海の底にいる/ベル→ジャン、ベルジャンルート外 +ルキーノ




 光はいつもあるわけじゃない。

 上等な最高のものをほんの少しだけ。それで満たされると、思う。
 贅沢に満ちていたいわけじゃない。贅沢は敵だ、などと言うつもりはないが、しかし、常に贅沢に満ちていられるはずもない。
 昼があれば、夜もある。ずっと昼間の世界など、現実には存在しない。夢物語だ。夜は来る、誰にでも等しく。
 だから時々どうしようもなくなる時間がある。例えば、不意にひんやりとした日陰に入った時。常よりもずっと暗く感じ、背筋が冷えて、ぶるっと身震いをした後など。

 そんな時は、ひとり、じっと蹲る。今日は自分の執務室だった。兵隊に「人を入れるな」と命じて部屋にこもる。この後の幹部会議までにはまだ時間があるので、その間に落ち着いてしまえば良い。そう思いながら部屋へ入り、ソファの前で力尽きるようにしゃがみ込んだ。追想したくもない痛みの記憶が、じわりと肌の上を這った。寒気がするのに動悸は上がって行く。我が身はジャンに、カポに、CR:5へ捧げたはずなのに、どうしようもなくなる時間がある。情けなさよりも先に恐怖が来て、身動きが取れなくなる。息苦しさに耐えかねて口を開き、何度も息を吸った。何度も。何度も。動悸は上がる。目の前がちかちかと白く瞬き――
「――カーヴォロ!落ち着け!」
 間近の怒鳴り声に目を見開くと、掠れた視界の中、赤毛が見えた。そう思った次の瞬間、口をがさっとした紙の質感が覆う。ホットドッグの匂いが紙に残っていて一瞬むせそうになる。
「む、ぐ」
 びく、と震えた体が、勝手に肺から空気を吐き出させる。吐いた息が口元でこもって、紙袋を口元に宛がわれていることに気づいた。
「吐いて、吸え!どっちか片方だけするな、アホ、この…くそっ!」
 苛立ったルキーノの声は、要領を得ない罵り文句になってベルナルドの耳に届く。何か言おうとすると肺が苦しい。袋に吐いた自分の呼気をまた肺に取り込む。もがいた右手は強く手首を掴んで引かれ、手のひらをルキーノの分厚い胸に押しつけられた。手のひらの下で、シャツ越しにルキーノの胸が呼吸のリズムで大きく上下するのがわかった。
「いいか、俺の呼吸に合わせろ。このばか」
 言い聞かせながらも罵ると言う忙しい真似をするルキーノの、ゆっくりと大きい呼吸が手のひらに伝わる。
 大きな犬が悠々と眠っているのを眺めているような、不思議に穏やかな気分がベルナルドの頭の端に生まれた。




「すぐに幹部会議だぞ」
 やがて呼吸が落ち着き、口元から紙袋も離れると、ルキーノが何事もなかったようにそう口にする。
「――…もうそんな時間か?」
「ああ。それと、どうせ何も食ってないだろうとジャンからの差し入れだ」さきほど口に押し当てられた紙袋が、胸に押し付けられた。「中身は、さっきそこのゴミ箱にぶち撒けたが」
「…すまん。ちょっと体調が悪くてね」
 そう言えば、この男は信じるだろうと思った。表向きは。深い場所まで無理やり押し入る真似はしない。そこはお互い様だ。
 気をつけろ、だの、そうか、だのの返事を想定していたが、しかし、ルキーノは黙っていた。十秒。二十秒。頭の中でベルナルドがカウントを取るが、まだルキーノは黙っている。
「……ルキーノ?」
 沈黙の長さを怪訝に思い、名を呼ぶと、ルキーノは不意に「海で、」と呟いた。
「海で、波に飲まれるとな」
「――…?」
「海水の中で流れに揉まれて、自分がどっちを向いているのかわからなくなる。上下すらな。だから、慌てて海面を目指そうとしても、真逆の水中を目指しちまうことだってある。そういう時はどうすればいいと思う?」
「……慌てず、じっと上下がわかるようになるまで待つ、か?」
「ビンゴだ」
 じっと蹲るような格好のベルナルドの前に座っているルキーノが、頷く。ふざけた様子もなく、真面目な顔で。
「だから――ベルナルド。あんたのやってることはきっと――正しい。多分、な」
 この男らしからぬどこか迷うような口振りで言われ、そこでベルナルドはようやくはっとした。自分が気遣われているのだと、滑稽だが今更気がついた。
「まあそんな話はいい。十分だ。十分経ったら出て来いよ、それまでは子犬どもを上手く誤魔化しておいてやる」
 ほら時計合わせろよ、とルキーノは手首に嵌められたプレゲを見せてくる。ベルナルドは反射的に自分の腕も出し、時計の針をルキーノの時計ときっちり合わせた。誤差の消えた二つの時計は、同じリズムで時を刻む。
 二つの秒針の規則正しい動きを見ながら、ベルナルドは腹の底からじわじわと笑いがせりあがって来るのを感じた。
「……ハハ、お前はどこのスパイ小説の主人公なんだ?」
「ああ、いいな、それ。ギャング小説のヒーローよりマシだ」
 二人で、子供のように戯けた話で笑う。すまんね、と詫びると、カーヴォロと笑われた。
 仲間の間で、こんなことは詫びることでも貸しとも思われないだろう。この場にいるのがルキーノではなく、ジャンでも、ジュリオでも、イヴァンでも、ベルナルドに手を伸べることを誰も厭わないだろう。ベルナルドが彼らに対してそうであるように。


