猫になりたい




 冬のあたたかい日は小春日和。
 なら、秋の一際あたたかい日は何と言うのだろうかと、明るく強い日差しに満ちた庭を眺めながら考えた。


 やけに強い日差しが、眩しいほどに白くはためくシーツを余計眩しいものにさせていた。その横に干した布団の白さもあいまって、庭を見ていると眩しい。

「…残暑?」

 薄い長袖一枚なのに、午前十一時を回ったいまの段階で汗ばみそうになるまで気温が上昇している。縁側へ投げ出しているジーンズに包まれた両足は、太陽の熱のおかげで裸足でも充分あたたかい。

 夏の最後のかけらのような暑さに、何だかぼうっとしてしまう。

 堂島の家には、今日、朝から俺一人きりだった。叔父は出勤、菜々子は友達と遊びに行き、友人たちとの約束は何もない。
 それならいっそ大物の洗濯をしてしまうかと思い立ち、シーツを洗い、布団を干し、洗濯機の回る間にざっと掃除も済ませ、今は綺麗になった部屋で綺麗になった洗濯物を眺めながら、ぱりぱりとクッキーなんぞを齧っている。

 昼の準備をするにはまだ早いし、準備と言えども、菜々子は昼食を友達の家でご馳走になるらしく、一人分作るのも気が乗らないのでみどりのアレやら赤いアレやらのカップ麺にするつもりだった。それには5分あれば事足りる。夕飯の買出しに行くにも、ジュネスのタイムセールはまだ。
 どうしたものか。思案しながら軽く伸びをする。
 テレビの中で剣を扱うせいか、稲羽へ来る前より筋力がついた肩がぱきりと鳴った。昨夜、本を遅くまで読みふけってしまったせいか凝っている。

「漢シリーズの最新作、もうすぐ発売だっけ…」

 本屋に発売日の確認でも行くかとぼんやり考えた時、足元で、にゃん、と気を引く鳴き声がした。

 見ると、縁側へ投げ出したつま先が、擦り寄ってくるやわらかい生き物の額に押されてふらふら揺れている。見覚えのある猫だ。
 そいつは俺が見ているのを確認するようにこっちを見て、俺が目をしばたかせると、視線を合わせたままもう一度にゃんと鳴く。そして猫は身を低くし、ジーンズの裾に頭をこすり付けた。

 今のように縁側の方の戸を開けていると、時々この猫がやってくる。

 釣った魚を分けているうちに懐いた猫は、だが俺にしか警戒を解いていないらしく、俺しかいない時限定で庭から縁側までしか上がりはしないから、室内が毛だらけになる心配はなかった。
 擦り寄られている俺の服は毛だらけになるから、後でガムテープなりでぺたぺた地道に掃除をしなければならないが。
 膝に擦り寄る猫の額を、少し上半身を屈めて親指で撫でてやる。もう随分慣れたあたたかい感触を撫でていると、猫はぐるぐると喉が鳴らした。
 一度警戒を解けばやたらと懐っこいし毛並みも野良にしては綺麗だから、この町のどこかの家の猫なのだろうと思っている。

「悪いな、今日は魚はないぞ」

 声をかけても今日は餌目当てではないようで、せがむ鳴き声もなく、ただ喉を鳴らしながら腿の方にまで擦り寄って来た。
 今日は甘えたいだけのようだ。そういえば餌をせがんで来るのは放課後が多い。昼間は、自分の家で食事をして満腹でいるのかもしれない。

 撫でながら、思う。猫は気ままだ。
 胸の方へ頭でべったりと擦り寄せて来るから抱くと腕を突っ張るのに、下ろせば人恋しそうに見てくる。膝に半身乗り上げてぐるぐる喉を鳴らすくせに、膝に乗せようとすれば軽やかに離れる。
 どうしろと言うんだお前、と笑えば縁側に座って欠伸をされる。好きにさせていればくっついて来る。

 もう好きにしてくれと言う気分で縁側と室内ぎりぎりの位置に寝転がり、こちらからは触らないでいる事にした。
 縁側へ後ろ足を置き、胸の上へ前足を乗せて胸元に頭を擦り付けてくる猫の、好かれているのがわかる喉の鳴らしっぷりに苦笑いした。

