フューシャ



「ジャン?」

 ルキーノは、自分のシマの裏通りで立ち止まる。
 その路地で、ルキーノは広い背でジャンの左後ろを庇うように歩いていた。ルキーノが立ち止まるより先にジャンは立ち止まっていたので、ジャンの肩がルキーノの胸にぶつかる。

「どうした、ジャン」

 ぶつかったジャンの肩に手を置いて、彼の濃い金髪を見下ろし、その向こうを見ると――ルキーノは彼の立ち止まった理由に合点が行った。

「――…ああ、犬か」

 狭い道の隅に、子犬がいた。首輪もないので野良犬だろう。小さな体からは力が抜け、くたりと地面に横倒れになっている。
 正しく言えば子犬の肉体のみが、そこにあった。魂はすでに抜け落ちているようで、動かない。
 金色に近い薄い色の毛並みは埃で薄汚れていたが、なんせまだほんの子犬だ。長年の野良生活をしている動物に比べ、格段に綺麗なものだった。
 毛皮に牙の穿つ穴も、滴る血もないので、野良犬同士のケンカでもなさそうだ。見たところ、深い外傷はなかった。周りに犬の気配もない。

「置いて行かれて死んだか、どこか強く打ったな」
「だよな」

 応じるジャンの声に、ことさら悲しい響きはない。ルキーノは野良犬や野良猫が死んでいるのなど山ほど見て来たし、ジャンも同じだろう。しかし、それに慣れて視線が留まらなくなると言うわけでもない。

「ガキの頃にな」

 ふと思い出したことをルキーノは口にしていた。

「あんな毛並みの犬を飼ってた。金色の」
「なんだ、あんたその頃から金髪好み?」
「年季が入ってるだろ?」
「ホントになー」

 ジャンのつむじにキスを落としながら返すと、くくっと笑われた。
 さてこのまま犬をここへ置いておけば、骨になり崩れるか、邪魔にして片付けられるかのどちらかだろう。自分のシマの罪のない生き物を、自然とは言え晒しておくかどうか一瞬考え――ルキーノは首にかけていたマフラーを外すと狭い路地の端へ近づき、子犬の肉体をそこに包むようにして持ち上げた。まだ硬直していない肉のかたまりは、マフラーの毛糸越しにもほの温かい。

「本部に連れて帰るか?」
「ん、あ、……そだな、こんなとこじゃ土に還れねえし」

 庭にでも埋めてやろうぜ、とジャンは同意した。ルキーノの傍らに立った彼は、金色の犬の毛並みの表面だけを、そっと手のひらでなぞってやっている。
 ルキーノは、なんだお前わんこ同士シンパシーでも感じているのかと言いかけて、怒られそうなので黙っておいた。

「こいつも、お前の通り道にいたことはラッキーなんじゃないか?」

 雨ざらしよりも埋められた方が良いと思うのは人間の思い込みかもしれん、と思いつつも言うと、首を傾げてラッキードッグは笑う。

「幸運かなんて、こいつにしかわかんねーよ」
「そうだな」

 ルキーノは、ふっと息を吐くように笑ってから、身を屈めるようにしてジャンの目を不意に覗き込んだ。

「もし――俺がこいつだとしたら」
「ルキーノ」

 ジャンが、ルキーノの言葉から来る想像を嫌がって名を呼ぶ。拗ねたような、甘えたような咎める声を出したジャンに、ルキーノは目を細め、指先で滑らかな頬を撫でた。気温が低いせいで冷えている、男の癖にするりとした手触りのそこへ、左右一度ずつキスを贈る。

「まあ聞けよ。俺がこいつだとしたら、お前の通り道にいたらラッキーだ。――だが、通り道にいなくてもアンラッキーなわけじゃない。たとえどこで死んでも、俺の魂は我がファミーリアへ還る」

 間近で見下ろす蜂蜜色の目が、ルキーノの微笑んだ顔を映しながら瞬きもせずこちらを見上げている。

「お前のところにだ。ジャン」

 魂の還る場所のある我が身の幸福と、可愛い恋人への愛情と、カポへの忠誠をこめて、ルキーノは囁いた。
 自分に向けられる囁きと眼差しをじっと黙って受け止めたジャンは、ほんの一瞬だけ瞳を揺らしたように見えたが、真っ直ぐにルキーノを見上げたまましばらくして口を開く。

「……俺は欲深いヤクザだし」
「ん?」
「CR:5も愛しちゃってるし」
「ああ、俺もだ」
「ファミーリアのためになるようなピッカピカの男、神様にでも差し出せねえよ。あんただけじゃない、幹部連中みんな、くたびれたっつっても、顧問にしちまってもっと働かせてやる。引退しようったって無駄だ、まーだまだ、働いて貰わねーとな」

