Call for Quarters




 月上は独りでいる時、自分の足元から伸びる影が二つに見える。
 それは幽霊や心霊現象のようなものではなくほんの一瞬の見間違い、ただの錯覚だと自分でわかっている。

 目が錯覚を起こし出したのは、稲羽を離れてから二週間ほど経った頃のことだった。
 新しく通いだした学校帰り、ブレザーの制服に包まれた背に夕陽を感じながらの帰宅中。足元から伸びる影に、寄り添うよりも少し離れた距離で、月上と同じような背格好のもう一つの影が重なる。
 目が見開かれる。瞳孔がわずかに開く。赤い夕陽に染まるアスファルトに、濃く落ちる影が二つ。

「――ようすけ」

 口をついて出た名は無意識だった。
 見慣れた光景だ。たとえば学校の帰り道の河川敷、夕陽に赤く染まる土手のアスファルト、そこへ落ちる似た大きさの二つの影。肌で感じる鮫川を通る風。河川敷の草のにおい。遠いどこかの家の夕飯の香り。
 目を瞬かせるとそれは一瞬で消え去り、肌に感じるのは、都会の乾いた空気と排気ガスの匂いだった。
 急に夢から叩き起こされた時のように、錯覚は生々しい余韻を残して、消えた。

「…………寝て、た、の…か?」

 立ち尽くしたまま思わず自問する。
 立ったまま寝てしまうほどの眠気を覚えていたわけではないが、可能性としてはありえる。そう考えながら、心臓が強く鳴っていた。
 鼓動の原因は、生々しい錯覚によっての動揺と言うよりも、たとえ錯覚だとしても、隣を歩く懐かしい影と、懐かしいあの町の気配を感じたことによる気分の高揚のせいだと、月上は気づいていた。








 月上長太朗に、ふるさとと言うものはない。
 あちこち飛び回る両親について回って過ごしたので、ここが帰る場所だと認識するほど一か所へ腰を落ち着けたことがない。
 帰る場所は両親と過ごす家であり、土地、いわゆる「ふるさと」ではなかった。
 そのため、どこかへ帰りたいと言う郷愁にかられたこともなく、稲羽へ行った時も、都会へ「帰りたい」と思ったことは一度もない。両親と過ごす家へ帰りたいと思わないほど月上は大きく育っていて、また、稲羽の暮らしは不自由なく過ごせた。
 会ったことのなかった叔父も従妹も、絆を深めるごとに家族になり、家族の過ごす堂島の家は我が家となり、気の置けない友人たちのいる町や学校には特別な情が染み付いて行く。
 稲羽の土の匂い、川の風、朝の空気、夜の静けさ。
 春、夏、秋、冬、季節をひとめぐり感じたあの町を、いつも隣にいた陽介の気配を、体が覚えている。








 体が記憶した感覚。それが錯覚として月上の身に現れる頻度は日を追って増し、そうしてまた二週間が過ぎるころ、あまりに頻繁に見える錯覚に苛立ちを覚えだした。
 初めの一度、二度まではただただ懐かしく嬉しかった。だが何度も感じるうちに、錯覚はあくまで錯覚だ、と言う思いが浮かんでくる。
 錯覚は本物ではない。触れられない、ほんの一瞬の幻影でしかない。
 ただ気配を感じてあたたかな気持ちになれていた期間は短く、後は、今は傍にいない存在に思い焦がれる時間になっていた。
 あの一年間で繋いだ絆は、離れていても変わらない。精神的な結びつきに揺るぎはなかったが、肉体的に触れられないことは、こんなにも堪える。そういえば想いが通じる前は、こんな風に焦がれる気持ちを持っていた。
 そして、影がこんな強く目に焼きつくほどに二人で立っていたのかと思うと、その自覚に眩暈がするようだった。

「陽介に会いたい」

 口に出すと、焦がれる胸が軋むように痛んで目を閉じた。目を閉じれば、自分の影に並ぶ陽介の影なんて言う錯覚を見ることはなく、焦がれる気持ちが加速せずに済む。
 加速せずに済むだけで、消えはしない。




 明日になれば平気になっているかもしれないと言う淡い願いは、毎朝目が覚めるたびに打ち砕かれる。
 一年ぶりに見る我が家の自室の天井は、稲羽の堂島家の屋根とは当たり前だが違うもので、正直、まだ見慣れない。毎朝ベッドで目を覚ますと、天井を見つめながら「ああ、俺はいま稲羽にいない」と一番に考えてしまう。
 自分以外の影が見える錯覚は続き、眼科に行くべきかもしれない、と真剣に月上は考える。眼科へ行くべきなのか、神経か、それともどこか別の科なのか、判断がつかないままぐずぐずと時間は過ぎて行く。
 増えて見える影はふたつの時だけではなく、よっつにもなり、いつつ、むっつ、ななつ、やっつと増えたり、また減ったりする。時々少し小さい影まで増えて、それらは月上の喉の奥を詰まらせるような衝動を併せ持ち、凶悪なほどだった。

