美女と野獣




 立派な爪、立派なたてがみ、太い前足に、鋭い牙。
 きっとあいつは、メスライオンから見ればさぞかしいい男なんだろう。
「男の子から見ても、ずいぶんいいオスライオンなくらいだからなあ」
 ガキの頃にあいつを見ていたら、俺はさぞかし興奮しただろう。ぼくのかんがえたかっこいい肉食獣、ってなもんだ。しかも人のようなマントをまとっているもんだから、ますますガキのころに落書きしたヒーローに近い。
 そう思いこそすれ、俺は、あいつを怖がる様子を見せずに過ごしていた。
 なぜかって? そりゃ簡単な話さ。
 俺は、あいつをまったく怖くねえからだ。




「ふあー、食った食った」
 俺はでかい城の、長い長いテーブルの置かれた食堂で、いっぱいになった腹をさすった。げふ、と胃の空気を吐きだすと、マナー違反だと咎める視線が斜め横から飛んでくる。俺は素知らぬ顔で、天井のシャンデリアへ視線を逸らす。
 食堂のテーブルは長いが、そこでメシを食うのは二人だけだ。なので端っこの方の二席だけしか使われたことがねえ。最初は端と端で食っていたが、料理を運ぶのが面倒そうに見えて仕方がなかったんで、もう並んで食おうぜと提案し、今に到る。
 提案した相手は、この城の主だ。
 俺とメシを食っているヤツ──部屋にいるのは俺と、ライオンだった。
 ライオンは二本脚で立ち、豪奢なマントやローブなんぞをまとったりしているが、赤いたてがみを持った野獣だ。宝石のようなローズピンクの目は、人間の俺とは違う瞳孔を持ち、夜闇の中でも不自由がない。
 どういう理屈か肉球つきの手で器用にナイフとフォークを使い、デザートのジェラートまで小さいスプーンで食う。ナフキンで口元も拭う。コーヒーも飲む。そのあとに暖炉とソファのある部屋に移動し、ブランデーと葉巻、たまにはチョコレートなんぞもたしなむ。
「──さて」
 空気が響くような野獣の声に、俺はびくっとした。
 その声が怖くて、じゃない。そいつのこれから言い出す言葉を、俺は、テストの採点結果を聞くガキんちょみてえな反応で待っていた。
「今日の服装に、満点はやれねえな」
 実際、俺は、テストの採点結果を聞くガキだった。俺はこの城に来てからまず風呂の入らなさに唸られ──野獣は文字通り、物凄く嫌そうに唸り声を上げた──、バスタブに叩き込まれ、髪の適当な手入れの仕方を嘆かれ、スーツやタキシードの着こなしにダメ出しをされまくって、この城にいる仕立屋に採寸され、オーダーの服を何着も作られていた。今は晩餐のときに自分で服を選び、髪を整えて食堂に来るよう言いつけられている。そして食事のあと、口うるさい洒落者の野獣にダメ出しを食らうのだ。
「もうメシ食って寝るだけだから正装なんかしねえでいいじゃんか……」
「カヴォロ。せっかくメシもコースとして整えてんだ、こっちもそれなりに整えて食を楽しまんでどうする」
 そう言う野獣は、首元にはチェーンの首輪……もといネックレスをつけ、マントだって豪奢な刺繍のあしらわれたものを着ている。毛並みはいつもさらさらで艶があり、丁寧にブラッシングをしてあるようで、昔いた孤児院に来ていた野良猫のように撫でると毛がやまほど抜けたりもしない。などと、野良猫と比べたりしたことがバレると、相当怒り出すだろうけどな。
 プライドの高いにゃんこちゃんは、食後のコーヒーにたっぷりと砂糖を入れ、スプーンでゆるやかに掻き混ぜている。俺が野良猫と比べてることなんか知らずに、今日のメシの美味さに上機嫌の様子だ。
「つまり、服は時と場合に応じて、だ。──明日はピザを焼かせて出そう、それと瓶ビールだな。そのメニューに合う格好を考えて来いよ、ジャン」
 言外に「楽な格好でいい」と言った野獣は、ぱちんとウインクまで寄越してから、甘いコーヒーに口をつけた。俺はチーズの焼けてとろけた味わいと、瓶に直接口をつけて煽る快感を思い出してゴクリと喉を鳴らす。
「ワーオ! アイアイサー」
「うるせぇ」
「へへ、グラーツェ、ルキーノ」
 嬉しくてニヤニヤしていると、野獣は小さく肩を揺らした。笑っているのだ。微かに喉が鳴る音がして、俺はますますニヤニヤした。
 コーヒーが飲み終われば、食事も全て終わりだ。このあと別の部屋で酒を飲んだりもするが、今日は誘われなかったから、あとはそれぞれ自分の部屋で寝るだけだ。野獣が立ち上がり、俺も席を立つ。
 並び立った野獣は、俺が見上げるほど背が高い。
「おやすみ、ルキーノ」
 俺がそう言うと、弾力のある肉球が、そっと肩を押さえて来た。
 おやすみのキスの代わりに、ちいさく頬を嘗められる。野獣は、猫科らしいざらざらした舌を持つ。だからそいつは舌先のざらざらのない場所で俺の頬を嘗める。
 俺はふかふかした毛のない鼻先に、キスを返す。野獣の喉が小さく鳴った。
「おやすみ。よく寝とけよ、ジャン」




