しましまの上の方とその下









「ダーリン、あのさ、いい加減この書類の山をどうにか……」
「どうにかしたいと思ってるのは俺もだよ、ハニー」
「ですよねー」

 集中力がどうにも途切れた夕方、俺の愚痴を優しく容赦なく受け止めてくれたベルナルドが、少し休憩しよう、と書類責めを中断してくれた。サインの書類が多すぎる。
 まだまだヒヨッコボスの俺だが、ボスはボスだ。幹部以上の裁可が必要なものには携わらなくてはならず、どこぞのカタギの企業と同じで、月末は書類が増えた。

「スマン、あっつーいコーヒー頼むわ。喉も乾いたし今日さみーし……」
「ボスのおおせのままに」

 オネダリすると、ぱちんと眼鏡の奥の目がウインクをして来る。集中力の途切れてしまった俺と違い、まだベルナルドは余裕があるようだ。

 部下へ声をかけに俺の執務室から出て行く背中を、ひらひら手を振って見送る。はあ、と溜息を吐いてから、肺に深く酸素を取り込んだ。冷たい空気が喉をひんやりと通って行く。
 春とは言え、やけに冷え込んでいる今日は空気も乾燥していて、まるで冬のようだった。
 座っていた椅子をぐるっと回し、背後の窓の向こうを見ると、外は曇り空。風が強く、雨が降り出しそうな天気。
 座りっぱなしで体が強張っている。立ち上がりながら背伸びをすると、ぱき、とどこかの骨が鳴った。
 いかん、なまってしまう。
 肩を軽く回しながら窓際へ五歩分だけの散歩を試み、疲労のたまった目で遠くを眺める。

「……ん?」

 ふと、視界の端に、きらっと白く何かが輝いた気がして見ると、白いメルセデスが道路の向こうからどんどんと近づいて来るところだった。あれは間違えるはずもない、イヴァンの車だ。いつ見てもピッカピカの、イヴァンの――俺らの戦乙女。
 メルセデスは本部の正面門で止まり、窓を開けて番をしてたヤツと一言、二言話をしてから、開いた門をくぐって中へ入って来る。途中で止まり、見慣れた短い髪の男が運転席から出て来た。

「イヴァン」

 想像通りの運転手に、思わず俺は名前を呟いていた。
 本部の玄関から部下が数人、イヴァンに駆け寄って行く。イヴァンは彼らにメルセデスを指し示したり、手に持った封筒を渡したり、真剣な顔で指示を出しているようだ。

「メルセデスは車庫に入れとけ、これベルナルドに持ってけ、……後は何だろな。あいつ、今日はあとオネーチャンたちンとこの見回りけ?」

 会話を想像しながら、俺は、ずっとイヴァンを見ていた。首元がいつも通りでっかく開いてる。ありゃ寒くないのかね。

「……お帰り、イヴァン」

 聞こえないとわかっていて呟く。
 イヴァンの顔を見て、この距離でも、俺は正直、ちょっとだけテンションが上がっていた。
 ボスの部屋まで上がって来るかはわからないが、同じ本部内にイヴァンがいると思うと、サインをし続けて強張った肩の筋肉が、少し緩む気もする。あいつは俺といるとよく眠れるみてーだけど、俺は、あいつが近くにいると何か変な影響受けちまうビョーキにでもかかったのかしらん。

 ……や、疲れた頭でモノを考えんのは止めたほうがいい。ろくなことを考えない。

 頭を指先で掻いて頭皮を刺激。妙なことを考えるのは止めようとしみじみしながらも、俺はやっぱりイヴァンを見ていた。だから、不意にイヴァンが俺の部屋を見上げた時にも、ばっちり目が合った。
 イヴァンは、俺が見てるとは思っていなかったんだろう。ビクッと上から見ていてもわかるほど肩が揺れる。急に驚いた様子を見た周囲の部下たちが、不思議そうに様子をうかがって来るのを、イヴァンが何やら言って大急ぎで散らしている。
 大きい手振りで急かされた部下たちがすっかりイヴァンの周辺から散り、メルセデスも車庫へ向かって出発すると、イヴァンはまた俺の方を見上げた。

 窓ガラス越しに片手を挙げて挨拶をする。向こうも、軽く手を挙げて合図を返した。
 見上げるイヴァンの口が開いて何か動く。何か俺に呼びかけている――のだろうが、窓も閉まっていて、聞こえるはずがない。

「なんだよ、聞こえねーよ」

 首を傾げて、掌を耳に当ててみせる。聞こえない、と伝えるジェスチャに、イヴァンはちょっとしかめっ面をした。
 アホ、聞こえなくて当たり前だっつーの。
 首を横に振った俺を見ながら、イヴァンは、人差し指を自分の顔の前で一本立てた。なあに、て俺は首を傾げてみせる。
 ひら、とタクトのように揺れるイヴァンの指を俺は視線で追う。
 人差し指はイヴァンの口の端を指し、そして指先が軽く曲がり、口の端を引いて――……いー、って、噛みあわせた歯を見せて、ガキみたいに。
 呆気にとられた俺の顔を認めて、イヴァンはニヤッと、それはもう楽しそうに、笑った。

「こっのバカイヴァン!」

 俺はとうとう窓を開けた。冷えた空気が頬を撫で、産毛が凍りそうな寒さ。そんなことも気にならないくらい胸が熱かった。デスクワークで強張った体もアタマも全部どうでもいいくらい、バカやってるあいつと俺が、楽しかった。

「イヴァン! てめぇ、いくつのガキなんだよ、ボケ!」

 笑いながら怒鳴り、べえ、と舌を出してやる。ガキの頃みたいに。ガキっぽいとか気にもせずに。
 今度はイヴァンがぽかんと俺を見た。何で頬が赤くなってんだこのアホ。俺の舌見たからとか言うなよ。

「早くこっち上がって来い、このバーカ!」
「うっせぇ! バカとか言ってんじゃねぇタコ!」

 遠慮ない声がぽんぽん返って来るのも何だか楽しい。
 俺はイヴァンがしっかりこっちを見てるのを確認してから、中指で、トントン、と唇を叩いてみせる。意味ありげににやつきながら――わざとじゃなくても、顔はどうも緩んじまってんだけど。唇を示した。
 Kiss meとイヴァンに聞こえないくらいの小さい声で呟く。
 イヴァンはぎょっとした顔をした。ああ、わかったか。エライエライ。何か下向いてごにょごにょ言ってそうなのは、シットやファックをまた吐き捨ててるんだろう。

「早くこっち上がって来い、この……バーカ」

 正面玄関へ向かって走り出したイヴァンに、俺はとうとう声を立てて笑ってしまった。







2010.04.01