夜明けに啼く、小夜啼鳥









 翌日は、朝食と昼食のあいのこのような時間にまた一階のリストランテでメシを食ってから、出かけた。運転席にはまたルキーノが座る。行き先を知っているのはこの男だけだ。俺は助手席で地図を見ることもなくただひたすら、何ですのん、この状況、と今の自分の状態について考え始めた。
 昨夜、ルキーノは手を出して来なかった。移動で疲れてんだろうなと思ってたし、夜中に喉が渇いて起きたとき、よく眠ってるルキーノの寝顔に安心したもんだ。水を飲みながら俺は、間接照明に淡く照らされたルキーノの顔を眺めた。目の下にうっすらと隈。睡眠不足だろうか。最近忙しくしてたのは、この休暇を取るためだったんだろうか。次にバカンスへ行くならまたどこかの海沿いにでも行くんじゃないかって俺の想像は外れてたな、と思いながらまた眠った。ルキーノの横で。狭いベッドの中、ルキーノの腕は、眠っているくせに、潜り込んで来た俺をがっちり抱き締めやがった。……たらしライオンめ。

「おい、ジャン」
「へ!?」

 内心を見透かされたようなタイミングで声をかけられ、俺は助手席でビクッと肩を震わせちまった。ちら、と横目で俺を見たルキーノが、一瞬怪訝そうにしながらも、「もうすぐ着くぞ」と言ってきた。

「降りてメシを買ったら、また十分くらい走るつもりだが、どうする。少し休憩しても構わんが……」
「や、だいじょーぶ。あんたこそ、疲れねえのけ? 運転代わるか?」
「GDの連中に追われてたら、そりゃ疲れるけどな。こんなのんびりしたドライブで、俺が参ると思うか?」
「いや、思わねえ」

 じゃあ助手席に落ち着いたままでいるか。俺は助手席の背もたれに背を沈め直し、ハンドルを握る運転席のルキーノを、ちょっとばかり物珍しげな気分で見た。同じ車に乗ることは多い。だが、ルキーノの運転している横に座るのは珍しかった。大抵は後部座席、運転手つき護衛つき、だ。
 知らない土地で、ルキーノの運転する車に乗っている。俺は助手席で、何ですのん、この状況、と今の自分の状態について考え続ける。
 これはバカンスなのか? 休暇なのか? それとも、何かの仕事なのけ? 何なのかわからない。ルキーノに連れて行かれるまま、俺はついて行く。あの頃――二人でロイヤルフォレストパークに殴りこみに行った時は、こんな状態だったが、今回は行き先を知らない。

 ま、着けばわかるだろうと、俺は全開になった窓枠に頬杖をつく。風が髪を巻き上げて車内を通り抜けた。ふと後頭部を撫でられて、閉じそうになった目を開く。運転席から伸びてきたルキーノの手が、俺の頭を撫でていた。くすぐったいような嬉しさが胸に満ちる。ルキーノの視線は正面を向いているのに、右手は俺の頭を緩やかに撫で続ける。このたらしライオンめ。触りたかったのかよ、とは、恥ずかしくて訊けやしねえ。






 着いた先は、ファーマーズマーケットのような場所だった。観光客向けのマーケットも兼ねているらしく、手軽にすぐ食えるメニューの書かれた看板がある。

「もう少し秋近くなったら、サイダーミルでアップルサイダーとドーナツを買って行けたんだが。まあ、また来るか」

 車を降りて歩きながら、りんごはこの辺りの名物なのだとルキーノは言う。郊外のわりに客はいて、駐車場も半分以上埋まっていた。休憩所のようになっているらしい。ルキーノは店でスモークされたベーコンと玉子の挟まったサンドイッチと、チーズを買って、「ビールも二本」と注文する。

「帰りにも寄ろう。ワインはあいつらへの土産だ」

 近くにはぶどう畑もあるようで、ずらりと並んだワイン瓶を横目に、ルキーノは瓶ビールを買った。にや、と笑った男前は俺に向かってウインクをして来る。

「この気候ならビールだろ」
「異議なーし」

 照りつける七月の日差しに目を細め、俺は頷く。


 そこからまた十分ほど走り、着いたのは森の入り口だった。人の気配のないそこに車を停めて降りると、「こっちだ」とルキーノが俺の――手を取る。
 ぎょっとした俺をよそに、ルキーノは握った俺の手を引いて、森の中に歩き出してしまった。俺は手を強張らせたまま、引かれる速度に合わせて足を動かす。……真っ昼間にこんな堂々と手を繋ぐなど、想像したこともなかった。
 俺はルキーノと、こういう恋人のような関係になってから一年以上過ぎているわけなので、手くらいは繋いだことがある。夜の闇に隠れて、キャディラックやリムジンの後部座席で隠れて、ベッドなどの他人の目に触れない場所で。だが、こんな太陽が明るい白昼堂々、爽やかな緑に包まれて――など。