 夕飯が終わってしまうと、この城では、ひたすら暇だった。生欠伸をしたり、ぼーっとしたりと、たいしたスローライフっぷりだ。体がなまりそうで時々筋トレまがいのことはしているものの、夜の闇の中ではやる気にならねえ。
 部屋からのバルコニーへ出て、部屋に置いて貰ってあるウイスキーをちびちびやる。つまみは厨房で貰って来たチーズだ。ナイフで薄く削って口に放りこむ。夜風は冷たいが、胃でアルコールが熱いのでちょうどいい。
 手すりにだらりと肘をついて、外を眺めると、周囲が見渡せる。高い建物はこの城くらいしかない。周囲に広がる森の向こうに、俺の住んでいた家――デイバンはあった。
 小さい村だ。一通りの店はあるが、おねえちゃんのいる店なんかはこの森を抜けて反対側の町に行かねえと見つからねえ。ウチのオヤジ、アレッサンドロ親父は、町に行ってどっかのお偉いさんと作物なんかの売値について話して来たあと、おねえちゃんのいる店に寄って、しこたま酔っ払い、帰り道にこの城の薔薇をうっかり花泥棒し……なんやかんやで俺がここに寄越された。
 なんやかんやと言うか、「薔薇と交換にうちのかわいい子供をやるから、な? なんだ、しけたツラしていやがる。若いんだろうが、元気出せ。俺はこの薔薇を土産にしておねえちゃんと違うもん出したい」ってだけなんだが。あのオヤジ、一度どうしにかしねえと。
 俺が胡乱な目を宙空に向け、オヤジいっぺんシメる、の決意を固めていると、ふと、視界の端に揺らぐ影があった。
 手すりの上に、蛇がいる。
 見たことのある蛇だった。
 蛇は、この城で働いている輩じゃない。時々見かけては、語りかけるようにじっと俺を見て来る。ライオンが喋って立って歩いてんだ、こいつが喋り出しても驚きもしねえが、こいつは初めて見たときから、一言も喋らなかった。
 つ、と蛇の首が動く。頭が俺の方から、バルコニーの手すりへ……外へと向いた。
 静かなもんだ。城も森も寝静まっている。雨も雪も降っていねえし、風も穏やか。この部屋から見える城の門は、最初は夜にまで門番がいたものの、最近はめっきり見かけなくなったから、あれは俺の見張りだったんだろう。
 蛇はまた俺の方に頭を向ける。そして、門の方へと頭を向ける。
「ははん、逃げられるぞってことだな」
 しかし残念でした。教えてもらわなくても、最近は、逃げようと思えば逃げられる場所なんかいくらでもある。野獣は……もしかすると、俺が逃げられるようにしてるんじゃねえか、と思うくらいに。
 けど、俺は逃げなかった。
 蛇はゆらりと頭を揺らし、不可思議だ、と言う雰囲気で俺を見ている。
「ほら、あいつ、爪が鋭いだろ?」
 蛇の疑問を解消してやろうと、俺は話し始めた。とにかく、暇だったのだ。まだ晩餐のときの服を着たままだったので、蛇に向かって両腕を広げてみせる。
「見てみろよ。あいつに触られても、俺の服はどっこも裂けてねえし、ほつれてもいねえ。別に生かしておくだけでいいなら、腕の一本くらい折っておいても命に別条はねえし……」
 二人きりの晩餐会ごっこも必要ねえ。俺にマナーと服についての知識を叩き込む必要もねえ。面倒で風呂上がりに濡らしっぱなしの俺の髪を、ぶつくさ言いながら野獣が梳かしてくれる必要だって、何もかも不要だ。
「そういうところが気にかかったっつーか。――ま、服をダイジにする趣味ってだけかもしれねーけどな」
 有り得る。と思って笑うと、蛇はゆらりと頭を揺らしてから手すりを伝い下り、するすると、地面を滑るように進んでバルコニーの隅の闇へと消えた。あいつどこに住んでんだろうな。ついて行ってもきっと俺の通れねえような細い道を行って追えないだろうから、俺は追うこともなく、ウイスキーグラスに口をつける。
 俺が逃げない理由は、蛇に語ったそれだ。蛇は俺がここにいることに疑問を持ったようだが、俺が疑問に思うのはそんなことじゃない。
 野獣が、なぜ俺をここに置いておくのかってことだ。




