晴れた空になにも見えない




「……あれ?」
 気づくと僕は、堂島さんちの玄関に近い塀にもたれかかっていた。

 塀の作る日陰のおかげで避けられてはいるが、ぎらぎらと強い夏の日差しが、眩しいほどにコンクリを照らしている。
 影と日なたとの差は強いコントラストとなり、目に痛い。
 今日は真夏日だ。コンクリに近い辺りはうっすら揺らいで見え、その揺らぎのせいで頭がぼうっとしてしまうほどだった。
 こんな真夏日に休みだったのは幸いとでも言うか、一日家に引きこもってクーラーの中で涼んでいるつもりだったのに僕はなんでこんな屋外にいるのか、と首を捻ると、癖毛な上に寝ぐせまでついている髪が、もたれている塀にこすれた。
 ざらついたコンクリ。これは堂島さんちの塀だ。
「……はぁ…」
 熱を吸って人肌よりも熱くなっているそれから離れようと、暑さの不快感に舌打ちしながら姿勢を正すと、動いた拍子に額から滑り落ちた汗が首筋へと流れた。うっとおしい。
 ここは堂島さんちの前で、僕は非番で、堂島さんも今日は非番で、世間は夏休みで、…長期休みの間は楽しげに遊びまわるガキがくだらない騒ぎをいつもより多く起こしてくれたりなんかして、くそ、ガキなら勉強でもしてろよ。
 暑さのせいでいつもより強い苛立ちを覚えて、眉をひそめた。日差しの眩しさで目が疲れるのか、うっすら頭痛までする。畜生。
 日差しから逃れるために目を閉じる。湿度の多い熱い空気に、肺が軋むようだった。近くの木に止まっているらしいセミの声が強すぎて、わんわんと頭の中で反響する。うるさい。




 …どうした足立、なんか用か、菜々子か長太朗に何かあるんだったらあいつらは留守だぞ、どうした、おい、聞いてんのか、寝てんじゃねぇだろうな、足立。




「あーもう、うっせ…」
「うるせえとは随分な言い草だな、おい、足立!!」
「わっ!」
 思い切りビクンと体が震えた。
 セミの声の頭痛を誘う雑音の中、唐突にクリアな声が間近で僕に浴びせられる。目を見開くと、堂島さんがいた。
 いや、いておかしいことは何もないんだ。ここは堂島さんの家なんだから。
 買い物帰りらしい堂島さんは、買い物袋を片方の手首にひっかけて下げ、指に車のキーのついたキーホルダーを引っかけていた。
 非番なのでさすがにシャツは着ていない。脱いだ背広を持ってもいない。普通のTシャツに普通のジーンズだ。
 …はは、堂島さんもジーンズなんて履くのか。
 やけにおかしくなって思わず口元が緩む。愛想笑い程度の笑みを見て、堂島さんはやけに怪訝そうに僕の顔を見た。じっと目をこらす仕草で、すでに痕になって刻まれているのだろう眉間の皺が深くなる。
 非番の日にまで眉間の皺を見たいわけじゃない。
 それなのに僕は、なぜ非番の日に堂島さんが一番いるであろう上司の自宅にまで来ているのか。考えるとまた頭痛がした。
「なんで僕、堂島さんちの前にいるんスかねぇ」
「足立…」
 あきれ果てた声で堂島さんが僕の名前を呟く。
 お前しっかりしろよ、とか。
 お前大丈夫か、とか。
 お前なに言ってんだ、だとか。
 そんな様々な思いをぎゅうっと濃縮して名を呼ぶ声に込めたような、そんな声が僕の耳に届くと還元されるのか、なんだか胸がいっぱいになって苦しくなった。
 ――いや、その前から、なんだか苦しかった。頭がぼうっとして気づいていなかっただけで。
「おい、足立!」
 意識した途端に体がふらついたが、堂島さんの買い物袋を提げた手が肩を掴んでくれたのでその場にとどまれる。
 揺れたビニール袋の中で買って来た物ががさりと音を立てた。ちらりとジュネスで売ってるアイスの箱が見える。こんな暑さの中じゃ、車じゃないと買って来れない代物だ。
 そんなチェックを入れている一瞬の間に、堂島さんの手の体温が、服を簡単に通り越して肩に伝わる。
 熱い。暑苦しい。体温たっかいっつーの、アンタ。
「すみません……おっかしいな」
「熱中症か?」
「んなことないですって。喉は渇いてますけど」
 僕は気にさせないように笑ってみせたが、堂島さんの眉間の皺がくっきり深くなるだけで、肩の手も離れて行かない。
 と思っていると、肩を掴んだままの手とは逆の手で、唐突に頭をはたかれた。
「いてっ!」
 力がうまく入っていない体はその勢いでふらついたが、堂島さんが肩を掴んだままなので、それに支えられて体は倒れない。
 堂島さんは、はたいた方だと言うのにため息めいた息をつく。
「うち来て少し休め、ぶっ倒れんぞ」
「はぁ」
 アンタのせいで今ぶっ倒れそうだったんスけど。






