ライクアサン



※本編イヴァジャンベストエンドルート、十年後くらい、死亡を匂わす雰囲気

1 /2 /3-ベルナルド /4-ルキーノ /5-ジュリオ /6-イヴァン /




 「俺より先に死んだからぶっ殺すからな」と事あるごとに言うイヴァンを、「昔の、棺桶に片足突っ込んだ状態の俺をいつまで経っても覚えている」――と俺は思っている。
 あまりに言われるものだから、俺は、やだよと何度か言い返したくなった。
 だがそれは言わなくて良かった。言ってしまっていれば、イヴァンは今後、ずっとその言葉を反芻してしまっただろうから。死について話した思い出など出来るだけない方がいいと、俺は思っている。
 いつか自分はそれを笑い飛ばしたり、慰められることが出来なくなってしまうことに気づき出したから。

 胸の重苦しさが続く。微熱が下がらない。以前とはちょっとした差だが、指や足が言うことを聞かなくなって来ているのを、俺は自覚していた。
 ラッキードッグの名は伊達じゃない。
 アンラッキーを避けて通って過ごして来た。しかしそれが――避けようのあるものであればの話だ。
 くそ、時間、時間が足りねえ、足りねえ、本当はもっと、お前と、ずっと一緒にいる予定だった。ずっと、永遠、そんな言葉に満ちたお前との――死のみが二人を別つ――いや、死にすらも――別たれない――…





「ジャン」
 呼ばれて、はっと目を開いた。
 意識が急激に眠りから放り出される。びくんと体が震えて、心臓が跳ねる。見開いた目に映るのは、真っ白な天井だ。シンプルな照明は、本部にある自室の照明とは違う。天井の色も、自室は白ではない。
「イヴァ…」
 ――どこだここ――と、俺は反射的に一番近しいヤツの名を呼びかけて、視界に入り込んで来たアップルグリーンの色合いに呼ぶのを中断した。代わりに、ベルナルド、とその色合いを持つ友人の名を呼ぶ。
「おはよう、スリーピングドッグ。夢の国が楽しすぎて帰って来ないのかと思ってしまったよ。お目覚めの気分はどうだい」
「あんたの目が潤んでなけりゃ最高よ、ダーリン」
「おや、そりゃ気のせい――」
「じゃねえだろ」
「……ハハ、目はよく見えているようで結構」
 観念して笑ったベルナルドが、いつもより赤い目じりに僅かな笑い皺を浮かせて笑った。仕方ねえなぁ、と俺も笑う。笑うと肺が引きつるように痛んだが、すでにその痛みには慣れていて表情に出さないことだって出来る。
「泣くなよ、もういい加減オヤジなんだから。…ここ、病院だよな。他のやつらは?」
「騒ぎにならないよう色々やってるよ――ジャン、お前、衆目の面前でぶっ倒れたんだぞ。表向きは無理のたたった疲労と言うことにしてある。ルキーノは役員の皆様に妙な噂が流れないよう、根回しを。アレッサンドロ顧問はドクターと話をしている。ジュリオとはさっきお前の付き添いを交代したばかりだ。あいつはお前の傍から離れようとしないもんでね、説得の上で睡眠薬を入れて無理やり少し休ませてる」
「ジュリオのやつ、説得されたのかよ。あいつも変わったなぁ…」
「――イヴァンにも連絡をしたよ」
 ベルナルドに堅い声で言われた瞬間、少しだけ血の気が下がった。と思った。
 多分これは緊張だ。あいつが知ってしまったことへの。
「……なんて?」
「ドクから言われたありのままを」
 ああ、やっぱり。
 片手で目の上を覆う。嘆いてる真似をした。口からはOh my goshの呟きを洩らす。
「あーあ、……ベルナルドおじさん、ひどいわ。俺が自分で言おうと思ったのに」
「いつ?」
「あの世から」
 ウケるとも思わなかったが、ベルナルドは苦虫を噛み潰したような顔をした。
 ベルナルドは眼鏡を外すとそのままベッドの横へ跪き、シーツにだらんと落ちてた俺の手を掴んで、自分の目元に手のひらを押し付ける。手のひらに感じたベルナルドの目元は、なんだか熱かった。
「マイボス――カポ・デル・モンテ」
「うん」
「そいつは、今までの中で一番のバッドジョークだよ。ジャン」
 ベルナルドが俺を心底たしなめたのは、後にも先にもこれきりだった気がする。
「……、ベルナルドの泣きむし」
 片手をベルナルドにやりながら、俺はガキのようなことを言う。ふふ、とベルナルドの笑った振動を手のひらに感じた。
「年を取ると涙もろくていけないな、ハニー。仕方がないから、いっそお前らの分まで泣いてやろう」
「グラッツェ――…」
 そうだな。イヴァンのヤツも、強がりだから。
 素直に泣きむしになるには、俺もヤツも、ちょっと若すぎる。














