その名は希望







 俺の部下にこどもが生まれた。

 そのこどもに俺たち――ジャンと俺たちが出会ったのは、真夏の炎天下、リトルイタリーの隅で車がブッ壊れ、カポであるジャンと、ルキーノと俺が、その炎天下に立ち往生した日のことだった。
 護衛の一人だったその男が、連絡用の電話がある場所よりも近い我が家へと俺たちを招き、すぐ傍の安アパートへと逃げ込む。アパートの中は、急にしんと静まっていて、薄暗く古ぼけた建物の冷えた空気が心地よい。ジャンが、ほっと息をつくのがわかった。
 アパートには若い妻と、生まれて二ヶ月ほどの小さな赤ん坊がいた。部屋に入る前から聞こえていた、ほにゃほにゃと子猫の鳴いているような泣き声で赤子がいることに皆気づいていて、「生まれたのか、おめでとう」などと俺はその男に声をかけた。若い妻は、ジャンほどではないが美しい金で、ほにゃあ、と泣き続ける娘も柔らかい産毛のような髪は金色だった。
 すみません、と泣き続ける娘に恐縮する妻の緊張感を感じてか、赤ん坊は泣き止まない。揺り篭の揺れも、母のあやす手よりも、両親の緊張感にあてられて泣き続ける。これは暑さに参った体を休ませるのも早々に、電話を借りて退散すべきだと思った俺の横を、ジャンがすり抜けて赤ん坊の方へ向かった。
 そして、ぴかぴかの笑顔と共に揺り篭へ伸ばされたジャンの指に触れた途端に、赤ん坊は泣き止んだ。魔法でも見ているかのようだった、と、俺は、今思い返してもそう感じる。
 赤ん坊に手を差し伸べるジャンと、その指を握る赤ん坊。涙を止めて、まだはっきりと見えていないような目で、じっとジャンの方を見つめている。その光景を、じんわりとした感慨があった。

 「そろそろいいんじゃないか」、と俺は思わず口にしていた。
 どういう意味なのか察したルキーノが、「そろそろだな」、と笑う。

「あんたら二人揃って何の話だよ?」
「ゴッドファーザー。お前も、そう呼ばれておかしくない年だぜ?」

 ルキーノのウインクに、きょとんとしたジャンの表情がおかしかった。俺は、ぎょっとした部下の背を叩いて宥め、「お前さえよければカポに薦めるんだが」と笑いかけると、部下はとうとう動転して「恐れ多い」と言う言葉を言うために一分もかかった。
 その間も、赤ん坊はジャンの指を握って離さない。さっきまで泣いていたとも思えない様子で、薄く唇を開いて、穏やかな呼吸を続けている。
 ジャンは握られた自分の指をじっと見つめて、やがて、ニッと笑みを浮かべた。

「……よう、このシケた遊園地みたいな世界へようこそ、お嬢。けっこうめちゃくちゃだけどさ、意外と楽しいぜ。お嬢のことがダイスキな、パーパとマンマもいるし……、なあ、お嬢は、パーパとマンマのこどもだけどさ、俺のこどもにも、なるけ?」

 ジャンがそっと呟くように尋ねると、赤ん坊は、問いかけられたタイミングで笑った。見ている俺たちを、花が一息で満開になったのを見たような気持ちにさせる笑顔だった。
 ただのタイミングと言えばそれまでだ。だが、そのタイミングは奇跡のようで、奇跡のような偶然で、その赤ん坊は、ジャンカルロの初めてのこどもになった。







 そのこどもの親は半年後、「シケた遊園地みたいな世界」から姿を消した。CR:5の薬が横流しされている証拠を探り当てた男は、妻を人質に取られ、おびき出されて、消された。犯人は、身内だった。
 俺は彼らを守れなかった自分を悔やみ、カポレジーム筆頭としてのベルナルド・オルトラーニはすぐさま指示を出さなくてはならない。制裁のために、ジュリオに指示を出す。殺された夫婦の名を出すと、ジュリオの冷たいすみれ色の目に、燃えるような血の気が宿った。「わかった」とだけ短く頷き、踵を返す。横に立っていたイヴァンが少し顎先を上げて、チ、と舌打ちをしてから、ジュリオと同じように部屋を辞した。若い二人の背には燃え上がるような怒りが見えた。

