crazy about you



 その日、ルキーノは疲れていた。

 朝から港に顔を出すと、丁度足を滑らせて海に落ちた子供がいて、一番近くにいたルキーノは咄嗟に上着と革靴を脱ぎ捨て飛び込んでいた。服を着たままの水泳に加え、水温は低く、またパニックを起こした子供が暴れるものだから手間取った。しかも、引き上げた後も子供はルキーノから離れれば死ぬとばかりにしがみついて泣くものだから、宥める間にすっかり体は冷えてしまう。子供を抱きながら、シニョーレせめてこれを、と貰った熱いクラムのスープは今までそこで食べたどの食い物よりも美味かった。
 ようやく落ち着いた子供はその港で貿易を行っているそれなりの金持ちの孫だったらしく、そこそこ良い身なりをした老人に散々礼を言われた。売った恩は何かの時に役立つかもしれないので、スーツが台無しになったことは良しとする。子供も一人救えた。


 このままの姿ではどこにも行けないので他の港を回るのは諦め、本部へ着替えに戻る。肌に張り付くシャツを脱いで部下にクリーニングに出すよう指示を出しながら、カポはもう出かけたのかと訊くと、コマンダンテと入れ違いで出て行かれましたと答えが返って来た。
 こんなしけた気分の時はきんぴかわんこの顔でも見れればよかったんだが、と思いながらシャワーを浴びようとすると壊れていて水しか出ない。死にそうな顔で頭を下げる修理工にはカポが戻るまでに直ればいいさと片手を振って、水のシャワーで海水を流す。
 コートの要る時期に、一日二度も冷たい水を浴びる目に合うとは――ルキーノは、どうもめぐり合わせの悪い一日だと眉間に皺を寄せた。


 今日はあと机仕事だけの予定なので、下とシャツだけ着る。そして仕事の前に腹から温まろうと熱いコーヒーを飲んだら、筋肉も冷えていたせいでカップを傾ける力加減が上手く出来ず、うっかり舌を火傷した。熱に負けた粘膜がざらざらした感触になって不快だ。
 悪いことは続くもので、その後も手に取った書類の端で指先を切ってしまったし、前々から注文していた生地の仕入れが職人と船便の関係で予定より一か月ほど遅れるとの連絡まで入った。羽ペンを使わなくてはならない書類を書く前にはペンが折れたし、気に入りの万年筆はいつの間にかスーツの内ポケットから消えている。脱いだ時に放った覚えがあるし、港のごたごたで失くしたのかもしれない。金を使った細工の万年筆は手にも馴染み、良い書き具合になってちょうど自分の持ち物らしくなって来たところだったのに。愛用しているジッポはきちんとポケットにあって安心したが、シガレットケースの中の煙草は切れていた。そういえば、昨夜足しておこうと思ったのだった。
 アンラッキー。
 言葉が頭に浮かんで、ルキーノは溜息にしては強い吐息を吐き出した。


 気を取り直そうと意識しながら仕事をひと段落させ、ぐったりとソファもたれて目を閉じる。人払いをしてあるので疲労した姿を見る者はいない。
 視界を閉ざしたルキーノの耳に、ざあざあと雨音が届く。降って来たようだ。更に冷え込む気配がして、少し寒気も感じた。
 体温が足りない。
 一心に向けられる強い情で暖められて、暖かさを知ってしまったから、一人分の体温では物足りなくなっている。抱いた肌のぬくもり、あの弾き返すような強さを持つ金色、柔軟でしたたかさな光、命の暖かさが欲しい。
 寒い。
 ここは寒い。寒いんだ、シャーリーン――アリーチェ――…

「――…ジャン」













「失礼します、コマンダンテ」

 ノックの音に少し遅れて、扉の向こうから声をかけられた。はっとしたルキーノはソファの上から跳ね起き、乾いた喉で、こほ、と小さく咳払いをする。少し眠っていたようだ。寝起きの乾いた唇を舐めて湿し、ああ、と返事をする。

「どうした」
「カポ・デル・モンテがお呼びです」
「ジャンが?いや、カポは――本部にお戻りか?」

 扉越しの声が告げた言葉に、何か急用だろうかと気を引き締め、ドアへ急いで向かう。ノブを回しそこを開くと、目の前に金色が溢れた。

「ボナセーラ、ミスタ・グレゴレッティ」

 ひょいと片手を上げたジャンがふざける声音でルキーノを呼ぶ。顔だけ廊下に出して左右を見るが、ジャン以外誰もいない。さきほどの呼びだしは彼の悪戯なのだと気づいて、このバカ、と頭を拳で小突くと、ジャンは肩を揺らして笑った。揺れる肩を抱いて部屋に招き入れる。

「ジャン、仕事はもう良いのか?」
「ああ、今日はもうカポも店じまい、セールタイムも終了でまた明日のご来店をお待ちしておりまぁす。んで、ルキーノは?」
「ちょうどいいところに来たな、俺も店じまいだ」

 言いながら、肩を抱いたのとは逆の手で鍵を閉めた。かしゃ、と小さな施錠の音を立てて、ルキーノの仕事部屋は密室になる。ジャンのスーツの襟を親指で引っかけ、肩のラインを辿るように手のひらを滑らせると、スーツがずれて白いシャツが覗いた。肘の方へそのまま手を滑らせながらジャンの上着を脱がせる。脱がせた上着は、ソファの肘掛へ落とした。
 ルキーノがタイをつけずに、ジャンがタイをつけている状況は珍しい。今日は着せたままするのもいいかな、などとルキーノが不穏な考えでいるのも気づかずに、ジャンはルキーノの腕へと手をかけ――

