恋をしている



「後始末はラグに頼んでおくよ」
「ああ」

 ベルナルドの言葉に頷き、今にも踵を返しそうなジュリオの腕をベルナルドは掴んで引き止めた。
 
「……どうかしたのか」

 早く離して欲しいとばかり考えながらも、ジュリオはベルナルドの顔を見ながら尋ねる。
 病院の廊下は、病人のために暖房が効いていて暖かい。寒い外と違って、立ち話を長々としていても凍えて来ないが、今のジュリオにそんなことをしている暇はなかった。すぐにでも病室に戻りたい。そこには、誰よりも愛しいジュリオの王が眠っている。
 しかしベルナルドは空いている手でスーツの胸ポケットから煙草のケースを取り出し、悠長にジュリオへそれを向けた。

「吸える場所まで行こうか、ジュリオ」
「……あんただけ吸えばいい」
「お前もだ」

 拒否すると、今度は先ほどよりも強要の色合い濃く告げられる。ジュリオが酒も煙草もろくにやらないのを知っているだろうに。ジュリオは、一瞬怪訝そうに勧められたケースを見つめたものの、すぐにジャンのことが頭に浮かんで気持ちが急いてしまう。

「俺は要らない。ジャンさんのところへ戻る」
「葉巻だよ。肺に入れなくていい、吸って行け」

 更に引き止めるベルナルドに、ぴく、とジュリオの眉が小さく動く。彼の苛立った様子にベルナルドは苦笑し、手のひらで緩く肩を叩いた。

「匂い消しだよ」
「……匂い?」
「病院じゃ目立たないし、お前も気づいていないかもしれんが、血の匂いがする。まるでお前が怪我人のようだぞ」

 声を潜めたベルナルドは、ジャンのところに行くならあいつが心配する、と言い、ジュリオを外へ連れ出した。









 病室の扉を音を立てないようにそっと半分ほど開いたら、ジャンはすでに目を覚まし、上半身を起き上がらせていた。ジュリオ、と呼ぶジャンの声にほっと息をついたジュリオは、部屋の中へ足音もなく身を滑らせ、後ろ手に扉を閉める。

「ジャンさん、…眠らなくて大丈夫ですか?」
「もう目が溶けるくらい寝たって。ほら、なんでそんなとこにいんだ。こっち来るんだろ?」

 手招きするジャンの手に頷き、ジュリオはやはり足音もなくベッドに寄った。ぽんぽん、とジャンの手がベッドの脇にある椅子を叩いて座るのを促す。促されるまま、従順にジュリオはそこへ腰を下ろした。
 窓側の――ジュリオが座った方とは反対側のジャンの体には、二の腕から肘にかけて白い包帯がぐるぐると巻かれている。患者用の服の袖から覗く包帯を見つめ、ジュリオは泣きたいような気持ちになった。ジャンが痛みを味わい傷をつけられたと言うことと、それを防げなかった己への情けなさで。

 ジャンが襲われたのは、ジュリオが少し離れた場所でボンドーネ家と関係のある知り合いに挨拶をしている間で、他の幹部がジャンに背を向けた一瞬だった。
 ナイフでの一撃目は誰も防げなかった。
 二撃目の前には、ベルナルドがジャンを背に庇い、ルキーノの手が男を捕らえ、抵抗をイヴァンが蹴りで抑え、ジュリオのナイフが喉首を切り裂いた。一気に逃げ出した仲間と思われる連中は、ジャンが病院へ運ばれる間に、全てジュリオが始末した。
 居合わせたのに守れなかった後悔が、ジュリオの胸を重くする。

「――ん? アレ? なあ、ジュリオ」
「は、はい」

 思考が暗がりに落ちかけたジュリオは、ふと自分を呼んだジャンの声に我に返る。気づくとジャンの顔はやけに近く、くん、と鼻を鳴らして嗅ぐ音が、ジュリオの鼻先で鳴った。

「お前、やっぱりだ。いーい煙草吸っただろ。なんか、匂いが」
「…はい、ベルナルドが吸って行けと、一本くれたので」
「あ、ソウ。お前、持ち歩かないもんなぁ」

 俺も吸いてえわ、としみじみ呟くジャンの顔色は、あまり良くない。普段通りの話し声をしていても血はそれなりに流れたし、慌しさに気分の方も疲労しているはずだ。そう考え、ジュリオは、胸をぎゅっと締め付けられるような息苦しさを感じた。

「ジャン、…さん」
「んー?」
「守れなくて、すみません……俺、仕事、出来なくて…」
「気ーにすんな、かすり傷だっての。ベルナルドが大げさなんだよ。あんまり心配するから、お陰であいつの前髪にダメージ与えちまったかってこっちが気が気じゃないわー」

