何かがあったのかもしれない。もう影も形もない草の上にそっと手のひらを押し当てて、花村の問いに、もう聞く相手はいないけれど答える。


「俺の期待だったのかもしれない。少しはお前が寂しがってくれるんじゃないかと」


 そんなモン近い近い、と軽く笑う。距離もかろやかに飛び越えそうな笑顔。
 それに励まされて微笑み返せる。


























 アドレス帳に入っている花村陽介の名を表示して、通話ボタンを押す。コール音は五回半で陽介のどしたーと言う声に変わった。

「もしもし、オレオレ」

 どちらの月上サンでしょーか、とふざけた声が返って来るので、オレだよ、オレオレ、とベタなやり取りをしておく。

『で、どしたよ。何か用事?』
「うん、まあな。ちょっと」

 俺が普段あまり使わないような濁した言葉に、何かあったのかと急に心配そうに気遣いだす。陽介は優しい。優しくて、正義感の強い、最高の相棒だと思う。

「陽介、俺が引っ越すと寂しい?」

『な……』 

「俺は、さみしいよ」

 一瞬息を呑んだような間の後に、寂しくないわけねーだろ、と掠れた怒鳴り声が携帯から響く。
 うん、と頷いて目を伏せた。大好きだ。
 今、陽介に会いたくて仕方がない。





2008/10/07/頭でわかっている事とさみしいのは別物。