「便利だよな、お前の喉って」

 ごろごろ鳴る響きが、相手から触れさせなくても好きだと理解させる。ごろごろと喉の鳴る響きは微かな振動となり猫の全身に伝わっていて、背を撫でた手のひらにも伝わって来た。
 俺が日差しと小動物の体温に眠気を覚え、呼吸がゆっくりになるごとに、猫は段々胸の上へ寄り添ってくる。胸にも喉を鳴らす微かな振動が伝わりだした。

 あたたかい。
 あたたかくて、好きだと伝えてくる微かなリズム。

「俺にもお前みたいな喉が欲しい」

 そう、本当に声に出して呟いたのかはさだかじゃない。眠ってしまったから。












「ただいまー!」
「たっだいま、月上ー」


 玄関を開ける音と、元気な声の二重奏が意識を浮上させる。

 少し気を抜けばそのまままた眠ってしまいそうな感覚。絶賛ノンレム睡眠、絶賛熟睡真っ最中だったようだ。意識だけが覚醒して来るのに体がなかなか動かない。
「いわゆるかなしばりか…!」
 …と、声に出したつもりが、うめき声のように息が声帯を鈍く振るわせただけだった。
 俺が眠気と全身全霊で戦おうとしている間に、二つの板の間を歩く足音は玄関から近づいて来る。

「お兄ちゃん、ねてるのー? ジュネスのお兄ちゃんにプリンもらったから、れいぞうこ、いれとくね」
「んー」

 うん、と頷くつもりが、半分くらい音にならなかった。
 がちゃがちゃと冷蔵庫を開ける音。それと同時に、一つの足音が更に近づいて来た。それは板の間を歩く音から畳の上を歩く音に変わり、そして、

「おーい? 大丈夫かー??」

 足音は、間近で人の声となった。
 良く知っている声にどうにか目を開けると、腰を曲げて、俺を上から覗き込むようにした陽介の顔がある。
 茶色い髪。茶色い目。見慣れた顔。見慣れているが、起きてすぐに陽介の顔を見るのは、レアだ。物珍しさにまじまじと見てしまう。見ているうちに、陽介の頬が引きつった。

「いや、お前、寝起きなのはわかるけど、その目つき鋭すぎてこえーから…」
「失礼な」

 これはきちんと声になった。だいぶ喉は起きて来たらしい。
 …と言うか、なんでいるんだ。菜々子と一緒にただいまと言っていなかったか?

「……あれ、陽介ってうちの子だっけ」
「こりゃ盛大に寝ぼけてんな」

 起きろよ、と笑いを含んだ優しい声と一緒に鼻先を軽く摘まれ、思わず目を閉じる。
 小さく頭を振って陽介の指先を払い、俺は寝起きで霞む目をぱちぱちと何度か瞬かせた。

「つか、陽介…なんで」
「お前んち来る途中で菜々子ちゃんと一緒になったんだよ、遊びに行ってたんだろ?」
「…うん」

 そういえばそうだった。朝、夕方にはかえってくるね、と言う菜々子を見送った覚えがある。
 もう夕方なのかと目を瞬かせる。夜更かしをして寝不足だったせいか、随分寝てしまったようだ。
 窓の外を見ると、まだ空が赤みがかるほどでもなかったが、太陽は角度をだいぶ変え、ピークを過ぎた日差しは少し弱まった様子だった。昼間の強い日差しで、布団も良い具合に干し終わっただろう。

