夜明けに啼く、小夜啼鳥









 一階の、バーを兼ねたリストランテに行くと、壁に書かれたメニューの大半がイタリア料理だった。店内は、宿泊室の静けさとは違い、随分と賑わっている。隅に空きテーブルを見つけて座り、イタリア料理店かリトルイタリーにでも行かないとお目にかかれないようなメニューの冊子をまじまじと見ていると、向かいの席へ座ったルキーノが、驚いている俺に気づいて説明してくれた。

「ここの主人がイタリア生まれで、ガキの頃にアメリカへ移住して来たらしい。ここのメニューは、彼のマンマの味だな」
「あんた、詳しいのな」
「昔、泊まった時に聞いたんだ。ほら、何か食いたいもんあるか、ジャン?」

 尋ねられたので、「パスタ」とトマトソースのスパゲッティを指し示す。ミートボール入り――俺が指したメニューの説明を見て、何が面白いのか、ルキーノが笑う。

「バブルガムにロリポップ、アイスクリームに、コーラ、ミートボールか?」

 指折り数えた品の共通点、子供が好きそうな食い物。そう言いたいのだろうと察した俺は、ニヤニヤ笑うルキーノに、わざとガキっぽく、べえ、と舌を突き出してやる。

「うるせー、あんただって甘党じゃんか。コーヒーに何も入れねえで飲めるようになったのけ? ドン・グレゴレッティ」
「あれは、クーリーのチャイ以外に思えねえよ。ベルナルドもお前も、なんだって苦行を積みたがるのかわからん」

 ルキーノは片方の肩を竦めて、甘党の部分は否定しなかった。俺も甘いものは好きな方だが、ルキーノも、朝からアイスを食える男だ。コーヒーには砂糖とミルクを入れ、何も入れずに飲むベルナルドに「気が知れん」とばかりに反応をする。

「それにさ、こーゆー、一家にひとつはレシピがありますーっつーかんじのスタンダードなやつが、一番マンマの味っぽいだろ」

 本当にそう思って選んだのだが、このタイミングで言うと、まるで子供っぽさへの言い訳のようで、変な感じだ。「ああ、そうだな」、と笑ってるルキーノの目がやけに優しくて、そっちも変な感じだ。くすぐったい。ローズピンクの目に浮かぶ表情が、いつもよりも濃く、深い。何なんだっつうの。
 気恥ずかしさに首を竦めそうになるのを堪えて、俺は、メニューをルキーノの方に押しやる。

「他は?」
「他はあんたの食いたいもんでいいよ。どうせ三分の二はあんたが食うだろ?」

 俺の言葉に、ルキーノはメニューを受け取り、「まあな」と片眉を軽く上げる。

「もっと食えよ、お前も。ベルナルドの小食なんかうつらなくていい」
「あんたが規格外なんだっつうの」

 メニューにあったシーフードのオイル煮は目を惹いたが、デイバン港で獲れたてのシーフードを食った方が美味い気もする。そんな話をすると、ルキーノは「同感」と頷いた。

「このへんはシーフードでも、川魚だな。カワマスを食おう」

 寄って来たウエイターに、ルキーノは、トマトソースのスパゲティやカワマス以外にも、他のパスタ料理や、前菜、パンツァネラ、スープなどを選んで注文する。俺だけだと食えそうにもねえ量の注文だったが、ルキーノがいるなら、そのくらい食うだろう。俺は、ルキーノの注文を何も言わずに聞いていた。ルキーノとは何度もメシを食っていて、俺の味の好みもわかってるから、出て来るものはきっと美味い。

 俺は、いつの間にそんな当たり前のような信頼を置くようになったんだろう。






 出て来た料理は、ルキーノが「美味い」と言うだけあって、美味かった。
 「デザート代わりに」とサービスでイタリアのレモンの酒が出て来ると、ルキーノはメニューからジェラードの文字を探し当ててそれを二人分注文する。透明な器に盛られたバニラのアイスは、テーブルに届くなり、ルキーノの手によってレモンチェロをぶっかけられた。
 ルキーノの指に摘ままれた平たい銀色のスプーンが、表面を金色の酒に溶かされた乳白色の山に吸い込まれていく。バニラビーンズの細かな粒の混ざったジェラードを掬い上げたスプーンはレモンの香りを俺の鼻先に運び、唾液が沸いてくるようなその香りにやられた俺は、「俺も食―おうっと」と意気揚々と呟き――その頃に、ルキーノが持ったスプーンは、なぜか俺の口元に差し出されていた。

「へ?」
「早く食え、溶けて落ちるだろ」
「え? おい……ルキーノ」
「早く食えよ」

 有無を言わさない口調だが、視線はひどく優しい。気づくたびに、ルキーノは優しい目で俺を……見ている。俺の意識はルキーノに集中して、周囲に人がいることを忘れそうになっちまう。
 クソ、と内心毒づいて、強引な男の要求通りに、俺はスプーンへ急いで顔を寄せる。勢いが良すぎて、歯がスプーンに当たった。カチン、と歯と金属が当たる音が口の中でする。慌ててアイスを食って顔を離した俺を、ルキーノは今にも笑い声を立てそうな様子で、肩を小さく震わせながら見ていた。冷たい甘味が口と喉を冷やしているのに、俺は体温が上がった気がしてしょうがない。

「おい、ルキーノ……! 人が見るだろ?」

 テーブルに肘をついて顔を寄せ、周囲に聞こえないように小さく囁く。ルキーノは、優しい目のままで口元だけをニヤリと歪めた。

「ストリップ・ショーの店内で、オンナが脱ぎ出すと客は驚くのか? 酒を出す店は、酔っ払いの悪ふざけなんか見飽きてるさ。――ジャン、食わないのか?」

 しれっと俺の分のジェラードの器を指差すルキーノに、俺は「食うよ!」と照れ隠しに吠えて、がつがつと甘く薫り高いデザートを口に運んだ。アレッサンドロの親父や、幹部たちとの食事会でも食べた覚えのある、甘い味と香り。
 食事会でも食ったようなメニューを、二人きりで、知らない土地のリストランテで、向き合って食っている。そのことが、新鮮だった。





2010.08.22.