飛ぶ夢をもう見ない









 泥の中に倒れていた。
 雨が降っていてコートはびしょ濡れで台無しだ。裏路地は整備もされていなく、土がむき出しで、降り続く雨のせいで泥になっている。ルキーノはそこへうつ伏せに、顔の右側を泥に浸して倒れていた。
 肺が苦しくて大きく息を吸おうとすると口から泥が入ってくるから、唇の隙間から少しずつ吸い、吐く。楽になるには足りない。足りないが、体を起こす力がない。
 泥に浸る右目は開けられず、うっすら開いた左目もいつまで開いている力があるかわからない。右耳には泥が詰まっているだろう。左耳はどうにか聞こえるが、聞こえる音は雨音ばかりだ。
 体温を奪い続ける雨に、指先の感覚はない。体の感覚がどんどん薄れて行っている。自分が伏した周囲の泥がどれほど赤く染まっているのか、ルキーノに見るすべはなかった。


「──生きてるのけ?」

 倒れてからどれほど時間が経っていたのだろうか。
 ようやく聞こえた雨音以外の声に、どうにか見える左目だけを動かして周囲を探る。濃い灰色が薄い灰色しかない雨雲の中、夜のように黒いシャツとスーツを着た、男がいた。ああ、センスがない、とルキーノは反射のようにうんざりと嘆きたくなる。黒一色なんて喪服か。お前の髪の色に似合うコンプレートを、頼んで、仕立てて──
「ジャ……」
「呼ばなくていいさ、ルキーノ」
 男に、動いた唇を制止される。金色の髪が軽く揺れて、ジャンの首が傾げられた。雨に濡れた金髪は重い飴色で、前髪が顔に張り付いていて、目元がよく見えない。
「裏切り者の名前に使う舌なんかねー、ダロ?」
 軽い口調で、笑っていない声。
 しかしそれは、よく知っている声だ。軽い口調は同じで、もっと明るく、生気に満ちていて、感情の乗った声だったが、どれだけ平坦な声音になったとしても、ルキーノの知っている声だ。
 瞑った右目の奥に浮かぶのはあたたかな金色で、ルキーノは、そっと唇の左端を吊り上げた。
「……さいご、に」
「ん?」
「夢を……見たいんだ。だから、呼ぶさ」
 楽しい夢を。
「それくらい、しようとしても構わねえだろ……」
「……何言ってんだ、アンタ」
 ばしゃ、と近くで音がした。ジャンが足を踏み出して、土と泥を蹴った音のようで、彼の姿を捉えようと視線を上げていた位置がずれる。下側から見上げる形になって、前髪に邪魔されていたジャンの目元がようやく見えた。何で泣きそうな顔をしてんだ、ジャン。笑えよ。お前に不都合は何もねえはずだろう。
「何言ってんだ、アンタ。俺の名前を呼ぶこととそれが、どう、繋がって……」
「繋がる、さ」
 楽しい夢を見たい。
 瞑った目の奥にはジャンの慕う笑顔が浮かぶ。ジャン。ジャンカルロ。俺は楽しい夢を見ながら、死にたい。
 思い出すあの時間が、紙で作った月のような偽物だったとしても、もういい。それでも俺にとっては、ほんとうのものだった。お前のことが、好きだった。お前に悪くない未来を見た。悪くない夢を見た。
 人生は、1セント硬貨を突っ込めば僅かな時間すべてを忘れる悦楽と夢を得られるような面を持つことを、ルキーノは知っている。ならば、最後のこの瞬間だって、夢を見ても良いだろう。
「ジャン」
 お前の夢を見て、俺は死ぬことにした。





2013.05.12.