臆病者の夢




夢を見た。これが良い夢か悪い夢か、夢の行く先をコントロール出来るわけではないのでわからないが、ジャンが出て来たのでとりあえず良い夢であると思おう。夢の始まり、俺はリトルイタリーの路地裏から雨の降る空を見上げていた。体は雨に打たれ、じわじわと水が仕込みこんで来て、冷たい。暗いねずみ色の空と、俺との間に、ふと金色の光が挟まった。俺の世界は一瞬で色づく。その金色の光は、ジャンの金髪だった。背に天使の羽か小悪魔の羽でも生えているんじゃないかと思ったが、夢の中だと言うのに、それは叶わず、ジャンは普通の、いつも通りの……正確に言えば、数年前のジャンだった。俺と出会い、CR:5の下っ端の、チンピラだった頃のジャンだった。着込んだシャツはくたびれているが、若さがひたすら眩しい、若い男だった。笑ったジャンの顔を見上げていると、彼の手が、地面から見上げている俺に伸びて来る。そして、様子を窺うように手前で止まる。俺は黙ってジャンの目を見つめてから、そっと、差しのべられた指先へ顔を寄せる。そうすると、その手はようやく俺に触れた。ジャンの手のひらが俺の頭を撫でる。俺のぴんと立った耳を寝かせるように優しく、後ろへ。耳。そう、俺には自覚している場所とは違う位置に耳があった。もっと言えば、もっとと言うか全体的に説明すると、大型犬に属するような犬だった。少し毛足の長い、癖のある毛並みに、ぴんと立った耳の、細身の犬だ。俺の意識を持つ犬は、ジャンの手のひらに寄って、ぺろ、と小さく嘗めた。ジャンがいることが嬉しい。そんな気持ちが、自然と俺の尻尾を揺らす。ジャンは笑って、来いよ、と俺を招いた。俺はその呼びかけに応じて、雨の中歩きだすジャンを追って歩く。一人と一匹分の、雨水のたまった道を歩く足音が、雨音の中に混ざった。そうして俺はジャンの犬になった。ジャンのアパートは昔、何度か行った場所だった。これは俺の夢の中で、俺の記憶を元にしているのだから、妥当な場所だろう。ジャンと暮らし始めたが、俺は犬だから、声は出せない。愛しているとも言えない。だが俺がじっと見つめるとジャンは気付き、なんだよう、と笑って視線を合わせてくれる。こちらに伸ばされた手のひらに、そっと鼻先をすり寄せると、言葉にしなくとも何かが伝わるようだった。ジャンに撫でられたとき。ジャンに頬ずりをしたとき。呼びかけに振り返るとき。風呂場で洗われ、外から帰って来た時に足を拭かれ、食事を分けあい、一緒に眠るとき。ふと物思いにふけるジャンの膝にさりげなく顎を置いてあたためたとき。怪我をして帰って来たジャンの傷を嘗めたとき。寒い日に彼のぬくもりになるよう寄りそったとき。言葉ではないものがジャンとの間に積み重なって行く。俺は愛していると囁けない。それでも、ジャンを愛していることを、あいつは知っていて、俺もジャンが俺を──愛してくれていると、知っていた。






 ──さて、長い夢だった。
 最後には夢だと言うことも忘れていたせいで、俺は、目が覚めてからしばらくぼうっと天井を見つめてしまい、ジャンの、「ベルナルド?」と呼びかける声で、ようやく現実がどちらかを把握出来た。
 天井と俺との間に、ひょい、と乗り出して来たジャンの顔が挟まる。夢の中のジャンより、現実のジャンの方が金髪が眩しい。
 ジャン──俺は彼の名を呼ぼうとしたが、なぜか、喉から出たのか掠れた吐息だけだ。
「なーに変な顔してんのけ? ああ、寝ぼけてんの。無理して声出さなくていいさ。喉が腫れて声出ねーってドクターの診断だったの、覚えてっか?」
 いいや。と声に出そうとして失敗し、首を横に振る。ジャンは、だから無理して声出すなって、と笑って、俺に手を差し伸べた。俺は、夢の中のように、躊躇わずその手に頬を寄せる。ジャンは俺の素直さに少し驚いたようだったが、ゆるりと頬を撫でてくれた。
 顔を横へ向け、ジャンの手のひらに唇を押しあてて、ジャン、と唇の動きだけで囁く。なんだよう、とくすぐったそうなジャンの言葉に、俺は、首をまた横に振った。なんでもないよ、ジャン。
「安心して寝てろよ」
 ジャンの声で俺はまた眠りに落ちる。
 凄いな、眠りの粉でも撒かれたようだ。ジャン、おまえ、魔法使いか何かか? 他愛もない思考が深い暗い、だが、恐ろしくはない眠りの中に沈んで行く。
 たとえ声が出なくなろうとも、もう恐ろしくはない。ジャンは俺の気持ちを知っているし、愛していると言わなくても伝わるものはある。
 こんな俺のことを、馬鹿らしいと他人は──ジャンすらも笑うかもしれないが、俺は、どうにも臆病者でね。



2011.12.06.