腹いっぱいのそのあいを



 I love you

 たかが三つの単語で、たった一つの意味を持つ、たかが八つの文字だけで出来たもの。
 なんてたやすい。







「なわけ、あるかっ!」

 イヴァンは手元のメモ用紙を乱暴ながら厳重に捻り潰し、たった今自ら綴った文字を、視界から削除した。八つの文字の見えなくなったメモは腕を振って屑篭へ放り込む。
 あんなものは、ぼんやりしていたら手が勝手に書いていただけだ。何の意味もない。俺は何も関係ねえ――愛を綴った事実へ、心の中で熱心に言い訳を重ねながら、イヴァンは椅子から立ち上がった。
 CR:5本部のイヴァン用にあてがわれた執務室で、机に向かいだして二時間。机仕事は向いていない事を改めて思い知りながら、ぐうっと腕を上へ伸ばして凝った背をほぐす。苦手な数字を追っていた目が疲れているので、眉根の指先で揉んだ。

 書類には首を捻る箇所が何点かあったので、悔しいが後でベルナルドに何点か教えを請わなくてはならないだろう。素直に頼る、と言う面映い感情を、イヴァンは眉間を念入りに揉むことで散らす。
 以前ならば、幹部相手でもそんなやり取りはしなかった。だが幹部たちは今、イヴァンの中で仲間のカテゴリに腰を落ち着けているので、以前のような反発心や疑心はない。――それもこれもジャンがいたからこそだと、自覚している。

 その、二代目のカポとして忙しい日々を過ごしている彼とは、ここ数日顔を合わせていない。
 顔見せの会合だのパーティーだのが重なっているらしい。今日も、どこぞの年寄りと夕飯を食べて来るスケジュールだった。イヴァンも自分のシノギがある。今のように書類の数字を眺めなければならないこともある。互いの仕事の関係上、噛みあわない日が続くこともあるのは当然だと――思っていたはずなのに、少しぼうっとしたら手が勝手にこの始末だ。
 ファック。イヴァンは頭の中で呟き、捻り潰したメモ用紙のおさまっている屑篭へじとりと眼差しを向ける。
 勝手に手が動いた時、集中力の切れたイヴァンがぼうっと考えていたのは、ここ数日顔を合わせていないその相手のことだった。手が勝手に動いただけだ、とイヴァンはまた自分へ言い訳にならない言い訳をする。
 ジャンがいたからこそ――その感情に一番似合う言葉を、手が勝手に書いてしまっただけだ。


 アイ、ラヴ、ユー。


 唇と舌を動かして、音は乗せない。
 勝手に動いた手の綴った愛の言葉を、記憶の中のアルファベットを読むように呟いたその告白は声にはならず、肺から吐き出された空気だけが宙に溶けた。

「……ケッ、馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てて短い髪を片手で掻き回す。気分転換に外の空気でも吸うかと窓辺で向かったイヴァンは、窓の外ではすでに夕暮れが始まっているのを知った。外よりも室内の方が明るい状態で眺めた窓ガラスには、室内の灯りと、イヴァンの顔が映る。唇を引き結び、眉間に皺を寄せて、難しい顔をしていた。
 鼻先で笑うのと溜息との中間のような息を吐き出してから、イヴァンの顔を映す窓硝子へ向かって、あー、と口を開けてみる。覗く犬歯。舌。
 仕事ではそれなりに上手く回る舌だ。褒め言葉も得意だ。しかし考えてみると、褒め言葉とは、情を伝えるための言葉とは一体どういうものだったか途方にくれる。ファッキンクール。いやいやそれは違う。
 いつもシマの女達へ向けてくるくる臨機応変に回している舌も形無しだ。そこまで考えて、違う、とイヴァンは頭を横に振った。
 ――シマの女達に向ける言葉は、相手好みの言葉だ。それを判断して突発的に合わせて行く。例えるならば流れる音楽に、即興でリリックを嵌めて行くようなものだ。相手好みの言葉を選び取って音にする。心地よくさせ、労うためのもの。それは――ジャンに対しては、違う。
 ジャンの望む言葉を言いたいわけではない。顔を見ていなくとも、想いは募る。募ってしまう。気持ちを、伝えたい。

「くそったれ」

 イヴァンはなぜか渋々と言った気持ちに襲われながら、窓へ正面から向き直った。
 唇を開く。ゆっくりと。Iの音。

「……アーイ、ラーヴ、…」

 何のレッスンだ、と自分で罵りたくなりながら、生まれてこのかた言い慣れた覚えなどない言葉を、必死で繰り返した。ジャンは今頃食事に向かっている頃だろうから目撃されることはないが、もし見られたら殺すしかねーかもな、などと考えながら、舌が、感情を乗せた音を滑らかに発音出来るようになるまで――



「ぅおーい、イヴァーン。差し入れ持って来たぞー。メシまだだろ?」
「ぎゃあ!!!……シット!ファック!くそっ!ファック!!」

 唐突にノックもなくドアを開けて入って来たジャンに、イヴァンは飛び上がらんばかりに驚いた後、ファックを闇雲に喚き散らした。後ろ手にドアを閉めながら、ジャンは窓際のイヴァンを半眼で眺める。