「あれ?なぁルキーノ、あんた、なんか冷えてねえ?」
「ん?気にすんな、すぐにあったまる」

 含みを持たせた笑いを向けると、ジャンはうわぁーと色気のない声を出しながらも頬をうっすら赤くした。赤い頬も美味そうだが、それよりも先に、まずは一日触れていない唇から食ってしまおうとルキーノの顔がジャンに近づく。反射のように伏せられて行く金色の睫毛を眺めながら、ルキーノは微笑む。そしてそのまま僅かに顔を傾け、唇を合わせるつもりだった。ジャンもその想像をしていただろう。

「……、ル、キーノ…?」

 鼻先を金髪の中に突っ込まれて、ジャンは閉じた目を開け、困惑した声で呼ぶ。しかしルキーノは応えずに、じっと鼻先をジャンの金髪に埋めた。

「えー……えーと。ルキーノ?」

 そのままくんくんと嗅いでいると、遠慮がちにジャンが声をかける。

「犬は俺とジュリオの十八番だと思ったけど、どういう風の吹き回し?」
「俺にワンと鳴かれたいのか、お前は」

 じゃあ何だよう、と上目に見上げるジャンの顔を、髪から鼻先を退かしてじっと見下ろす。また鼻先を鳴らすように匂いを嗅ぐと、何だよ、とまた問われた。

「……ジャン。お前、今日はどこにいた?」
「へ?今日?今日は一日、ベルナルドが王様やってるお城で囚われのカポやってたけど…」
「それでか」

 ジャンも煙草を持ってはいるが、今日はベルナルドに貰い煙草でもしたのだろう。髪からはベルナルドの煙草の匂いしかしない。染みついている。
 俺がしけた気分でいる間、お前は髪にあいつの煙草の匂いがつくまで一緒にいたってことか――理不尽な感情が腹の底から湧いて来た。感情に任せて片腕でジャンの腰をかっさらうように抱くと、うわ、と驚いた声が上がった。構わずに引き寄せると足もとが浮いたらしく、足をばたつかせる衝撃が腕に来るが、やはり構わずにルキーノは大股で歩き出した。ドアの鍵を開けて、バスルームのついているジャンの寝室へ向かう。廊下は、ルキーノが人払いをしていたお陰で人の姿がなかった。

「ちょっ、おいっ、ルキーノ!?」
「あいつの匂いが染みついてるみたいで気に食わん」

 ルキーノは、慌てるジャンを片腕に荷物のように抱えながらきっぱりと言う。蜂蜜色の目が、きょとんと瞬いた。

「は?」
「風呂に行くぞ――故障ももう直ってるだろ。脱げよ。俺が洗ってやる。髪も、外も、それから中も」
「はぁ!?」
「俺は、今日疲れてる」

 体は一日中冷えているし、それなのに舌は火傷、指先には邪魔くさいガーゼとテープ。ジャンに仕立ててやろうとした生地は届くのが遅れて来年用の仕立てになるかもしれないし、万年筆は行方不明で、煙草すら吸えない。

「しかも急に冷え込んで寒いと来た。ファンクーロ。こんなのやってられるか?俺は今からでも一日分の生きる楽しみを味わってやる!」
「何の話だっつーの!」

 地味な鬱憤を一方的にまくしたてると、ジャンは困惑して吠えたが、はたと大人しくなる。大人しくなったので腕を膝裏に回し、横抱きに抱き直しながら、どうした、と問うと、ジャンはまず微妙な顔で笑った。

「……こーゆー抱き方されんのも慣れて来た俺がチョー複雑?っていうか……いや、そうじゃなくて、これ」
「これ?」
「下のホールで見つけたけど、あんたのだろ?」

 ジャンがシャツの胸ポケットにひっかけていた万年筆を取りだす。それは金でラインが入った細工の――ルキーノのものだ。

「あと、どっかのルキーノファンの爺様から電話があったってベルナルドが喜んでたぜ?条件のキビシイ取引の相手で、あんたのいるCR:5相手ならってもっと好条件持って来てくれたんだとさ。どーこのオジイチャン転がしてきたの?」
「貿易商の…?」
「そうそう、貿易のルートがどうとかって」

 ルキーノのシャツのポケットへ万年筆を移動させながら、ジャンが頷く。ルキーノはポケットにおさめられた自分の万年筆を見下ろし――寝室へと、半ば走るような早足で飛び込んだ。
 急に揺れたことに慌ててルキーノのシャツを掴むジャンの手で、シャツに皺が寄る。シャツにしがみつかれたまま、ルキーノは、ジャンへ噛みつくようなキスを仕掛けた。
 うぐ、と一瞬息をつめたジャンもすぐに舌を伸ばして来て、ルキーノの腕の中の体はくにゃりと力が抜けて来る。火傷した舌先をジャンのと絡めると少しひりつくが、気にするほど痛くはなかった。しけた気持ちがすっかりとどこかへ行っていることに、ルキーノは口を開いて笑う。

「はは、ハハハ、お前は……いい男だ、ラッキードッグ。ジャンカルロ!」
「ん…っ、は、ぁ……?よく、わかんねーけど、任せとけ…?」

 ふ、と笑ったジャンと、また唇を重ねる。抱いた体と口内から体温が少しずつ伝わり、それはルキーノを充分に暖めてくれた。







2009.10.23