はじまりの夜



「そんじゃ、ま、乾杯?」

 陽介の、片目を瞑った演技がかる仕草に笑って、乾杯、と月上もグラスを掲げた。
 先に持ち上げられていた陽介のグラスの中にも、月上のグラスの中にも、赤ワインの色をしたものが入っている。ワイングラスの形に添って揺れる、部屋の明かりに照らされたその飲み物からは細かな泡が立ち上っており――つまり、甘いブドウ味の炭酸水だった。
 大学卒業したら呑んでくれってさと陽介が持ち込んだワインはなかなかに良い銘柄らしく、陽介の父からのプレゼントだと聞いた。月上と陽介、二人への高校卒業祝いとの言付けつきのそのワインの飲み頃は、丁度二人が大学を卒業する頃らしい。二人は引っ越した部屋にネット回線を確保した途端、保存方法についてインターネットで検索した。検索の結果、瓶は新聞紙でぐるぐる包まれ、ビニール袋で覆って、冷蔵庫の野菜室へとそっと置かれる事となる。
 卒業する時に思い出すんだなこれ、と冷蔵庫を閉めた陽介の笑う顔を見て、月上は、表情には出ていなかったらじんと胸の中が痺れるような気持ちになる。それを幸福感と言うのだと、知っていた。
 その代わりにと準備した炭酸水をグラスに注ぎ、ダンボール箱の散らかる陽介の部屋で、床にあぐらをかいて乾杯している。
 月上の部屋は、陽介と同じアパートの別部屋だ。通う大学は同じなので、生活する上での利便性は、陽介も月上も同じであり、また、引っ越した日も同じなので部屋の片付き具合も同じようなものだ。明日も朝から荷物の片付けをしなくては、生活らしい生活をスタートする事も出来ない。

「……なぁ、どんくらいで片付くと思う?」
「陽介が、荷物から出て来たゲームに熱中しなかったらすぐだろ。収納に仕舞えば、服もすぐ片付くよ」
「あ、お前とやりたかった格ゲー持って来たぜ」
「その箱は最後に開けよう」
「だな……」

 近くにあったマジックを取った陽介が、近くのダンボールに大きく「封印」と書くのを見ながら月上は声を立てて笑う。ワイングラスの中身はジュースで、酔ってはいないが、とても良い気分だった。
 ゴミに出す時に人に見られたくないダンボールを作った陽介も、月上に釣られるようにして笑い出した。そしてどちらからともなく、顔を寄せた。
 唇を一度軽く触れさせて、離す。見詰め合うと、互いに目を細めて微笑んでいた。また生活範囲を同じくして過ごす日々が始まる事に、互いに、微笑まずにいられない気持ちだった。

「月上。俺、一年がかりで覚えたんだぜ」
「何を」
「お前と離れてる夜の過ごし方」

 静かに囁く陽介の声が、少し大人びて聞こえた。一年間は短くない。長期休みの度に稲羽へ訪れていた月上だが、それでも毎日顔を見ていた頃よりも格段に会えなくなっていたのは確かで、その間、見逃した陽介の成長もあるのだろう。
 それをかけらも洩らさず見つけたいと、月上は、じっと陽介の顔を見つめた。そして、肩にも、また唇にも触れた。
 溜息のような吐息をついて、陽介は呟く。

「きっと、一晩で忘れちまうな」

 離れていない夜、一晩で。



 忘れてくれと言うひどく懇願めいた月上の囁き声を、陽介は笑わなかった。





2009/04/30/一年間を台無しにしたい夜。