 ルキーノがいなくなって一人になった部屋で、ベルナルドはゆるやかな呼吸を繰り返しながら、思った。ああ、これは、どうやら――
「どうやら俺は幸福なようだ」








「ダーリン、腹大丈夫?ルキーノが、ハライタで便所にこもってたって言ってたぜ。ひどいのけ?」
「ファック!」

2009.11.17








クムイウタ/ベル→ジャン ベルジャンルート外




 ドンは立派な人だよ。
 そんなことねえって、俺からしたらそんなことねえってことがねえって。
 給料の払いだってしっかりしてくれるし、俺たちの扱いだって見下すようなこともしねえ。
 握手だってしてくれる。バカにだってしねえ。
 金払ってるから当たり前って顔もしねえでグラッツェの言葉をくれる雇い主なんて、主の名を知らねえヤツばりにそうそういないぜ。
 こないだ修道院にタダメシもらいに行ったんだけどさ、あそこも、CR:5が炊き出しのために寄付してんだろ?
 俺たちみたいに後ろ盾も何もねえ連中は、生かしてくれるドンたちに感謝してる。
 …大丈夫だって、俺もそんな夢見るガキじゃねえ。世の中、タダなのは空気くらいだって知ってらぁ。役立つから生かしてくれるんだろ。
 役立つのに死んでいく連中だってやまほどいるぜ。ドンは立派な人だよ。
 CR:5の幹部筆頭って言ったら、カポの次に偉いんだよな。部下がたくさんいる。そいつらの行く末だって、ドンが左右しちまうことだってあるんだから、一番いい方法を考えなきゃなんねえんだろ?
 一番いいってのは、一番善良ってことじゃねえよ。
 とにかくだ、ドンは冷静な人ってことさ。手に天秤を持ってる天使ガブリエルみたいに。マリア様にキリストを産むって話をしに行くなら付き合うよ。だから。


「……だから泣かないでくれよ、ドン・オルトラーニ。ドンから貰ってる給料の中に、ドンを慰めるって仕事は入ってねえんだ」
 酔いつぶれた大人相手に困り果てた様子のジャンマルコに、ベルナルドは酒に潤んだ目で笑う。
 気心の知れたキィサイド。禁酒法が終わってモグリから表立った店になったこの店内に、今日は歌姫はいない。店自体が休業日だ。古株の店員が一人、休業日と言うのにベルナルドに付き合って店を開け、酒と肉を出し、連れの子供のためにとベルナルドが食事を頼むと温かなローストビーフのサンドイッチとスープを出してくれた。
 がっついて食べるジャンマルコを見ながら、ベルナルドはウイスキーを呑んだ。つい最近までデトロイトを経由して運ばれていた酒を呑みながらぽつりぽつりと話をし、ジャンマルコはそれに打てば響くようにはきはきと返事をした。ジャンマルコのためにデザートのチョコレートサンデーまで振舞われる。そして最後の温かいココアが冷めだすころ、ベルナルドはテーブルに頬杖をつかなければ視界が揺れるほどに酒に飲まれ、ジャンマルコは困り果てていた。
「泣いてまではいないんだ。付き合わせてすまないな、ジャンマルコ。後でボーナスをやるよ」
「要らねえよ、ドンには世話になってんだから後払いでいいって。俺が大人になったらまとめてどんとくれ、そしたら、俺、ドンみたいなアルファロメオを俺のもんにするんだ」
「そうか」
「ドンは大人で、CR:5の幹部筆頭でさ、背も高いし、男前で、アルファロメオも持ってて、それでも泣きたいことなんて世の中にあるんだな」
「ハハ、褒めても何も出せんよ。……泣きたいことなんか、山ほどさ」
 眩しいものを見るような目で、ベルナルドはジャンマルコを見る。夢と希望に溢れた賢い子供は不思議そうな顔でぱちぱちと目を瞬かせた後、ズボンの腿のところで手のひらを拭い、おっかなびっくりとベルナルドの頭を撫で出したので、ベルナルドは声を上げて笑った。
 泣きたいことなど山ほどある。重圧。抱えなくてはいけない秘密。どうしようもない過去。どうしようもない自分。しかし、生活に張り合いはある。ごくたまに幹部筆頭が子供に慰められるような始末になっても、CR:5は順調に規模を大きくしていた。
 ジャンは前を見て、その前向きさと明るさで自分たちを、組を引っ張って行ってくれている。もっと組は大きくなるだろう。肥大するわけでなく、植物が育まれるように、少しずつ、着実な養分を貯えて。
 ジャンマルコが大人になったら一緒に酒を呑もうと思った。
 その頃にはCR:5は今よりも強固になっているだろう。
 大丈夫だ。未来が見える。
 未来を想って笑える限り、いくら過去が重く喉を締め付けても、自分は幸福なのだ。

2009.11.30