 軽口を叩いて笑ったジャンは、いつもなら多少笑ったり何か返したりして来るジュリオの表情が、いまだ強張ったままなことに気づいて、肩を竦める。

「なあ、ジュリオ?気にすんな。お前はちゃんと仕事してくれたぜ?だからこんな傷で済んでるの。わかるか?お前が百ヤードを一秒で走れんなら話は別だけど、離れてたんだ。無理だって」
「…鍛え、ます」
「お前は風にでもなるつもりかジュリオ!?」

 真顔で言うジュリオに、ジャンが冗談とも本気とも判断がつかなかったようで、笑いながら焦り出した。
 ジュリオとしては本気だったので、ジャンの驚いた反応の方に驚く。冗談だよな、と念を押されたので思わず一瞬黙ると、いやいや風とかならなくていいからと慌てて止められた。

「でも、俺、ジャンさんのためなら、」
「風にならないのが俺のため!」
「……はい」

 何も出来ないのか、と、しゅんとしたが、ジャンはジュリオが頷いてほっとしたらしい。表情を緩めて笑っている。
 声は元気そうでも、腕の傷はそれなりに痛むはずだ。鎮痛剤が効いているのだろうか。傷が熱を持って発熱するかもしれないとも聞いている。

「ジャンさん……」
「なんだ?」

 応じる声はやはり元気そうだが、腕の真っ白い包帯が痛々しい。ジュリオは傷にさわらないよう、傷があるのとは反対の腕に顔を寄せ、同じ場所へ、祈るように額をつけた。

「ジャン、さん…」

 名を呼ぶ。ジャンの名は、ジュリオにとって特別なものだ。愛しさ、尊敬、切なさ、寂しさ、喜び、あたたかさ、ジュリオの味わったことのない初めて感じる感情が山ほど詰まっている。
 名を呼びながらじわりと目蓋の裏が熱くなる。こんな熱も、ジャンが初めてくれたものだった。
 腕に額を当ててじっと動かないジュリオの頭へ、そうっとジャンの頬が寄せられる。

「ジュリオ、気ぃ悪くすんなよ」
「ジャンさん…?」
「……お前さ、コレと、同じようにしたいと思うか? その、俺に」

 控えめに尋ねられた言葉に、ジュリオは顔を上げる。髪がジャンの頬と擦れた。顔を上げた先で、ジャンはジュリオを見つめている。
 確かに、ジャンの血を――肉を、死を、見たいと思ったことがある。それは確かだ。それは、捩れて捻じ曲がった欲望であり、ジュリオの欲求と言えばそれだけだった。他に欲求の形を知らなかった――知らなかった。今のような幸福など。

「いえ、…いいえ、ジャン」

 ジュリオの欲望は、血と、肉と、死とで出来ていて、どす黒い赤い色をしていた。
 しかし恋は、あたたかな生に満ちた肉体と、甘いフレーバーと、不安で出来ていて、太陽のような金色をしていた。

「優しくしたい、です…」
「俺もだよ、ジュリオ」

 震える声で告げると、ジャンが穏やかに応じる。顔上げろ、と促され、ジュリオは考えるよりも先にその言葉の通りに顔を上げていた。
 目の前に、ジャンの顔がある。少しだけ笑みに細められた、蜂蜜色をした一対の瞳。そこに不安そうな顔をしたジュリオが映っている。

「優しくしてくれ。俺の好きなやつにも――お前にも、さ」

 そう言うなり、ぺろ、と目のふちを嘗められた。驚いて目を見開くジュリオに、ジャンは照れくさそうに笑う。

「だから、そう泣きそうな目すんな!お前、どこも怪我してないんだろ?」

 怪我のない腕だけを使ってジュリオを抱きしめたジャンは、ジュリオの前髪に鼻先を埋め、嗅いだ。血の匂いがしない、と呟くジャンの声に、ジュリオの身が少し強張る。

「……うん、ベルナルドの貰い煙草の匂いだけだ。怪我してねえな」

 よかった、と安堵に満ちた声でジャンが笑う。
 そういうジャンからは血の匂いがしない。きれいに手当てされているからだ。
 ジュリオの欲望は血の匂いで出来ていたが、ジャンからは血の匂いがしない方がいい。

 ジュリオは、死臭に満ちた肺いっぱいに、ジャンの匂いを吸い込んだ。陽だまりのような匂い。ジャンから嗅ぐ匂いは、そっちの方が、ずっとジュリオは好きだった。







2009.11.18