「菜々子おせんたくしまうね。お兄ちゃん、ねてていーよ」

 庭の洗濯物に気づいた菜々子が、頼む前に自分から言って来る。台所から俺の横を通り、庭へ下りた菜々子を視線で追うと、その先に、白い大きなかたまりが見えた。

「…そうだ、布団もしまわないと」
「布団取り込んでやるよ。代わりに俺にも夕メシ食わせてくんない?」

 それが目当てか、と笑いながら頷くと、陽介は嬉しげに庭へと出て行った。

 菜々子と陽介が話す声が聞こえる。ようすけくんなにがたべたい? と問う菜々子に、あいつのメシみんな美味いから迷うなー、だの陽介が答えている。
 …またお前恥ずかしいことを。と思ったら、菜々子も! と元気良く同意する声が聞こえた。
 頬が熱いのはきっと日差しのせいだ。
 話題は夕飯後には陽介が持って来たプリンを皆で食べるだとか、今日はあったかかっただとか、雑談が続いて行く。陽介の優しい声と、リラックスした菜々子の声。
 まどろんだ中に聞く二人の声が何だかとても心地よくて、起きたくなくなる。だがいい加減起きなくては。
 強い意志で腹筋に力をこめようとしても、眠気が抜け切らない体がだるくて起き上がれないので、とりあえずは精一杯の頑張りで片腕だけを持ち上げてみた。
 案の定どうしようもなかった。

「……おーい月上ー、なにやってんの」

 声をかけながら、陽介は取り込んだ敷き布団を二つ折りに畳んで俺の横へ置く。続いてふかふかになった敷き掛け布団を、その上へ。
 布団の横をタオルを抱えた菜々子が通って行く。タオル置き場になっている風呂場へ向かうのだろう。

「菜々子ちゃんが持ってった以外の洗濯物、そこにあったカゴん中に入れといた」

 と洗濯物について説明してくれながら、最後に陽介が俺の横に座る。持ち上げたままの俺の手を見て、ハイタッチの要領で自分の手のひらと俺の手のひらを軽くぶつけた。
 ぶつかる手を力の入ってない指先で少し握ってみると、陽介は、合わさった手をそのままにしている。

「起き上がれるかと思って。でも無理だった」

 まだ寝ぼけてんな、と片目を瞑って笑う陽介の手のひらから手を退かし、手首を掴んだ。
 そして無警戒に力の入っていない陽介の腕を、思い切り引っ張った。
 だいぶ体が起きて来たようだ。上手く力が入らないものと思って全力で引っ張った力は普段の半分くらいの強さだったが、陽介の体を引き寄せるには充分と言うか、必要以上だった。急に引っ張られた陽介は俺の体の上に倒れ込んで来て、お互い短く呻く。
 一瞬の息苦しさに意識が少し、眠気から逃れた。
 俺の肩に突っ伏しながら、ちょ、なんだよ、とか言っている陽介の首に、すかさず両腕を回して抱え込む。びくっと腕の中で震えて固まった陽介は、次に、我に返って暴れるようにもがいた。

「ちょっ、おま、起きてんのかー!?」
「起きてないけど起きるから起こしてくれ」
「どうやってだよ!」

 突っ込みながら慌てて身を引く陽介につられて、抱きついた俺の体も起き上がる。それだ。上出来だ。やるな相棒。

「何で凄く疲れた顔で肩落としてるんだ、相棒」
「……頼むから起きてくれ…!」

 首に引っ掛けた両腕はそのままで陽介の顔を覗きながら、ああ、そういえば、と忘れていた事に気づいた。

「ああ、そっか。窓閉めた方が良いよな」
「ちげーよ! 何する気だよ!!」
「なにするの?」

 カラカラカラ、と俺が窓を閉める音にかぶさって、菜々子の不思議そうな声がした。腕の中の陽介がまたびくっと一度震えて、固まる。
 窓を閉め終えて振り返ると、菜々子はあたふたする陽介と平然としている俺の顔を交互に見て、首を傾げた。

「お兄ちゃん、あまえんぼ?」
「うん」

 陽介から腕を外し、菜々子も、と両腕を広げてみせれば、菜々子も! と同じ言葉を嬉しげに返して飛びついて来る。恨めしげな顔で見て来る陽介の視線にさらされながら、よしよし、と菜々子の頭を撫でた。

「お兄ちゃんは今日はあまえんぼなんだ」
「じゃあ菜々子もあまえんぼ!」

 ごっこ遊びのような気分で二人笑いあう。抱っこしたまままた寝転がると菜々子は、きゃあ、と笑い声のような声を上げた。

「菜々子、おひるねしよう。枕は陽介だ。あったかいぞ」
「まくら? 一緒におひるねするってこと?」
「そう。俺はおふとんかな」
「わあ!やったー! あ、菜々子まんなか!!」
「いいよ。もちろん」
「月上、お前の話がまったくもってわからんのですが」
「陽介はまくら、俺はふとん。な、相棒」