「病室で幹部会議って初めてじゃねえ?」
 ワオ、俺の言葉に誰も笑わなかった。
「おいおいおい、何だよ。ここは教会か? 墓地か? 葬式じゃねえんだから」
 ワオワオ。縁起でもねえだろって言い出すヤツすらいない。
 仕方がないので黙って、俺はベッドの上でガムを食う簡単な仕事に入る。
 幹部の連中四人が揃ってここにいるもんだから、真っ白い壁に真っ白い天井に真っ白いベッドって造りのせいでやけに広く感じていた病室は、今日はやけに狭く感じた。何か、ほっとする。
 ほっとしてる俺とは逆に、コイツラは皆真顔なんだけど。
 ベルナルドとジュリオはベッドの横に椅子を持って来て座りながら真顔だし、ルキーノはベッドに寝てる俺を真顔で見下ろしていて威圧感がすげえから出来れば座って欲しい。残りのイヴァンは――あのヤロウは、一番離れた場所、入り口のドアの前に立っている。
 真顔の連中ばっかりの幹部会議は、ベルナルドの堅い声から開始した。
「まず俺から意見をいいかな――俺は、ジャンに静養を勧める」
「俺もだ」
 幹部次席のルキーノが短く、そして強く同意した。第三位のジュリオがそれを追うようにベルナルドへ頷く。
「俺もです。カポ。……ジャンさん、ジャン、お願いです」
 ジュリオの視線は同意を示しながらベルナルドを見て、それから、すぐにベッドの上の俺に移った。
 ジュリオは俺の手を握ろうと、手を伸ばす。触れるのをためらって毛布の上に手を落とし、そしてほろほろと泣く。
 でかい図体で…困ったことに可愛いので、俺から手を伸ばして握ってやり、あやすように揺する。
「ばか、ジュリオ」
「す、みま、せ……」
「ばか、ほら泣くなコノヤロ」
 握った手には、近くにあったタオルを持たせた。手首を掴んで持ち上げ、顔を拭うよう促すと、ジュリオは素直にタオルに顔を伏せる。
 可愛い部下かつ友人であるマッドドッグの肩をぽんと叩く。肩はもう涙に震えていなかった。イイコイイコ、と俺はその肩を擦って、手を離す。
「イヴァンはどうだ?」
 ベルナルドの声が、入り口に立っていたイヴァンに向けられる。イヴァンは――あいつは、視線を床に向けたまま、頷くことで応じた。
 ぱん、とベルナルドは掌を一度打ち合わせる。
「幹部会議の結果です――過半数超えましたよ、ボス。過半数どころか満場一致だ。言うことを聞いておくれ、ジャン」
 最後だけ困ったような声を出すのはずるいんじゃないの、ベルナルド。満場一致な上に、頼むよ、とベルナルドに請われ、ルキーノに真剣な目で見つめられ、ジュリオに涙に濡れた目を向けられてしまっては、俺は肩を竦めて、はあい、とイイコの返事を返すしかない。イヴァンは、床と見詰め合ってばっかりだ。
 無理が利かないことはわかっている。わかってしまうほど、俺の体は、言うことを聞かない。
「グラーツェ、ハニー。どこか空気の良い場所とも思ったんだが、警備が心配でね。本部の一部屋を潰して医療機器を入れるのはどうだ」
「医者が要るな。護衛はどうする? ベルナルド、お前のところの掃除屋か、うちの兵隊を――」
「俺が付く」
 ずっと床と見詰め合っていたイヴァンの声が、ルキーノの言葉を遮った。
「俺が付く。そいつの護衛だろ、俺なら不服はねぇよな」
 ヤツの視線は、床からベルナルドに移動していた。ベルナルドは、ああ、とも、いや、ともつかない声を洩らし、考え込む仕草で視線をルキーノへ向ける。ルキーノも思案げに眉を寄せ、ジュリオへと視線を移し――
「あー、いや、待て待て」
 アイコンタクトの幹部会議を遮り、俺は首を横に振る。
「何だよ、問題ねぇだろ、なあ、ジャン」
「バカ、アリだよ、大アリだろ。お前んとこのシノギはどうするよ。会社、いまイイトコなんだろ?」
「そんなもん――」
 そんなもん、と言いながらイヴァンの目は躊躇に揺れた。ああ、このバカ。俺と天秤にかけて、そんなもん、と言い切れないくらい大事なんだろう。当たり前だ。お前のシノギだ。いろんなモンを注ぎこんで、お前が作り上げたモノだ。
「ふざけんな!俺はまだ生きてる!」
 考えるよりも先にそう怒鳴っていた。大声を出して肺が軋んだが、こんなバカを叱咤するくらい、もつ。
 イヴァンは驚きに目を見開いていた。他の幹部も、俺の激昂に驚いて、体に障るからとは止められない。
「生きてるなら命の限りをCR:5に使う、それが、俺がカポやってるCR:5のために命張って来てくれたファミーリアへのケジメだ! わからねえなんてぬかすなよ、このボケ!」
「ジャン――」
「だってのに、お前は俺のために組の、お前のシノギを小さくしようとしやがる。カポが組の足引っ張ってどうする。出来もしねえこと言うんじゃねえよ! しようとすんな! ――いいか、イヴァン!」
 ……涙が浮かびそうなんて、そんなことあるはずがない。バカになってる涙腺を堪えて睨みつける。
「惨めにすんな、俺を!」
 叫ぶと、喉がゼエと鳴った。駄目だ。ささやかな絶望が俺の胸を冷やす。こんな時間ももたないのか。
 飲まれたように静まり返る室内で、イヴァンの瞬く睫が空気を揺らすのさえ、感じられるような緊張感が満ちていた。
「……頼むよ。俺を惨めにすんな、イヴァン」
 懇願なんかしたくなかった。
 イヴァンの目が後悔の色を宿したことに、俺の胸はじわりと痛んだ。














