愚にもつかない3600秒



 最近の堂島さんはつまらない。





 梨を近所から貰ったんだが食うかと帰り際に声をかけて来たのは、昼に入った定食屋に置いてあったTVで果物の効能がどうたらとやっていた時に、果物なんて一人だと食わないですよねえと洩らした一人暮らしの僕を気遣ってのものだろう。
 堂島さんは基本的に面倒見が良い。
 何かれと声をかけてくれる、説教やら注意やらも平均以上に多く口うるさいうっとおしい上司だ。
 うっとおしくてつまらないなんて最悪だ。今までは、うっとおしいがつまらないと思った事のない珍しい人だったのに。
 そう思いながらいつものへらへらした笑いを浮かべて、うわぁいいですねえとか応じてやると、うっとおしい上司はそうかと頷いて携帯を取り出す。
 この人がかける先なんか、仕事関係か自宅しかないので、この場合、自宅へ梨についての連絡をしているのだろうと思ったら案の定の内容が洩れ聞こえた。
「もしもし、…ああ、今日は遅くならん。それでな、貰った梨があるだろう。食い切れない分を足立にも分けてやろうと思ってな、…そう、連れて帰るから」
 どうやら僕は今日これから堂島さんの家へ寄る予定になったらしい。
明日に署へ出勤するついでに持って来てくれればいいのに。まあいいけど。
 あまり家へ人を招く習慣も暇もなくて招くなんて大抵僕くらいの仕事人間なうっとおしい上司は、用件が済めば、じゃあな、とすぐに電話を切る。
「菜々子ちゃんですか」
「いや、甥の方だ」
 通話を終え、二つ折りの携帯を閉じながら僕に答える堂島さんの表情は目を細めていて、まるで愛しいものでも見る親のような表情だ。
 何その笑顔。菜々子ちゃんの話をする時くらいじゃなかったの、そんな顔。

 ああ、どうしよう。つまんねぇ。

 この人までつまんなくなったらどうしよう。相棒だから、仕事のうちの大半を一緒に過ごす、つまり日常のうちの大半をこの人と一緒に過ごす。
 つまらない田舎のつまらない生活のつまらない連中。僕のつまらない生活をもっとつまらなくする気かこの人は。
 勘弁してくれよと内心呟きながら、湿った蒸し暑い夜の空気の中、堂島さんの横を彼の自宅目指して歩き出した。