 堂島さんの家へ入ると、中は意外にも熱はこもっておらず、外よりひんやりとした空気に思わず息をついた。
 靴を脱いで中へ上がる。テレビのある居間に通され、座ってろ、扇風機つけていいぞと言って、堂島さんは買って来た食糧を冷蔵庫へ収めに行った。
 どこに座ってろと言う指示はない。僕は、ちゃぶ台の四辺のうち、普段堂島さんと菜々子ちゃんと甥っ子が座っている位置を避けて、残りの一辺に座った。
 手を伸ばして近くの扇風機のスイッチを入れる。首を振りながら空気をかき混ぜる家電が、体の熱を少しずつ奪って行ってくれた。
「菜々子ちゃんもあの子も遊びに行ってんですか?」
「一緒にな。あいつの友達と遊ぶのに、菜々子も混ぜてもらうらしい」
 食糧をしまい終わった堂島さんから、ほら、と差し出されたコップには深い色をした麦茶が入っていたので、僕はついその中身を確認するように目を瞬かせていた。
 堂島さんが出すものと言えば、同じ麦でもアルコール含有のものの方がしっくり来る。
「どうした、麦茶は珍しくもねぇだろ? 言っておくが熱中症になってそうなやつにビールは出さんぞ」
「うわ、変なとこで勘がいいんだから…」
「変なとこってどういう意味だ」
「いや、なんでもないっス!」
 まだ冷め切ってないからぬるいと堂島さんに説明された麦茶は、一口飲んでみると意外に美味しかった。コンビニの冷えたパック麦茶とは違って、懐かしいような味がする。
 堂島さんが煮出して麦茶を作るとも思えない。菜々子ちゃんか、甥っ子が作っておいたものだろう。
「うまいですねぇ、麦茶って」
 しみじみ言うと堂島さんは、ジュネスの麦茶パックらしいがなと笑いながら、ちゃぶ台の横ではなく、ソファに腰を下ろした。食事時以外の堂島さんのくつろぎ場所はそこらしい。
 コップ一杯のぬるい麦茶は僕の口の中を濡らし、あっという間に胃へ落ちて行った。
「足立、来い」
 飲み干すのを待っていたかのようなタイミングで声をかけられる。
 ちゃぶ台へグラスを置きながら、へ? と間の抜けた声をもらしながら堂島さんを見ると、座っているソファの横を叩いて招かれた。
 何のつもりだか知らないが、何だその真顔。何の冗談?
「来いって、犬ねこじゃないっスよ」
「そう絡むな。いいからこっちに来てみろ」
 二度目の促しに、わけがわからないまま膝立ちになってじりじりとソファへにじり寄った。
 立ち上がるのを億劫がったのがわかったのか、堂島さんが呆れたような顔をするから、ソファの端っこに手をかけて立ち上がる。――でもやっぱり面倒で、しっかり立ち上がらないまま中途半端に腰を持ち上げ、ソファの上へ這い上がった。
 …と思ったら、僕の体はソファの上でころんと仰向けに転がった。
 堂島さんの手が、僕の頭を横薙ぎに押したせいだ。さっき表では堂島さんが支えてくれていたので倒れなかったが、今回はただ頭を押されただけなのでぶっ倒れる。堂島さんの膝の上へ、頭が、あれ、なんで僕の頭は堂島さんの膝に、ちょっと、え?
「僕、菜々子ちゃんでもないですよーおとうさーん」
「わかってる。お前こそわかってるのか?」
 そりゃ一体なんの話だと目を瞬かせる。
「お前、ひでえ顔色だぞ」
 わかってんのか、と、見下ろしながらまた言われた。ひどいって。だからって膝枕って。
 あほらしい気持ちと同時に、どんな顔色をしているのかと少し気になった。堂島さんにこんなことをされるほどのひどい顔色と言うと、どんな具合なのだろうか。
 だが見透かされたようなことを言われ、それを認めるのは気に食わない。
 平気ですって、といつものへらへらとした笑みを浮かべて言うと、やけに真剣な低い声が返って来た。
「お前、暑さで夏バテなんかしてねぇだろうな」
「あー…んー、や、してないと…」
「なんだその”あー”だの”んー”だのは」
 いやに突っ込まれて内心辟易する。
 正直に、昨夜は結果的に死ぬことになった女たちの顔とか突き落とした感触を思い出したら消えなくなって寝ようとしてもビクっとして起きちゃって死ねよクソなんて思ってももう彼女らは死んでんだなーとか思うと妙に目が冴えてそのまま今まで起きてます、なんて答えられるはずがないのに。
 答えられるはずがないからこそ堂島さんは僕の上司であり、こんな風に会話をしている。
「……ちょっと寝不足ですけど」
 嘘をつくのは、ほんの少しの本当を混ぜるといい。
「夜、寝付けなくて、夢見も悪くてちょっとうとうとしたらすぐ目が覚めるんですよ」
「眠れねぇのか?」
「まあ、ちょっと…あっ、ホントにちょっとですよ」
 嘘をつくのは、ほんの少しの本当を。
 堂島さんは僕の言葉を聞いてしばらく黙ってから、僕の頭を、片手で自分の膝へと押さえ込んだ。
 熱い手のひらが額から目元を覆って押してくる。頭を持ち上げようと身じろいだが、手は退く気配などない。
「ちょ、」
「具合悪ぃんだ。菜々子たちに寝てんの見つかっても、からかわれんだろ」
「じゃなくて」
「お前の分もアイスは取っておいてやるから」
「ホントですか、ありがとうございまーす。じゃなくて」
 もぞもぞと頭を揺らす微妙な抵抗にも手は動かないので、諦めておとなしくし、押さえ込んでいる手の隙間から堂島さんを見上げる。
 堂島さんを、滅多に見ない角度から見た。
 顎の裏側のまばらな髭が見える。骨格に沿って削げたようなやわらかみのないライン。時々少し揺れる喉仏。
 膝の上からこの男の顔を見るなんて想像したこともなかったので、その光景は、僕にとってとても奇妙だった。
 三十も近い男の部下にするような真似ではないと、堂島さんもわかっているはずだ。
 堂島さんは常識人だ。僕の戸惑いを、子供らに見られたら恥ずかしいからだとか、アイスであやされたりしないとか、そんなことはわかっているはずだ。
「…堂島さん、わざとでしょ」
「まあ、そうだな」
 常識人がどういう考えでこんな行為に到っているのかわからないまま呟くと、菜々子ちゃん相手に父親がふざけているような、気やすい応じ方をされた。
 家にいるからリラックスしているのだろうか。そういえば前も菜々子ちゃんには、ペコペコだとか可愛いことを言っていた。他にも色々と可愛いことを言っているのかもしれない。
「寝てろ」
 可愛いことは言われず、短く指図のような言葉が向けられた。
 こんな状態で、あんたの前で無防備な姿をさらして眠れるのだと、信じているんだろうか。この男は。
 でも、稲羽署の足立透は、こういう場所でぐーすかと寝てもおかしくない無神経なキャラだと思われているなら、寝る振りでもしてみせるしかない。
 本当の寝不足の理由なんて想像もつかないような稲羽署の足立透は、こういう場所でぐーすかと、ああ、本当の寝不足の理由なんて想像もつかないような稲羽署の足立透だから、この上司は、顔色の悪い部下の僕をこうまでして無理にでも横にさせて休ませようとしている。
 堂島さんを大丈夫なのだと納得させるために、僕はどのくらいの時間寝た振りをしていればいいかと考えながら、ひどく面倒くさい気持ちで目を閉じる。
 額を覆う堂島さんの手の温度が、あつい。くらくらする。意識が少しだけ遠のく。