「……護衛にはラグを呼ぶよ。単発ではなく長時間の契約を。話はもうしてあるんだ」
「掃除屋ラグさんもタイヘンだな。そろそろウチ向けに、何でも屋の会社立ち上げるんじゃねえの?」
 病室にはベルナルドだけが残った。やかましくしていなくても、人はいるだけでどこか賑やかしく感じる。しんと静まった空気の病室に、ベルナルドと俺の声が、やけにささやかに響いていた。
「病人の護衛なんて、ラグさんも体がなまっちまうんじゃねえの?」
「なに、別件で今まで通り掃除もして貰うさ。あいつの可愛がっている豚の世話には人手を回すし、まあ、人が少なくなる夜だけの護衛、な」
「大事にしてる豚さんの世話を、他人に任せていいのけ?」
「非常時だ、納得してくれたさ」
「長期にならないから、なんだな」
 しん。と部屋の空気が一際静まる。
「――――……ジャン、それは」
「長くないって言っていいんだぜ、ベルナルド」
 誤魔化しの言葉がベルナルドの喉の奥に封じられる。さすがに絶句された。
 俺は苦く笑って、直球に切り込みすぎたかと思い――それ以外の回りくどい踏み込み方も考えつかねえな、と思い直す。その頃にはベルナルドも、さすがと言うべきか復活していて、ほんの少しだけ首を前に傾け、頷いた。
「お前に二度と嘘をつこうとはしないよ、ボス」
「ありがとちゃん。……ベルナルド。あんたにばっか、こういう話させてスマン」
「構わんさ。ルキーノはつらいだろう、ジュリオは泣くだろうし、イヴァンは――……俺が言うのが、一番良いんだ」
 そう微笑むベルナルドの顔はもういつもの通り、昔から同じ、俺の兄貴分の、優しい顔をしている。
 俺はもう弟分じゃねえから、その笑顔の下で、ベルナルドが様々なものを飲み込んでいることを知っている。
「なあ、ベルナルド」
 いま飲み込んでいる言葉をせめて受け取って持って行きたいと思うのは、エゴだろうか。
「あんたの話を何でも聞いてやるって言ったらどうする?」
 それでも、死んだ後では、ベルナルドの愚痴も弱音も聞くことが出来やしない。
「――死なないでくれ、ボス」
 ベルナルドの声が急に震える。
 一瞬で笑みの消えた唇が、ひどくいやだ、と子供じみた言葉を吐き出すのを、俺は、彼の頭を子供にするように撫でながら聞いていた。
 撫でた手を取られて、甲にベルナルドの唇が当たる。カポへのキス。
 一度触れて、離れた唇は、いやだ、と音にならない声で震えた。