 ジャンはそう言うとふざけた仕草で肩を竦め――ちょっと屈めよと囁きながらルキーノの肩を引くと、ルキーノの左右の頬へ先ほどされたのと同じようにキスで触れた。

「カポも、CR:5の連中が楽出来るように頑張るからサ。な?」
「――ああ、」

 ルキーノは、ジャンの少し照れたような声に肩を揺らして笑う。ねだられて屈めた腰を真っ直ぐ伸ばす前には、しっかりとジャンの唇へキスを落とした。うわっと慌てるジャンが可愛くて思わずまた笑ってしまう。

「俺たちが引退するのは、二十年――いや、三十年は後か?その頃にはベルナルドの前髪が見ものだな」
「そーゆーこと言うとまた睨まれっぞ……それにあんたもけっこう、」

 そこでそれ以上言えないように睨んでやると、ジャンはにやっと笑って口をつぐむ。この野郎、とルキーノは額を拳で軽く小突いてやろうかと思い――急に手の中の体温がもぞりと動いたことに驚いて、息を呑んだ。

「ルキーノ?」

 急に真顔になったルキーノの異変に、ジャンが首を捻る。そしてルキーノの落ちた視線を追って、マフラーへ視線を向けると、そこでは薄茶の目がひとそろいジャンを見上げていた。

「へ?」

 アン、と可愛く鳴かれて二人揃って困惑する。ジャンは子犬の薄茶の目と、ルキーノの顔を何度も見比べ、

「まさかこいつ、熟睡してたか気絶してただけっつー…」
「……らしいな」

 決まり悪そうに呟くルキーノに、ぷは、とジャンは噴出してしまった。むっと顔を顰めたルキーノがカーヴォロと唸る。

「はは、わは、悪い悪い。ルキーノ、あんたもそういうことってあるんだな!」
「お前だって気づかなかっただろう。最初に見つけたのはお前だぜ、ジャン」

 ルキーノが拗ねたように言うのが面白いのか、――もしかすると可愛いとでも思っているのか、ジャンの笑いは止まらない。

「カーヴォロ」
「怒んなって、ルキーノってばよ」
「いいさ、好きなだけ笑ってろ」

 肩を竦めたルキーノが溜息をつくと、ジャンはまた楽しそうに笑い出す。遠慮のないボスだなと唸るルキーノの手の中で、ジャンの笑いの原因である子犬はふんふんと鼻を鳴らしてマフラーの匂いを嗅ぎ、前足をルキーノの手首にかけ、胸元まで嗅ぎに来た。小さなものを抱き慣れた手つきのルキーノは、大きな手で、あやうげもなく小さな生き物の動きに合わせて小さな体を支える。

「慣れてんなぁ」
「そうか?お前だって抱けるだろ」

 ようやく笑いが止まり、感心した顔でルキーノを見るジャンの腕に、マフラーごと子犬を預けてやった。両腕に抱かれた子犬はジャンの顔を見上げると、ぱたぱたっと尻尾を振る。ジャンの顔を見るなり上機嫌だ。幸運の女神にだけでなく、まったく他のものにも好かれやすい男だ。そう思ったルキーノの眉間にわずかな皺が寄り、――度の過ぎた嫉妬に自分で苦笑した。
 苦笑を誤魔化すように子犬の額をぐいぐい親指で撫でてやる。子犬はジャンの腕の中でルキーノに撫でられ、すっかりその場に落ち着いた。 度胸があるのか怖いもの知らずなのかわからない図々しさに、ルキーノとジャンは顔を見合わせて、二人揃って笑ってしまう。

「この……人騒がせなやつめ、死んでなかったなんて詐欺だぞ。おい、ジャン。お前、自分のラッキータンクからこいつに何か入れてやったんじゃないだろうな。だから生き返ったんじゃ――」
「ミスタ、お聞きしたいんだけどよ俺は魔法使いか何か?」
「そうだな。魔法を使うなら時期を選べよ、クリスマスの奇跡くらいの方がインパクトが強い」
「あんた時々真顔でおかしなこと言うよな」
「そうか?プレーゴ」

 しれっと礼を言われたジャンからは、返す言葉が出ない。

「それでどうする、ジャン。こいつ連れて帰るか?足が太いから、番犬になりそうだな――ああ、ジュリオと喧嘩になるか?」
「なんで?」
「縄張り争い。オス同士だ」

 人の悪い笑顔で、ルキーノは笑った。犬を抱いて腕を動かせないジャンの肩を、がっしりと掴んで抱き寄せる。抱き寄せるなり、頬を今度はキスではなくべろんと舐めてやると、ひっ、と唐突さに驚いたジャンが悲鳴じみた声を上げたので、ルキーノはまた人の悪い笑顔で笑う。

「縄張り争いには俺も参加するかな。ボスの一番は俺だってことを、見せ付けてやるぜ?」
「あー…あんたはまたそういうことを……!」
「なんだ、俺は本気だぞ」
「ルキーノ、あんた時々すっげーアホだよな!」

 顔を赤くした幸運のわんわんに吠えられて、ルキーノは片眉を軽く跳ね上げ呆れた顔をし、ごく当然、当たり前のことを言い返す。


「カーヴォロ、恋する男ってのはそんなもんだ」







2009.10.16