 …手の温度の熱さだけ考えていたら、ほんの少し寝ていたらしい。

 上から聞こえてくる低いいびきで目を開ける。
 額を覆う手の温度は消え去っていたが、右肩に何かが触れていて、そっちがじっとりと暑い。そのうっとおしさと、急に目を開けた時の眩しさに、眉間に皺が寄った。
「っ……」
 目を閉じた暗さに慣れていた目をまた閉じ直して身じろぐと、右肩を暑くさせている何かが肩とこすれる。何なんだと目を眇めて見やると、いつもはコーヒーを持ったり煙草を持ったりしている、少し荒れた指が見えた。
 堂島さんの、僕の体を自分の方へ引き寄せるような手のひらは、僕の肌との間のある服をじっとりと薄く濡らしている。堂島さんの汗か、僕の汗か、両方の汗だろう。
 暑くて湿っていて不快なのに、僕はなぜかその手が離れないよう慎重に、顔だけ動かして真上を見上げた。
 少しずつ明るさに慣れた目をしっかり開くと、無防備な喉が見えた。うるさいいびきに合わせて上下する肩と胸。時々かくんとふねをこいで揺れる顎の、まばらな髭。
 その光景は、僕にとってとても奇妙だった。


 無防備な、干支ひとまわり以上年上の上司の寝顔と、うるさいいびき。
 寝てしまっても僕の頭を落とさない、かたい膝。
 落とさないように肩を支える熱い手のひら。
 遠くで夏を謳歌するセミの声。
 今だけは、寝不足のひどい顔色をした僕を無理やりにでも眠らせるためだけに存在する、この人。


 たかがこんなことが奇妙に胸を熱くするのだと、知ることも認めることも拒否して、僕は目を閉じた。



2009/01/05/