「寒くないか」
 オンナのようにコートを肩にかけられ、グラッツェ、と俺は素直に礼を言う。ルキーノの体温を移した丈の長いコートは、俺の肩と背をすっぽり覆って暖めてくれる。
 大きな襟を引き寄せて前で合わせると、ルキーノの吸っている煙草とトワレと混ざった匂いがした。
「……ルキーノ。引きずりそうよ、この丈」
「引きずっても構わん。花嫁のヴェールのような風情を出せとも言わん、安心して引きずれ」
「このばか」
 ふざけた台詞にツッコむと、ハハ、とルキーノは軽く笑って冗談を止めた。いつもなら、俺も冗談にノって何回かふざけた文句のやり取りでもするが、何せ今は場所が場所だ。ふざけるのも、申し訳ない。
 墓地の綺麗に整えられた木々が、風に吹かれてざあっと葉擦れの音を立てた。少し冷えた空気が俺の頬を撫でて行く。
「それくらい気にするな。わざわざ来て貰ったんだ」
 ルキーノの声は、優しい。俺たちは、白い小さなふたつの墓石の前に来ていた。
 そのうちひとつの墓石を、ルキーノはしゃがみながら手袋を外した手で、撫でる。土の上なことにも構わず膝を突き、手のひらでゆっくりと。
「ジャンが来てくれたぞ、アリーチェ。パパの、ボスだ」
 何度か、この場を訪れたことはあった。時にベルナルドや、ジュリオや、イヴァンも一緒に。
 ルキーノは跪いたまま頭を伏せ、小さな墓石へ大きな体を寄せ、甘えるようにキスをする。ひとつずつ、二回。
 俺は横に屈んで、出来るだけコートの裾をずらないように片手で布地を引き上げながら、手に持っていた小さな花束をひとつずつ墓石の前へ供えた。
「グラッツェ」
「そこいらじゅう花畑に出来るような甲斐性なくてゴメン、ルキーノの娘ちゃん。そいつはパパーに頼んでちょうだい」
 俺に顔を向けながら真面目に礼を言うルキーノが照れくさくて、少しだけ冗談を混ぜると、ルキーノは楽しげに笑いながら立ち上がった。花束を置き終えた俺も立ち上がる。
 風が吹いた。
 冷えた風がまた頬を撫でて、次に、ルキーノの体に遮られて俺にまで当たらなくなる。
「ここに付き合って貰ったのはな、お前に聞いておいて欲しかったんだ。お前の部下がどういう男だったのか。ちゃんと話したことが、なかっただろ」
 ジャン、俺はな、とルキーノはひどく落ち着いた、優しい声で俺に話し出す。
「家族を守れもしなかった男だ。噂に目隠しをされて、一番信じていたはずの家族を、見失って、突き放して、そのせいで二人を失った。あいつらが死んだのは、俺のせいだ。こうして墓に詫びることしか出来ない。敵を殺すことにためらいもせん俺は、天にいるあいつらの元に行くことも、きっとない」
「ルキーノ、あんた――」
「そんなツラするな、カーヴォロ。ジャン、俺たちは――俺は外道だ。神に懺悔をしてもし切れない。だがな、それを選んだのは俺だ。元々、シャーリーンやアリーチェのところへ行けるとも思ってないさ。あいつらが心配して地獄にまで来ちまわないように、俺は笑って死ぬ。お前が死んでも俺は笑っててやる」
 からりと笑う男の物言いに、俺は目を一度瞬かせた。
「お前のために俺は笑って生きて死んでやるさ。どうだ、安心だろ?」
「ハハ、そりゃ……俺がまるで天国に行くみてえじゃん……」
「行くかもしれんぞ。何かの手違いで。何せお前はラッキードッグだからな」
「あんたたちが地獄に来るなら、俺は先にそこで待っててやるっての」
 死の先にあるものを、俺もルキーノも信じてはいないのかもしれない。そこにあるのは、人の心と想いだ。
 安心して死ねとルキーノは言っている。大丈夫だと。気に病むことは何もない。心配することなど、何もないのだと。
 ルキーノの体に風を遮られた場所で、俺はルキーノを見上げたまま、何も言えなかった。今日の薔薇色の目は、声と同じでやたらと優しい。
「真面目に聞け。二度は言ってやらん」
「なに、ルキーノ……」
「愛してる」
 あまりにもな言葉に俺は呆気に取られた。じわじわと首が熱くなって来るのは――しょうがねえ。あんまりにも直球過ぎる。
 ルキーノはぽかんと目を見開く俺に、様になったウインクを一つして、目を細めた。
「そして俺たちはお前に愛されてる。そうだろ?」
「あ――当たり前だろ、が」
「だったら最後の瞬間まで愛せよ。お前のやり方で。俺も――今度こそ、」
 一つ呼吸を置き、だが、その続きの言葉はルキーノから出て来なかった。ただ男前な顔が、優しい笑みに、少しだけ無理したような笑みに歪む。
「俺の忠誠は、ボス、お前のものだ」
 一回り大きなルキーノの手に、俺の手が持ち上げられる。お前から差し出せよボスのくせに、と笑った男は、チュ、と音を立てて俺の手の甲にキスをした。
 俺にはそれがなぜか――ルキーノがふたつの、家族の墓石へ落としたキスと、同じものに見えた。