「みんなに会いたい」








「――で、GWはこっち来んだろ? 空けてるぜ、みんな」
 陽介の声が耳元で弾んでいる。みんな、と言う響きに、不意に胸が詰まって黙り込むと、
「え、もしかして来れねーの?」
 と少し下がった声のトーンで尋ねて来るから、電話越しに見えないのはわかっていても首を横に振った。
「いや、行く。死ぬほど会いたい」
 激しい表現に、電話の向こうで陽介が笑ったが、月上としては冗談ではない。冗談にしてふざけるには、陽介や、仲間たちや、稲羽へのこの郷愁は強すぎて笑えない。
「陽介。俺、行くのがこわいんだ」
「怖い?」
「こんなに、こんなにお前やみんなに会いたいんだから、実際会ったらどうなるかわからなくてこわい」
 一世一代の大告白のような気持ちで携帯に囁くと、電波で繋がった向こう側で、陽介が大爆笑した。
「お前に好きだって言ったときと同じくらい、真剣だったのに」
 拗ねて言うと、陽介は神妙な声で悪かったなと詫びてくるので許してやることにする。
 その後、すきだようすけ、うんおれも、おれもなに、なにってなに、なにかいって、だからなにって、すきだ、おまえがさきにいうからおれもってなんだろ、と言う人様に聞かせられない甘えた会話の後、陽介は電話越しにまた少し笑った。
「なあ、ホームシックって知ってるか?」
「故郷を恋しがるってあれだろ?」
 急に何の話だろうと思いながら答えると、電話の向こうの陽介は笑っている。先ほどの大爆笑とは違い、やけに優しい笑い声だった。
「早く帰って来いよ。待ってるぜ、相棒!」








「おにいちゃん、おかえり!」
 改札を急いで抜けた途端、ちょうどその日の空のように、晴れ渡る満面の笑顔で飛びついて来た菜々子を抱き上げ、くるしいよ、と笑うのをきつく抱いたまま、続けざまに飛びついて来たクマとりせも片腕で抱き返す。
 その勢いで「叔父さん」と半ば冗談、半ば本気で迫ると、「いらんいらん」と堂島は笑って頭を撫でてきた。
「長太朗、少し背でも伸びたか? いや、変わらんか…元気そう――」
「センセイ!センセイセンセイー! クマね、クマね、センセイに会いたくて毎晩枕を涙で濡らしたクマよー」
「――で、なにより――」
「クマはさっきもそれ言って、お前のはよだれだろーって花村先輩に突っ込まれてたじゃない! センパイ、うーんやっぱりメールや電話じゃないのっていいね!」
「――……だ。おい、随分懐かれてるな」
 ハグが終わってからも勢いの止まらないクマとりせに負けて、困ったように堂島は笑う。その横で、千枝と雪子も笑っていた。
「二人とも相変わらずだなー。クマくんなんか、昨日っから菜々子ちゃんともう超大盛り上がりだったんだから」
 千枝の言葉に菜々子の顔を見ると、嬉しそうな笑顔を浮かべっぱなしの菜々子に大きく頷かれる。
「あのね、菜々子、クマさんといっしょにゼリーつくったんだよ。あとでたべよ?」
「うん」
 溶けそうな声で頷いてから、微笑ましげにこちらを見ていた千枝と雪子と、視線を合わせて笑い合う。
「お帰りなさい、月上くん」
「おかえり、リーダー!!」
 異口同音の迎えの言葉に、ただいま、と応えると、じわりと胸に嬉しさが広がって行く。
 このメンバーの中ではシャイな完二と直斗は、照れくさいのか遠慮なのか、それともクマとりせの勢いに負けたのかまだ少し離れた場所にいたので、菜々子を抱いたままこっちから近づいて一人ずつ頭を撫でた。完二は、ガキじゃねっすよ、とごにょごにょ言いながらもおとなしくしていて、直斗は少しだけびっくりした顔をして、そしてやはりおとなしく撫でられた。
「お久しぶりです、先輩。…久しぶりじゃないけど」
 差し出された直斗の手を握手の形で握る。小さくて華奢で、指や手のひらの一部が少しだけかたい、テレビの中で銃を持ちなれた手。
「俺も久しぶりな気分だ。直斗」
 目いっぱいの気持ちをこめて名前を呼ぶと、直斗の頬が赤らんで、それでも嬉しそうな笑顔のまま、せんぱい、と呼び返してくれた。
「完二も。ほら、先輩って呼んでくれよ、それとももう同じ学校じゃないから先輩じゃなくなった?」
「ばっ、バカ言ってんじゃねーぞ、アンタ! センパイはセンパイだろうが!!」
 軽口を叩くと素直に怒る、懐かしい完二の慌てた顔に思わず笑みがこぼれる。笑いっぱなしで溶けてしまいそうだ。
 笑ってんじゃねえ、と完二も声だけは怒っているものの、顔は久しぶりの再会に緩んでいる。
「で、陽介、俺いま菜々子で手がいっぱいだからお前からハグってくれ」
「さっき思いきりクマとりせ抱きしめてただろ!」
 後輩や同級生たちへ先を譲るように、両腕を組んで片足に体重をかけるいつもの、いつも通りの格好で皆を見守る位置にいた陽介に声をかけると、突っ込みを入れながらも彼の腕は菜々子ごと月上を軽く抱きしめた。
「お帰り、相棒」
 迎え入れる言葉と同時に、背を軽く叩かれる。確かな感触がそこにある。
 耳元では菜々子の笑い声。みんなの笑い声。
 指先にまで力が満ちるような幸福感を月上は味わった。

「……もう、俺、ここからどこにも行きたくない…」

 菜々子を抱き直しながら呟くと、後ずさる時に靴裏と地面がこすれて鳴る、ざっ、と言う音が、周囲全員の足元から起こった。








 黄金週間のめいっぱいを稲羽で過ごした月上は周囲からやたらとちやほやされ、「あん時はみんな、お前がそんなに寂しいのかって心配になったんだよ…」と後日陽介から電話で聞くこととなる。



2009/01/03/Call for Quarters - CQ - seek you