砂糖、水あめ、その他添加物 2



「右っかわの奥歯が痛いんですよねぇ」
 10月も半ばを過ぎた。冬の気配が秋を少しずつ侵食して行く頃、足立は右あごの辺りの痛みがじわじわと増して行くのを感じ出し、世間話の一環として堂島へ言ってみた。ジュネスのフードコートでの昼食後、ウーロン茶の紙カップを片手に、眉尻を下げて困った顔をする。
 実際は困っているよりも苛立たしい気持ちが強いのだが、警戒されない――相手にされないタイプのぱっとしなさを演じる上では、攻撃性を殺しておくに越したことはない。
 案の定、堂島は何も警戒していない顔で、手元の新聞から足立の方へと視線を上げた。
「歯か? 顎じゃねぇのか」
「や、まぁ、顎なのかなぁ…」
 てめぇの事もわからないのか、と可笑しげに笑われて、はぁ、と曖昧な相槌を打つ。言われてみれば今飲んでいる冷えたウーロン茶もしみないので、歯の神経が痛むと言うより顎かもしれない。
 病院へ行くのも、どのジャンルの医者にかかるべきか考えるのも面倒くさいと思いながらウーロン茶の最後の一口を飲み干す。やはり歯にはしみない。だが奥歯の方が鈍くじりじりと痛むのは変わらず、面倒くささと苛立ちのせいで眉をひそめてしまった。目ざとい堂島が、そんなに痛むのか、と呟く。
「足立。お前、飴噛んで食うの止めとけ。薬用トローチも嘗めて溶かせって説明に書いてあるだろ」
「そんなもん見たことないっスよ、トローチなんて家にありませんって。堂島さん、独身男の生活環境なめてんですか。薬用っぽいモンは、二日酔いの薬とか食いすぎ用の胃薬くらいですって」
「威張れたもんじゃねぇぞ…」
 呆れた堂島の声はいつもより力なかった。小さな子供のように腹が満たされた事で眠くなったのかもしれないと思うと、足立の目は、和むように少しだけ細くなった。


 堂島の手に折り畳まれた新聞の、稲羽ではない町での殺人事件の犯人逮捕を報せる文字が目につく。――(ばかが。オレはもっと上手くやるよ?)――ゲームの敗者を報せるその文字は、新聞がテーブルに伏せられたのですぐに見えなくなる。


 新聞の替わりに堂島の手にはホットコーヒーの紙コップが握られた。フードコートのコーヒーの味には誰も期待しない。熱いだけが取り柄のそれを、堂島は、そうっと口に運んでいる。
「堂島さーん。新聞、もういいんですか」
「あらかた読んだ。足立、読むんなら読んでいいぞ」
 応じた堂島の瞼が、口元から立ち上るコーヒーの湯気を感じて伏せられる。眉間には皺が刻まれ、疲労が滲んでいた。今日は書類さえ作ってしまえば後は上がれるはずだから、おそらく、真っ直ぐに家族の待つ家へ帰るのだろう。最近の堂島は、足立が出会った春頃よりも家が好きなようだった。
「堂島さん、」
 声音だけはいつも通りへらへらと軽そうなものにして、視線だけは真剣にして名を呼ぶと、伏せられていた堂島の瞼が小さく震えた。
 足立が椅子の背へもたれる、ぎし、と安いプラスチックがきしむ音がやけに響く。
「最近なかなか寝付けないんですよねー、寒くて」
 だから、と言外に伝える。普通の会話にはない、奇妙な間があった。テレパシーも使えないのに、こういう時は不思議と伝えたい通りに伝わっていると言う確信が湧いた。
 足立が甘えてみせると――自分をたてに堂島の同情心をつつき脅すような真似をすると――、堂島は、弱い。
 いつの間にこんな風になってしまったのだろうかと足立は考えたが、答えは浮かびそうにもなかった。
 コーヒーをゆっくり飲み終わるまでの沈黙の後で堂島は、今日は遅くなる、と電話をかけた。

 泊まる、とは決して言わない。足立もそんな想定はしていない。

 連絡を終えて携帯をしまう仕草をぼんやり眺めていると、不意に堂島は上着のポケットへ入れた手を止めた。笑いと苦笑いの中間のような顔をする堂島に察して、「あ」と足立は声を上げた。
「また菜々子ちゃんたちですか」
「あー、だな…」
 今月に入ってから始まった子供たちの堂島のポケットを狙った飴の差し入れは、まだ続いている。ポケットから出てきた堂島の手には、携帯の替わりに紙に包まれた飴があった。見覚えのある包み紙には、うっすらと「JUNES」の文字が入っている。
「これ、のど飴っスね。ジュネスのオリジナルの」
「なんだ、こんなモンまで出してんのか?」
「色々やってるみたいっスよ。そのうちジュネスまんじゅうとか出るんじゃないかって踏んでるんですけどね、ほら、あのマスコットのパンダ? なんかちょっとキモカワイイ系の着ぐるみの顔型とかで」
 足立は、喋りながら飴を見る振りをして、分厚い手のひらだなぁと少しかさつく男の手を見ていた。
 きれいに短く切りそろえられた爪のついた指先が、飴を摘んで足立の手元に移動する間も、飴ではなく堂島の手を見ていた。
「風邪引くなよ。年末に向けて騒ぎも増えて来る、俺たちが潰れてる場合じゃねえぞ」
 上へ向けて開いた足立の手の中へ飴を落としながら、堂島は言う。刑事になって二十年も経つだろうに、うっとおしいほどの正義感は薄れないものかと足立には理解が出来ない。
「了解ーっス」
 貰った飴は口に入れた途端やはり右側で噛み砕いて、苦笑された。
「お前は言っても聞かねえな」
「え、そうですか? 堂島さんの頑固なのが移ったんじゃ…」
「アホ、俺はウイルスか!」
 飴の残骸のような砕けた砂糖の塊をじゃりじゃり嘗めつつ、足立は堂島の突っ込みを笑って誤魔化す。
 こんなもん早くなくなっちゃえばいいって思ってんです、口ん中にいつまでも置いておきたくないんですよ、と答えたら、堂島はどんな顔をするだろうか。
 そう考えると不意に寒気がして、足立はぶるりと背を震わせた。
 もう、すぐに冬が来るのだろうと秋空を見上げる。夏の空とは違う薄い空色が眩しくてため息をつくと、こわばった猫背に堂島の手が一度置かれ、休憩の終わりを告げた。



2008/11/20/そして11月になる。