「彼らは代々デイバンに住んでいる。墓があったはずだ。家族と同じ墓に入れてやってくれ」

 押し殺したような声になってしまった俺の願いに、ラグはサングラスの奥の目をほんの少し細め、いつも通りの笑顔で、「請求書は後日」とだけ言った。
 彼らは、ジャンのこどもの、親だった。


 迎えに行った赤ん坊は大きくなっていた。両親がいないことに気づいているのか、いないのか、あのリトルイタリーのアパートの一室でひとり眠っていた赤ん坊は、人見知りもせずに俺の腕に抱き上げられた。暖かい体温。甘いような匂いがする。俺は君の父親のボスだった、だが君の父親を守れなかった、すまない。傷ひとつない赤ん坊に心の中で詫びる。


 ジャンに報告した時は、見ているのがつらかった。驚いた顔をして、長い沈黙の後、「そうか」とだけ呟いて、ジャンはまた沈黙した。
 嘆きもせず、怒りもせず、ただただ静かだった。静かに自分の中の悲しみを飲み込み、静かに悼む。やがて俺から赤ん坊を受け取ったジャンは、金色の髪にキスをし、「マンマのところに行くか」と優しい声で囁く。

「心配しなくていいぜ、あそこのマンマは厳しいけど、愛してくれるさ。俺がお前のゴッドファーザーだから、何かあれば、俺が助ける」

 その子は、ジャンの初めてのこどもだ。




 ジャンのマンマこと、テレサ院長のいる教会に連絡をすると、明日の早朝迎えに来るとの返事があった。もう夜遅く、子供を動かす時間ではない。赤ん坊は俺が預かった。赤ん坊はたいしてむずがることもなく、イヴァンのシマの赤ん坊を産んだばかりの女の乳を貰い、よく眠った。執務室のソファに座って胸の上でうつ伏せにさせてやると、首の下に、小さな頭がぴったり収まる。甘い匂いがする。そういえば一日煙草を吸っていない。そう思った次の瞬間、ドアのノック音で目が覚めた。「ベルナルド、ちょっといいか」とルキーノの声がドアの向こうから聞こえ、「ああ」と声を返すと、大柄な体がドアを開けて入ってきた。
 「売人を始末した報告書だ」と執務机の上に大きな封筒が放られる。ルキーノの眉間に皴が寄っていた。おそらく俺の眉間にも。始末をしても、仲間が、部下が帰って来るわけではないが、これで復讐はひとまず区切りがつく。

「ベルナルド、ぼうっとしてるな、寝てたのか?」
「ああ、すまん、寝ちまってた」
「そりゃ起こして悪かった。もう少し寝てても構わんだろう、赤ん坊もまだ寝てるぜ」

 身じろいだ俺の胸の上で、赤ん坊はすやすやと安眠中だ。「よく眠る」とルキーノが呟き、そっと赤ん坊の頭を撫でる。

「赤ん坊と言うほど小さくもなくなってるな」
「もう八ヶ月らしい」
「最初に見たときから半年かよ……別人だな。よく寝る子だ、親は助かっただろうな。ああ、いい顔だ。綺麗な金髪が俺たちのボスに似てる」

 少し饒舌に、ルキーノは子守唄でも歌うような柔らかく優しい声で、眠る赤ん坊の頭を撫で続けた。希望に満ちた命を、慈しみ続けた。



 光。希望。陳腐だが、子供はそんなもので出来ているように、疲弊した大人である俺には感じられる。それは、俺がたやすく信じられなくなり、ジャンと出会ったことでその端くらいは掴み直せた代物だ。
 この子の父親と母親は死んだ。愛された記憶すら残らないだろう。だが、代わりに俺たちが覚えている。
 ルキーノには、愛した記憶が残っている。こどもの頬を、髪を宝物のように撫でる指には、自分の娘を愛した記憶が詰まっている。すべて、無ではない。

 赤ん坊は、すやすやと眠っている。その未来に絶望があると考えず、幸福があることを祈って、俺たちは赤ん坊を見つめる。

 諦めだらけの道だとしても、俺は、俺たちはまだ人生や未来に期待したいのだ。青臭い考えが頭の端にこびりついて離れない。
 俺たちは、泥のような絶望の中に立っている。血に染まった手と足で、天にはのぼれないだろう。しかし上を見上げると、ジャンがいる。諦めない、前向きな、俺の運命の男。俺の、ボス。だから俺はいつも、祈るような気持ちでこう考えることが出来る。幸せであれ、と。








2010.08.19.