「お帰り、叔父さん」
 堂島さんの家で、まず出迎えたのは彼の甥っ子だった。台所で何かやっていたらしく、玄関を開けると横からすぐに顔を覗かせた。
 何だか良い匂いがする。夕飯の時間は過ぎているだろうから、明日の食事の下ごしらえか何かしていたのだろうか。マメなことだ。
 おう、ただいま、とすっかり挨拶し慣れた様子で甥っ子と言葉を交わし、入れ、と僕の方へ顎をしゃくると玄関近くの食卓――と言ってもちゃぶ台以外で食事をしているところは見たことがない――にスラックスの尻ポケットに入れていた小銭やら鍵やらをじゃらじゃらと取り出しだした。
 直に突っ込んでる辺りがオッサンくさい。っていうか僕も上がるんですか。玄関先で梨受け取ったら帰るのに。
 仕方なく上がることにする。玄関のたたきを上がると、良い匂いが少し濃くなった。和風の香りがする。ひじきでも煮たかな。
 帰ってきてあたたかい匂いがするなんて、何年も味わっていない。
「菜々子、帰ったぞ」
「おとうさん、おかえり!」
 嬉しそうな菜々子ちゃんが飛びつかんばかりの勢いで迎えに来る。実際ちょっと勢い余って堂島さんにぶつかっていた。
 少しシャイだが基本的に元気いっぱいの菜々子ちゃんは、いつもに増して元気そうだ。
 何か良い事でもあったのだろうか。
 僕に気づいた菜々子ちゃんは、こんばんは、といつもの笑顔で見上げて来た。僕は猫背を余計屈めて視線を近くしてやる。
「こんばんは菜々子ちゃん。堂島さんにどうしてもって言われちゃってさぁ」
「どうしてもまでは言ってねぇだろ」
 調子良さそうな事を言っていると横から堂島さんに突かれる。
 僕を突いた手ですでにベルトまで外し出して寛ぎモード一直線の堂島さんは、食卓の下を覗き込んでから少し首をひねり、鍋の火を止めていた甥っ子に声をかけた。
「長太朗、梨は全部冷蔵庫入れちまったのか」
「梨なら今日陽介たちが来た時にだいぶ剥いて減ってたから、残ってたの全部足立さん用にまとめて野菜室の中。スイカも冷やしてあるから切ろうか。――食って行きませんか」
 最後のは僕に向けられた言葉だった。あ、じゃあごちそうになろうかなあ、とへらへら笑う。
 うっすら微笑み返された。口の端が上がる笑い方は少し堂島さんと似ている。
 そういえば、今年はまだスイカを食べていなかった。 
 一人暮らしにスーパーで見るサイズは買いづらいし、摂取しなければならない物でもないから、今年と言うよりここ数年食べていなかった。
 タダで夏らしい物を食べて気晴らしになるなら、暇するまでのおそらく一時間弱、愛想笑いを貼り付けておくくらい何てことない。
 冷蔵庫の野菜室から四分の一にカットされたスイカを出す甥っ子は、Yシャツの前を全開にし出す堂島さんの寛ぎっぷりには慣れ切った顔で、まな板と包丁も取り出す。
 菜々子皿出して、と手伝いを頼む姿は兄妹のようだ。
「菜々子とジュネスに昼飯買いに行ったら、陽介とか、涼みに来てた里中と会ったから、全員呼び出して梨食ったんだよ」
「いつもの友達か。はは、そりゃ大所帯だな」
「梨、ななこもクマさんに切ってあげたの!」
 皿を出してきた菜々子ちゃんが嬉しそうに言った。
 クマさん、とは確か夏の始め頃からジュネスで働き出した店員の事を指すのだろう。
 あの店はクマモドキの着ぐるみをマスコットにしたらしく、その中に入っている金髪の美少年は菜々子ちゃんと仲が良いらしい。
 ……集まって相談事や打合せでもしていたんだろうか。
 あっちの世界について。
「クマさん、ナナチャンの愛を感じるクマーって言って喜んでくれたよ」
 無邪気に菜々子ちゃんが笑う。いや、兄のような従兄がしている事をこの子は知らないだろうから、菜々子ちゃんの前で相談事する筈はないか。
 しかし、あはは、愛とか。
 またあの金髪のガイジンは軽々しく言ったものだと笑いそうになる。若いって無謀でバカでたまらない。
 あー、バカでたまらない男の話を聞いて、堂島さんが凄い微妙な顔してる。
 この人ほんっとに親バカだから、と呆れ気味に観察しながら、君ら菜々子ちゃんも入れて仲良いんだなぁとか感心したように言って、驚いたような顔をしてみせた。
 しかし、クールぶっておいて子供の事になると一喜一憂している堂島さんは割と面白い。
 まだ小学生の子供相手に、愛だの恋だのクソ生意気なこと関係ないじゃない。
 堂島さんの何だか嫌だけど嫌と口に出す程の話でもなく真に受けるような話でもないとわかっています的な微妙さの表情に気付いた様子の甥っ子が、窺うように堂島さんを見る。
「皮剥き器でだよ。菜々子が使ったの。包丁じゃないから安心して」
「…そうか」
 甥っ子から入る、違った方向でのフォローに適当に頷く堂島さんの眉間の皺は、深い。
 この場にいる人数分カットされたスイカを楽しそうに皿に移動させている菜々子ちゃんは父親の微妙な沈黙に気づかないでいる。
 甥っ子は堂島さんに視線を向けながら、気遣うような、少しためらった表情をした。
 それに気付いた堂島さんの、Yシャツの裾を出していた手が、
 動いて。

 ――ぽんぽん、と。

 堂島さんの手が、優しく彼の頭を叩く。叩くと言うよりも、撫でる。
 まるで菜々子ちゃんにするように。
 まるで家族にするように。
 まるで、と言うか、おそらく彼は、ほんとうに正しく堂島さんの家族だ。たかが三ヶ月やそこいらで。





 ……ああ、何だかつまんねぇ。




 たやすいと思っていた愛想笑いを貼り付けて過ごす一時間弱が、なぜか意外とたやすくないように思えて来た。
 いとまするにはあと何分くらいがベストだろう。
 菜々子ちゃんに女受けしそうな他愛もない手品を見せてやって、堂島さんが僕のおどけた仕草に苦笑して、彼が堂島さんと二人でうわぁと感心している菜々子ちゃんを見守って。
 そんな時間を切り上げるのはあと何秒くらいがベストだろう。




 たやすいと思っていたのに。



 ……どうじまさん。




2008/09/27/辞書にある焼餅と言う言葉を油性マジックで塗り潰す。裏移りして他の大事な言葉まで消えてしまう。