砂糖、水あめ、その他添加物



 秋になった。そう変化を感じ出したのは、暑いばかりだった上着が快適な体感温度をもたらすようになって来たからだ。
 紅葉や雲の形に興味はない。知識としてどういうものか、どういう雲かと名前くらいは覚えていたが、足立にとっては、ただの机上の知識として覚えておけば事足りるだけのものでしかない。
 上着を着ていても朝の空気が涼しい。そろそろ衣替えを考えなくてはいけない。
 暦は10月になっている。





 けほん、とこもった咳の音に机から顔を上げると、片手で口元を押さえ、眉をしかめた堂島の顔があった。
 しかめっ面のまま差し出されていた書類を受け取り、どうかしたのか問うと、喉がいがらっぽいのだと堂島は答える。
 署内では、いや署内に限らず稲羽の町全体で、最近風邪が流行り出していた。急に冷え込んだせいだろう。丈夫な堂島も今回は例に漏れず、流行に乗ってしまったのかもしれない。
「コーヒーいれてきます?」
「いや、飴がある」
 断りながら足立の隣の席の椅子を引いて座る。座る時の仕草が、機嫌の悪い時のようにいつもより乱暴だった。高くもなさそうな椅子がきしむ。
 調子悪そうだなぁ、熱でも出したらこっちの仕事が増えるよなぁ、と面倒くさい気持ちで堂島の様子を見ると、彼は羽織ったままだった上着のポケットに手を突っ込んでいた。
 取り出されたのは、白地に赤い果物のイラストの散らばった包み紙の、キャンディ。
「え」
 堂島の持ち物としてはとんと見かけたこともない可愛らしい色と形に、目を見張る。
「…うっわー、堂島さんにいちごみるく」
「うるせぇぞ足立」
 椅子に背を深くもたれかけさせているので、堂島のリーチは短い。椅子ごと身を引くと、足立の額をはたこうとした手はあっさりと狙い場所へ届かなくなった。
 堂島は眉間の皺を深くしながら、包みを剥がした薄いピンクのキャンディを口にする。
 そんな色の飴は、堂島の娘の菜々子が嘗めているのならば似合いそうだが、堂島が口にしていると思うとどうにも似合わずおかしい。どんなキャンディも砂糖のかたまりと言う部分は同じなのに、ピンクと言うだけで。
「……ぷ」
「足立」
「な、何も言ってないですって!」
 低い声の牽制に慌てて首を横に振った。日ごろから猫背な背を余計丸めながら床を足裏で押し、さりげなく椅子の位置を堂島から遠ざける。
「で、それ、やっぱり堂島さんちの子供らからですか?」
「上着のポケットにいつの間にか入ってんだよ。うちの奴らのどっちかだとは思うんだが」
「これっから寒くなりますからねぇ、乾燥して来るし。いやー、可愛いじゃないっスか、お父さんへの気遣い」
「ただの悪戯かもしれん」
 どのポケットにも洩れなく入ってんだぞ、と背広の内ポケットを漁った堂島の指には、また同じいちごみるく味のキャンディが摘まれていた。
 おー、と感心したような声を上げる足立に、堂島は少し肩を狭めて苦笑する。
「…夏ならべたべたになってすぐクリーニング行きだな」
「あ、可愛いって思ってるくせにー。やだなぁ照れちゃってー、もう、堂島さんいい年なんですから照れたって可愛くないですって」
「足立、」
「はい? あ、いてっ」
 今度は油断していたので、いつもより短いリーチを補う分だけ身を乗り出して距離を詰めた堂島の手は、足立の前頭部に見事ヒットした。キャンディを持ってる手の甲ではたかれたので、間近で白と赤の包み紙が揺れる。
 手ぇ早いですってと弱い抗議を挙げながら、足立ははたかれた頭を見せ付けるように自分の両腕で抱えて撫でる。お前は、と、堂島が息をつくようにそれだけ呟く声が、頭を抱えて俯く足立の耳に聞こえた。
「それだけ口が暇ならこれでも嘗めとけ」
 堂島の言葉に足立は、はい? と聞き返しながら視線だけ上げて上司を見る。
 堂島の手元で包みを剥がれた薄いピンクのキャンディが、ひとつ。似合わない色のキャンディがひとつ、指に摘まれ、足立の方へ差し出されていた。
 ぽとんと、頭を抱えていた足立の両手が自分の膝に落ちる。
 リアクションの止まった足立へ、ん、と促すようにキャンディを口元まで差し出してから堂島は、しまった、と言う顔をした。
 足立がそんな手をかけられるような子供ではないことを、今更思い出したように、驚いた顔だった。足立は、そう思った。
「……そうっスねぇ、」
 へら、と緩んだ笑みを浮かべた。
 子供であれば素直に、あるいは大人の顔を立ててやるつもりで口にしたかもしれないが、あいにくと足立はもういい大人だった。
「そんじゃ、ご馳走になります」
 いい大人のすべき行動は、礼を言って手で受け取って、それを口に入れることだろう。過ぎた子供扱いは見ない振りをして。
 堂島がほっとしたように目元を和ませて笑う。それから、子供相手のような真似をした己を気恥ずかしいと思っているのか、誤魔化すように自分の口の中にある砂糖のかたまりを嘗め出した。
 薄いピンクのかたまりが歯に当たる、がらん、と言う堂島の口内の小さな音が、静かな室内で遠く聞こえる。
 同じように足立も、口の中に甘い甘いキャンディを入れる。

 大丈夫だ。と、足立は思った。
 オレは上手くやれていると。


 ――がりん。


 右の奥歯に挟まれて、堅い砂糖のかたまりが砕ける。顎の骨に響くような鈍い音がした。
 いちごの味もミルクの味もわからない。これは砂糖の味だ。
 あまいあまい、家族の愛。


 ――ばりん。


 口の中の密度の濃い甘さ。








 それから堂島は風邪がはやっているせいか、それとも単にポケットの悪戯っぽい愛情を消費しきれないせいか、毎日のようにキャンディをくれた。いちごみるく。コーラ。チェリー。レモン。りんご。金柑。それは風邪を引いている人間を見かける事が増えるのにつれて、段々とのど飴に近いものになって行く。
 何度も何度も堂島は飴を寄越した。
 足立は何度も何度も右の奥歯で噛み砕いた。


 がりん。ばりん。がりん。何度も何度も。


(――ああ、参った。歯が痛い。)



2008/11/16/デレに気づかない=報われない