「きみの口はFとUとCとKの音しか出なくなっちまったのかい」
「うるせぇ!くそっ」
「それともあぁらイヴァンちゃんまたいやらしいグラビアでもこっそり見てマスターベー」
「殺すぞ!!」

 吼えるように叫んでジャンのふざけた口を黙らせる。ハイハイ、と仕方のない子供に対する態度を取りながらジャンは、手に持った紙袋をイヴァンの先ほどまで書類と向き合っていたテーブルの上へ置いた。がさごそと中から取り出すのはホットドッグで、イヴァンはそれとジャンの顔を見比べて首を捻る。

「な、なぁ、ジャン。今日はどっかのジジイと夕メシ食うんじゃなかったのか?何でこんな時間に帰って来てんだよ」
「食って来たぜ。向こうの爺様の都合で、急に三時間前倒しになったんだよ、どーしても夕方にはデイバンを発たねーとならないんだとさ」

 ジャンが帰って来るとは思っていなかったのであんな練習をしていたと言うのに。

「そんで本部に帰って来る途中、なんか腹減っちまってさ。お前もどうせ腹減らしてんだろーなーって思って、車降ろして貰って買って来たんだよ」

 紙袋からはコーラの瓶も出て来る。きちんと二本。見た途端に喉の渇きを思い出したイヴァンは、ジャンへ近づいて、瓶を一本取った。齧って栓を抜き、甘い刺激を喉に流し込む。
 コーラを飲みながらイヴァンは、袋から出したホットドッグを早速齧り出すジャンの、パンへ視線をやるために少し伏せられている金色の睫を眺めた。その金色の淡さに見惚れそうになり、慌てて頭を横に振る。

「イヴァン。何してんの、お前」
「うるっせえ!何でもねえよ!……なんだ、ジジイどもと食いに行ったメシ、まずかったのか?」
「いんや、チョー美味かった」
「フランス野郎の、量の少ねえ気取ったメシでも食って来たのかよ」
「ウウン、量も大満足なイタリア料理。ドルチェ付き。終わった後、ベルナルドが腹おさえてたぜ。ありゃ胃もたれだなー」

 ジャンの返答に怪訝な顔をしていると、目前にホットドッグが突きつけられた。ぷんと香る肉の匂い。艶のあるソーセージ。オニオン。ケチャップとマスタード。湯気を吸って少しひしゃげたパン。

「お前も食うだろ?」
「食うけどよ……」

 満腹だろうにまだホットドッグが食いたいとはどういうことかとイヴァンは腑に落ちない。ジャンは、ベルナルドのように小食ではないが、ルキーノのような大食漢でもない。ホットドッグを受け取りながら、怪訝そうな顔をしたままのイヴァンに、ジャンは視線を明後日の方向へずらし、んー、と何か思案するように声を漏らしてから、あのさ、と言い出す。

「最近、お前とメシ食ってないじゃん?」
「あ?」
「俺も自分でビョーキかと思うんですけどね」
「はぁ?」
「お前のツラ見て食わないと、どーにもちゃんと食った気がしないカラダになっちゃったみたい」

 そう言ったジャンは次の瞬間、言葉の意味を把握出来ていないイヴァンの方を向いてがっちり視線を繋ぎ合わせた。すうっと目を細めて、彼は優しく笑う。

「Darling」
「ハ……?」
「I love you so much」

 チュ、とキス音がジャンの唇で弾けるおまけまで付いた。
 みるみるうちにと言う表現がまったくもって似合う勢いで顔を赤くしたイヴァンの顔へ、ジャンはずいっと顔を近づけて、にやりと唇を歪ませる。

「で、お前がさっきっからやってくれちゃってた告白の予行練習は、いつになったら本番になるのけ?」
「――――ファック!」

 イヴァンが恥ずかしさのあまり唸り声のような文句を吐き出すと、ジャンはげらげらと大笑いしながら抱きついて来た。イヴァンの首に腕を回し、にやついた笑顔のまま顔を見て、赤い頬にうちゅっとキスをされる。
 いつもより甘い仕草に、イヴァンは狼狽した。

「なっ、おまっ、お前何なんだよ、クソッ!」
「いいからいいから、休憩しよーぜ?」

 首に抱きついて体重をかけながら、ジャンは囁く。

「30分休憩しよーぜ、イヴァンちゃん」

 イヴァンは首に絡みつく重さを振り払おうとしたが、体温の暖かさや、妙にいい匂いが鼻先を掠めたりとどうにも力が入らない。口の中で短く、くそ、と呟き、イヴァンは、Iから始まる音を出すべく息を吸い込んだ。

「あ。イヴァン、お前があんまり一生懸命練習してるもんだからさー、入って邪魔すんのも悪いし?と思って待ってたら、ホットドッグがちょっくら冷めちまった。ごめんな?」
「ファック!――防音どうなってやがるこの本部!」







2009.10.12