 俺がダルイのをわかっていて、ジュリオは俺の手の届く位置にいた。背にクッションをいくつも突っ込んで身を起されているベッドの傍ら、ヤツは、ふかふかの絨毯の上に膝をつき、視線を俺より低くしている。……ハハ、お前は犬かっつーの。
 俺は手を伸ばしてジュリオの頭を撫でる。利口な犬のように、ジュリオはそっと目を伏せる。
「ジュリオ――お前、さあ」
「はい、ジャンさん」
 声を出すのが今日は疲れる。いつもの半分くらいのボリュームになってしまう声を、すぐ傍にいるジュリオはきちんと聞きとってくれた。
 耳をそばだててる気配に、俺はつい、詮無いことを呟いてしまう。
「楽しいか?」
「え……」
「幸せか? 楽しいのけ? 俺は、……俺は、さ、皆に、お前にとって」
 不出来なボスではなかったか。
 いかん、続いてる熱のせいで気が弱ってる。こういう時はろくなことを喋らねえってわかってるのに口走った俺に、ジュリオは真剣な――いつも真剣な目を向けて、わずかに首を傾げた後、静かに、だがはっくりと答える。
「俺、は、……あなたに出会えたことで、不幸になったことは、一度もない」
「……スマン、不幸せに見えるわけじゃ、ねえんだ」
「はい――あなたは……俺の太陽で、」
 ワオ。話がでっかい。
「もしあなたが陰ったとしても、俺にはあなたの光が見える。あなたは……あなたは、俺の……」
 言葉を探して少しずつ話すジュリオの目を、俺は見る。犬のように深い深い色の目を。
「俺の幸福で、運命だった。あなたの光で、俺は、色々なものが……見えた。あなたの育ったこのデイバンと言う土地、あなたが愛するもの、ベルナルド、ルキーノ、イヴァン、CR:5の……ファミーリア」
 ひじ掛けに落ちていた右手を取られた。俺の手の甲をいかにも大切そうに撫でたジュリオは、撫でた所と同じ場所に額を押し付け、顔を伏せる。続けて、手の甲に唇が触れた。
「死があなたとの間を閉ざしたとしても、あなたの光は俺に届く。……ずっと、離れていた時も、俺に届いていたから」
「ジュリオ?」
 いつの話だろうと俺が名を呼ぶが、ジュリオは顔を上げ、そっとはにかんで微笑むだけだった。
「あなたが俺の、光です。永遠に陰ることのない。いつまでもあなたの傍に、……ラッキードッグ」
 俺はあなたが悲しむことだけが恐ろしい、と呟きながら悲しげに睫毛を伏せたジュリオの額に、俺はキスを落とす。
「いンや、悲しいことなんか――なにひとつ――」
「イヴァンはあなたがいないと……悲しみます」
 ジュリオの口からそっと零された名前に、俺はビクリと肩を揺らしちまった。


















