臆病者は恋を請う






※デイバン編・ベルナルドルートで、ベルナルドが一人でデイヴのもとへ行く前にジャンに話をし、ジャンがベルナルドを連れて逃げる……と言う捏造話です。














「はぁ、は、あ、……」

 走りっぱなしで上がった息も、盛大に荒い呼吸も、荒れた海の波音と雨音が消してくれる。
 デイバン港の一角、殆ど空になっている倉庫の隅に、俺とベルナルドは二人で逃げ込んでいた。
 倉庫への入り口には軽いトラップを仕掛けた。足元に糸を張り、足を引っ掛けるなりして引っ張ると、糸の片側に結びつけたそこいらに転がっていた空き缶が一斗缶から落ちて盛大に音を立てる……と言うごく単純な造りのトラップだ。これだけ暗ければ足元には気付きにくい、日が昇るまでは充分使えるだろう。

 これで少し息をつけそうだ、と、ほっと息を吐くと、逃げることばかり考えていた俺の頭に余裕が出来て、あることに気付いた。――ここは、暗闇に近い。むしろずっと暗い中を走って来た。

「ベルナルド」

 暗闇は、こいつの嫌な記憶を引き寄せる。傍らのベルナルドを見上げると、奴は、眉間の皺に疲労がにじんでいたものの、落ち着いた顔をして外を見ていた。腕を掴むと、雨で濡れた感触がする。

「どうした、ジャン」

 俺の方を見たベルナルドの目は、やはり落ち着いていた。ホテルの仕事部屋の、暗闇で、あれだけ怯えていた男が。

「……なあ、あんた、大丈夫か。ライターあるだろ? 燃やせるモンでも探して来るか?」
「いや、完全に暗闇じゃないし……この距離だとお前が見えるから、平気だ。こんな暗い場所でもキラキラしてるな」

 場違いなことを言って、ベルナルドの野郎は目を細めて微笑む。うっとりと。暗い中だ、俺の頬が妙に熱くなったこともこいつにはバレないだろう、と思いながらも、俺はつい顔を背ける。

「ジャン?」
「あ〜、いや、誰も通らねえなあって」
「ああ……漁師が使う船着き場とも離れてるしね。それにこの雨だ。夜が明けても、誰も海にも出れないだろう」
「すげえ雨」
「恵みの雨だな」
「俺もそう思うよ」

 同意すると、ふ、とベルナルドが吐息のように微かに笑った。

 二人で逃げるにあたって、季節外れのスコールじみた大雨が降ったことも幸いした。闇夜の雨は足跡も消し、人目を眩ませてくれる。そして今は、軒先に手のひらを差し出しただけで、そこにすぐ水が溜まった。溜まったばかりの雨水は、埃っぽいが飲める。煮沸した方が良いんだろうがそんな贅沢な話は転がっていない。とにかく喉を潤すものが欲しい、と思って飲んだ雨は、舌に甘かった。

 俺はもう一口分だけ雨水を口にすると、飲み干さず、ベルナルドに視線を向けた。どうしたかと視線を合わせて来るベルナルドに顔を寄せて、冷たく湿った舌と水を含ませる。こいつもやはり喉が渇いていたのだろう。俺の意図に気付くと、舌にしゃぶりつくようにして、口移しの水を飲んだ。
 俺の腰にベルナルドの手が回って、引き寄せて来る。俺は抗わない。酔いもしていないベルナルドの抱擁を受け入れる。絡まる舌も、すがりつくような力強さで俺を抱きすくめる腕も、構わない。俺から首に腕を回し、濡れたベルナルドの髪に指を差し入れ、もっと寄越せ、と、水を与えている方なのに求めることすらする。
 離れて行くベルナルドの唇を無意識で追って、ちゅ、と吸いつくような真似さえした。間近のベルナルドの目が微笑んでいる。冷えていた唇は、暖まっていた。

「ジャン」

 ベルナルドの吐いた息が、俺の唇を掠めてくすぐったい。
 
「あったかいな、お前」
「そりゃ、まだゴーストじゃないからな」

 にやっと笑って答えた俺の言葉に、二人で笑った。
 
「お前があったかいことを、神に感謝したい気持ちだ」
「ま、雨でどんどん冷えてるけど。寒いって感じられるのも、サンキュー神様、ってとこか」

 ふざけて言い合うが、生きてる有難みが、重い。一秒後、一分後、一時間後、今と同じ体温で、息をしていられるかと言う保障は一切ない状態だ。俺たちは。
 だが今は生きていて寒いので、ひとまず、雨でびしょ濡れのコートを脱いで絞る。床に落ちていたウエスは機械油の匂いがして顔を拭うには憚られたんで、水が入って滑りそうな靴の中を拭った。昨日までの――いや、数時間前まで俺たちのいた、デイバンホテルの中とは大違いだ。更にその前の、刑務所の中と比べてもあっちの方がマシかもしれない。脱獄するにしても、今回の方がヤバイ感じがする。