 そうしてにっこり笑ってやる。陽介がぐっと言葉に詰まる。

「あ、相棒って言えば全て丸くおさまると…!」

 何か言いたそうだった陽介は、結局、おとなしく菜々子の横に寝転がった。菜々子の期待の目にかなうものか。
 菜々子は俺と陽介の間で、俺と陽介の手を恥ずかしそうに片方ずつの手で握ってから、えへへ、と笑う。陽介も照れくさそうに笑っていたが、ちゃんと握り返していた。それを見て、なんだかあったかい気持ちになる。
 あったかい気持ちに、あったかい部屋。心地よい。
 きっと、菜々子も同じ気持ちなのだろう。俺と陽介の胸と胸の間くらいの位置にある菜々子のつむじを眺めていると、すぐに寝息が聞こえた。手は繋がれたままだが、菜々子の手からは力が抜けている。

「……ちっさい子ってあったかいんだな」

 起こさないようにか、ほんの小さな声で陽介が呟くのが聞こえた。見ると、菜々子と繋いだ手をじっと見ている。

「なんかさ、生きてる…って感じするよな、こーゆーの」
「うん」

 呟く声が真面目だったので、俺も真面目に頷いた。
 陽介の目は菜々子と繋ぐ手を見ているようで、きっともう少し遠くを見ている。もう手の届かない場所を。

「――陽介」

 慰めたい、とも、強引に引き寄せたい、とも、どちらともつかないような曖昧な気持ちで名前を呼んだ。
 視線が俺へ向くのを待って、寝入った菜々子の頭の上、寝ていなくても見えない位置で、ちょんと唇が一瞬触れ合うだけのキスをする。
 触れてすぐに焦点の合う位置まで頭を引くと、陽介は驚いて目を丸くしていた。

「な、…」

 なんだよ、とでも聞きたかったのか、なにしてんだ、と言いたかったのか、開かれた陽介の口はすぐに閉じられた。菜々子の方を見て、寝息に安堵した様子で息をついている間に、距離をまた詰めた。
 前髪が触れ合う。陽介の体温が近くなって額があたたかい。戸惑うように陽介が身じろぐとシャンプーの匂いが微かに香り、もっと感じたくなって俺は、陽介の前髪に鼻先を埋めて目を閉じた。
 そこまですると陽介がもう好きにさせてやるかって感じで動かずおとなしくなったので、遠慮なく、前髪に埋めた鼻先を、俯くようにしてずらして行く。唇が肌に触れる。鼻筋を通って、鼻先へ。――ほとんどキスの距離。
 陽介がびくっとしたのがわかった。

「……ななこがおきる」

 囁いた声は自分で聞いてもなんだか甘く、どうやって出したかわからない。唇に、細く震えた陽介の息を感じた。
 小夜子さんはこんな甘い声を、時々わざと俺に向ける事があった。こんな声を意図的に出せるなんて小夜子さんは凄い。大人ってそういうものだろうか。
 そんな事を考えながら、今度は陽介の鼻先から鼻筋、眉間へと逆の順番に唇を滑らせて行く。
 キスのような接触を唇以外に繰り返しながら、陽介が好きだ、と、思った。
 お前の中の消えない痛み、いや、大事に大事に消さないようにしている痛みをやわらげようとする素振りで、気を引きたいと思う。
 それでも、大事な大事な痛みを、逃げ場にせずにただ悼む気持ちで大事に大事にしている陽介が嫌なわけではないことや、痛みをやわらげたい気持ちも嘘じゃないから、人間は複雑だ。
 突き詰めればただ、陽介が好きだ、と言う気持ちだけなのに。

「陽介…」

 呼ぶと、やわらかい感触が俺の顎のラインを軽く吸って行った。
 いま、猫のような喉が欲しい。喉が鳴れば良い。
 俺がお前をどれだけ好きか、思い知れば良いのに。



「ったくもう、どうしろってんだ…」



 困り切った陽介の声がする。近い距離。気持ちが良くて欠伸が出た。





2008/11/09/ 猫と俺と菜々子と陽介と、それからせんぱい