「だ、誰かに見られたらどうすんだよ……!」
「誰も見ていやしねえよ。ほら」

 強張った手の甲を、ルキーノの指が撫でた。俺は、ぐんにゃりと力が抜けてしまう。安心感で。

「観光客はここまでなかなか来ないんだ」
「そう、なのけ?」
「ああ」

 離されない手に引かれて、木々の合間を歩く。その間ずっと、子供のように、恋人同士のように、手を引かれていた。やがて開けた場所に出て、そこは、丈の短い草に覆われた草原だった。そこでようやく、ルキーノは俺の手を離した。大きな木の作った木陰にブランケットを広げ、買って来たサンドイッチと瓶ビールを食すために、荷物を開けなければならないからだ。そうでなければ繋いだままだったのかもしれない。ルキーノの体温で温もった手が、じんじんと熱かった。















 日陰は涼しい。腹が満たされて心地良いところに環境まで良いとなると、自然と俺の口からは欠伸が洩れる。

「膝枕してやろうか」

 ルキーノの言葉に、俺は一瞬固まった。手を繋いだり、膝枕したり、なんか、凄く、イチャついてるっぽくね? 恋人同士のような。いや、恋人同士なんだけどさ。
 俺はひとしきり逡巡し、結局、勢いに任せてルキーノの膝に頭を乗っけた。やってることが気恥ずかしくて目が開けられん。それを俺はすみやかに眠気のせいにしてしまう。

「……二十分くらいで起こしてチョーダイ」
「俺の足が痺れる前に起こすさ」

 ぽん、と大きな掌が軽く頭を叩いて来る感触が、ひどく心地良い。深くなる眠気に、体の力が抜ける。頭に感じるルキーノの体温が心地良い。
 しばらくするとルキーノが身じろぐ振動が伝わって来て、うっすら目を開けると、鞄から何か取り出していた。何だろうかと見ていると、ルキーノの手に取られたものは本だった。ルキーノはそれを開き、静かに捲る。

「人が並はずれた能力を持ち、賞賛に値する行為を果たしても、そこに愛がなければ無に等しい……」
 ルキーノの本を読む声が、小さく、だが悠々と響く。よく通る声は、俺の頭の中で柔らかく反響し、飽和して、体の隅々にまで行き渡って行くような錯覚がした。

「聖パウロか?」

 言葉の途切れ間に、小さく尋ねた。いつもより控えた声のボリュームは、穏やかなルキーノの声が溶けた、周囲の空気を壊したくなかったからだ。凪いだ湖面のような空気の中に、俺はいる。風ひとつで壊れてしまう静かな空間で、ルキーノは俺の呼びかけに一瞬驚いたように目を見開いたものの、すぐに笑った。

「なんだ、起こしちまったか。よく知ってるな」
「起きてたよ、んで、あんたは俺の育ったところをご存知?」
「……なるほど」

 納得したとばかりに頷くルキーノの膝に頭を置いたまま、俺は手を伸ばし、ルキーノの手にあった本の端を軽く撫でる。

「あんたこそそういうもの読むんだな」
「意外そうに言うなよ。俺は、主の名を汚すスラングは使わん。……ま、今回のこれは、家に、あったのを見つけてな……」

 家、と言うのがルキーノが元々家族と住んでいた家だと言うことを、俺はすぐに察した。「たまたまだ」と笑うルキーノに、「そっか」としか俺は返す言葉を持っていない。
 考えてみると、俺の持ってるものなんか、何もなかった。今は財布だってねえし。ルキーノの膝に頭を乗せている俺は、ほんとにただのジャンカルロだ。ただ、ルキーノの膝に頭を乗せる権利は持ってるから、俺は、その場所を堪能することにした。
 ルキーノの筋肉のついた固い膝も、柔らかい草も、俺には丁度いい枕と布団にしか思えない。
 オヤスミ、と、どうにか口にした筈だ。口にした、と言い切れないほどに急激に、俺の意識は、ひどく心地良い状態で途切れた。







 次の記憶は、柔らかい感触が俺の唇に触れたところだった。

「……ルキーノ、」
「なんだ、真っ赤な顔して、誘ってんのか?」
「ちげーよ!」
「お目覚めのキスくらいで恥ずかしがってると犯したくなるだろ、カヴォロ。御伽噺によくあるだろうが」
「だから恥ずかしいんだろ……」

 あんたの羞恥心はわからねー、と呟く俺に笑ったルキーノが、でっかい手でぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でる。乱暴な手つきは、雑ではあったが攻撃性が皆無で、俺は、目一杯撫でられている時の犬の気持ちを味わう。つまり、……嬉しい。チクショウ、それが恥ずかしい。
 ファック、とイヴァンのような呟きを零すと、ルキーノはまた笑って両腕を広げ、「何なら今ここででも構わんが?」などとぬかして来やがったんで、俺は、その無防備な腹に軽いパンチを食らわせた。





2010.08.25.