「もう二時間ほどしたら、明け方の船に潜り込もう。CR:5の手のかかっていない船会社は把握している、大丈夫だ」
「頼りにしてるわ、ダーリン」

 コンテナの影に隣り合って座り込み、互いに軽口にしながら予定を確認する。確認は、それだけだ。後は、懐に突っ込んで来たドルがあればなんとかなるだろう。行き先はどこだって良い。出来れば英語かイタリア語が通じる場所。一番重要なのは、俺とベルナルドが生きて二人でいられる場所。たとえばその場所が月だって、いい。
 今の空は、月の姿などかけらも見えない雨雲だが。
 ここは、遠い港の常夜灯のお陰でどうにか互いの顔が確認出来る程度の明るさだ。もっとベルナルドの存在を確認したくて、俺は手を伸ばし、床に落ちているベルナルドの手を探る。指先に触れると、ベルナルドは俺の指に、緩く自分の指を絡めて来た。俺はそれを撫でるように辿って、手の甲、手首へと触れて行く。存在を確認する。
 骨ばった細い手首。こいつ、痩せたか? 俺はどうして今まで気付かなかった? こいつが嘘つきだってことに。こいつが俺を好きだってことに。俺がこいつを好きだってことに。こいつが、どれだけのものを抱え込んでいたかってことに。責任も苦悩もその背にしょいこんで色々なものを守っていたってことに。こんな、死ぬかもしれない敵の手に落ちるか、あるいはこうして逃げ出すかなんて二択になる前に。

「ジャン」

 黙りこくった俺の手から、ベルナルドの手首が逃げる。そして、俺の手を掴む。

「麗しき幸運の女神の代わりに、と言うには少々劣るが、お前には俺がいるさ」
「……グラーツェ」

 少しおどけて言うベルナルドの言葉に、中途半端に笑いながら礼を言う。焦っていた気持ちが落ち着いていた。
 ベルナルドは、やはり落ち着いていた目をしている。不思議なほどに。覚悟を決めた目とでも言うんだろうか――そう考えて、ふとよぎった嫌な想像を、俺は口にした。

「もし万が一の時は俺だけ逃がすとか考えてたらぶっ飛ばすぜ、ダーリン」

 ベルナルドの頬がわずかに強張った。……案の定だ。こいつはどうして俺を優先するんだろうか。そんなの、盾になられても、意味がない。

「二度と考えんなよ」

 ドアホ。俺が何のためにこんなトチ狂った真似してると思ってんだ。俺はベルナルドの横に腰を下ろし、ヤツの二の腕の辺りに肩を寄せて、思い切り体重をかけてやる。寄りかかると、ベルナルドの肩に俺の頬がちょうどおさまった。

「引きずってでも逃げてやる」

 そう口にすると目の奥が熱くなって、俺は目を閉じた。
 こんなに近い距離では、ベルナルドが、ほっと息をつくのが良くわかる。ひどく疲れた溜息だった。

「ジャン、愛してる」
「俺もだよ、ベルナルド」

 すんなりと口から言葉が出る。
 照れ臭いだとか、恥ずかしいだとか、そんな気持ちはない。変にハイになっているんだろう。感情が暴走して、制御出来ていない。こいつが好きだとか、一緒にいたいとか、死なせたくないとか、死にたくないだとか……こんなに強い感情にまみれたことは、あの脱獄より前に何かあっただろうか。焼けるような衝動の中で、のたうち回りたいような気持ちになったことは?

 なかった。

 だから俺の死は、銃でもナイフでもない。
 俺が死ぬとしたら、百歩譲ってこいつとの心中だ。生きていたいが、どうしても死ぬなら俺はこいつと死ぬ。それ以外いやだ。だから、逃げる。精一杯。一秒でも長く二人で逃げる。生きていたい。そして、こいつのいない人生なんかごめんだ。

「離れんなよ、ベルナルド」
「ああ」

 頷いたベルナルドが俺に身を寄せて来る。互いに体重を預け、預かる。冷えた体が、触れ合っている場所だけ少し暖かかった。俺の湿った金髪に埋められたベルナルドの唇が、ゆっくりと、熱い息を吐く。その唇は俺の額に、いかにも大事そうな、ささやかな仕草で触れた。

「……離さないさ」

 ベルナルドの囁きが、俺の耳に、体に、沁み込んで来る。
 この誓いのため、この望みのために、俺たちは二人揃って裏切り者だ。






2011.02.11