「なんで俺を置いておくんだ?」
 ピザと瓶ビールの晩餐を終えたあと、今夜は酒に誘われた。肌寒いので暖炉に火を入れ、レコードをかけて、ソファに悠々と座ってブランデー入りのコーヒーを飲む寛いだ空間で、俺は、野獣に気になっていたことを尋ねてみた。
 ふかふかの毛足の長い絨毯に腰を下ろして、ソファに座る野獣を見上げる。野獣は俺の問いに、一度ローズピンク色の目を瞬かせ、コーヒーを脇のテーブルに置いた。
「そこだと話しづらいな、ジャン。来いよ」
「来いって言われてもソファはあんたが占領してますけれども」
「膝の上でいいだろうが」
 いいだろうが、と断言されても、成人したいい年の男としては、「ソウダネ、イイアイディアダネ」とは返しづらい。ほら、と爪のある指で招かれ、まあ確かにふかふかのあいつの膝の上は座り心地が良さそうだ……と俺はふかふかに屈した。立ちあがって、野獣のふかふかの毛並みに包まれた膝の上に腰を下ろす。
 手は思わず、俺の尻に敷かれた横の毛並みをもふもふと撫でていた。クソ、キモチイイ……じゃなくて。
「で、なんで俺を置いておくんだ?」
「そりゃ、知ってるだろうが。お前の親父殿が、しこたま酔っ払った帰り道に、俺の城で薔薇をとっちまったからだ」
「キャワイイ娘を代わりに寄越すって言ったんだろ?」
「娘、とは言っていなかったぜ。自分のかわいい子供を寄越すと。……まあ、俺も娘だと思い込んでいたが」
「キャワイイ娘だったら城が華やぐだとかそういうメリットもあるんだろうけどさ、俺、男だし? 食い扶持増えるだけで、いいことねえだろ」
 野獣の頭が小さく揺れる。首を傾げたようだった。怪訝そうな様子に、だから、と俺は言葉を選び……言いづらい言葉を、喉から引きずり出した。
「……俺の、ラッキードッグの名前を期待してんなら、期待外れだから、止めといた方がいいぜ」
 こいつの力になれない、と言う事実を音として吐き出すと、じくりと胸が痛む。野獣は、じっと黙って俺のことを見つめている。
 野獣は、元々人間らしい。この城には人間しか住んでいなかった頃に、呪いをかけられてこの野獣の姿になったと言う。
「なあ、ルキーノ。あんたのために言ってんだ。もしあんたが、人間に戻るのを期待してるんだったら、肩透かしを食うだけだ。ラッキードッグなんて名前、ただのお飾りだ。手に入れたって、奇跡が起きるわけじゃねえ。俺はただのチンピラだ」
「ハハ、そんなこと考えてたのか! カヴォロ。お前に、奇跡なんか期待しちゃいねえさ」
 俺は真剣に言ってんのに、野獣は喉を震わせておかしげに笑う。俺の疑問を笑い飛ばす。
「じゃあ」
 ――じゃあ、なにを期待してんだ。ルキーノ。
 俺が更に言い募ろうとしたところに野獣の顔が近づいてきて、ぺろんと顎を嘗められた。顎というか、唇を。
「な」
「ハハ」
 驚く俺に、ルキーノはただ笑う。笑うときの振動が、触れ合った俺の体に響いてくる。そういえばこんな距離で笑い合うのは初めてだと思うと、なぜか、心臓のあたりが熱くなる。

 そのとき俺は湿った口元を袖口で拭いながら、いまのって、キスになんのか? と言うことが気になって仕方がなかった。そして部屋から出て、自分の寝台に横になった頃、あれはキスで誤魔化されたのとろくに代わらない出来事だったと言うことに思い当たり、頭を抱えてごろごろ転がった。






2011.10.23.スパーク配布ペーパー