「サーカス、来てんだろ?」
 ベッドの上で、寝起き初っ端に言った俺の言葉に、欠伸をしてる最中でデカイ口を開けたイヴァンは、口を閉じるのも忘れてきょとんと目を瞬かせた。
 その間抜け面に笑ってやると、むっとして唇を必要以上に引き結ぶ。質問に答えるために開きそうにねえその口を、俺は指先でなぞって、唇の合間に指先を突っ込んで、こじ開けた。イヴァンの目が大きく見開かれ、ついでに頬がカッと赤くなる。
「っぶ、にゃにふ、う」
「イーヴァンちゃん、サ・ァ・カ・ス、来てんだろ?」
「止めろこのタコ!」
 赤くなったイヴァンに振り払われて、俺はイヴァンの唾液に濡れた指を引き戻す。カーテン越しの朝陽にてらりと光る俺の指をじっとイヴァンが見ているから、わざと俺は自分で自分の指を舐め拭った。ますます赤くなったイヴァンの肩が堪えるように震えている。
「来てるっつーの。ダウンタウンの向こうに、空き地あっただろ。移動遊園地まで来てんぜ」
「行きてえな」
「あぁ?」
「行こう、ウン、行っとくべきだと思うんだイヴァンくん。メルセデス乗せて」
「はぁ!? 何言ってんだ、オメーは!」
「その前に一発抜いてやろーな。ウン。お前、朝勃起にしちゃ起きてから時間経ち過ぎてんだろ」
「はぁあああああ!?」
 シーツの中でごそごそと手探り、イヴァンの股間を掴みながら、俺はさっき舐めた自分の指を、もう一度、見せ付けるように舐めた。








「いやー盛況だったねえ、不景気っつってもデイバンはまだマシだわこりゃ」
 サーカスのテントから白いメルセデスへぶらぶらと戻る俺たちを、赤い夕日が染めている。夕日って言うか、紫混じりでもう夜になりそうだ。今日最後のショータイムを見られて満足した俺の横で、イヴァンはどうも満足しない面をしている。
「ファっク。隣町で評判のホットドッグ屋が来てるっつうから楽しみにしてみりゃ、売り切れかよ……」
「そりゃこの時間だからネ。つうか、着くのが夕方になったのは、お前が何回も、……るから、だろ、このボケ。俺がもうだめだっつった時にイヴァンが止めてたら、昼には着いてたっつーの」
 うぐ、と詰まって黙るイヴァンの肩に、俺は自分の肩を軽くぶつける。歩きながらイヴァンも俺に肩をぶつけ返す。ガキ同士のじゃれ方だ。俺はそれが楽しくて、笑った。
「おい、ジャン」
「なんだよ、イヴァン」
「また来るぞ」
「ああ」
「おい、フカシてんじゃねーぞ」
「このバカイヴァン。てめーが言ったんだろ、信じろ、このボケ!」
 笑って背中をどつく。イヴァンは少しだけ訝しげな顔をしてから、すぐに嬉しそうに、おう、と笑う。
 ああ、こいつの笑った顔可愛いなあ。
 好きだ。
「次はホットドッグ食うぞ」
 メルセデスに乗り込み、エンジンをかけながらイヴァンが言う。
「次はぜってー朝イチで来てやる」
「へいへい。朝イチでお前が盛らなかったら無事俺ら朝イチでサーカスに着くだろな」
「うっせえ!」
「イヴァンちゃーん」
「るっせえ、なんだよ」
「愛してるぜ」
 ――途端に、メルセデスがひどい蛇行運転をした。左右に振られて俺は横の窓ガラスに頭の右側をしたたかにぶつける。イヴァンの一瞬の、ファック、と言う呻き声とクラクションが被さり、時間にしてほんの一、二秒の間にメルセデスは無事体勢を立て直した。
「イヴァンちゃん!? ママ、もうちょっと生きてたいの! 乱暴な運転はやめてちょうだい!」
「テメーが変なこと言い出すからだろが!」
 何もしていないのにイヴァンがぜえはあと肩で息をして、真っ赤な顔でハンドルを握っている。ファック、シットを撒き散らしながら運転しているイヴァンの横顔を、俺はひどく幸福な気持ちで眺めて、それから、ちょっと疲れた体をシートに深く埋めた。
「なあ、イヴァン」
「あ?」
「楽しかったぜ」
「――俺もだ」


















 じゃあ、また。















〜2010.07.09.了




































 ――あんたが心配よ、ダーリン。無理しないで。
 ……マジな話だぜ。あんたは悲しんでくれちゃうからなあ……――



 そう笑ったジャンの顔を、白い墓石の表面に思い出しながら、花を添える。春の日差しに満ちた高台は、素晴らしく美しい世界に見えた。
「俺は大丈夫だ。ジャン――お前とは」
 視線が少し遠く、懐かしむように、ひどく優しくなる。
「何かを嘆くような出会いじゃ、ない」
 淡い色の睫毛を伏せ、ベルナルドはそっと微笑んだ。
 風が柔らかく吹き付ける。明るい日差しの中で、その風は金色の光をまとってベルナルドの頬を撫でた。