3600秒の恋人




 はあっと肺の中の空気を吐き出すと、ジャンの顔の前は、真っ白に濁った。
「ワオ、もうすぐ雪降るんじゃねえ?」
 寒い季節のデイバン市は、晴れた日の昼間でもだいぶ冷え込む。吐いた息が真っ白になる様子は、デイバンで生まれ育ったジャンにとって、幼い頃から毎年見続けてきた、何の変哲も面白みもないはずの光景だ。
 それを、子供のようにじっと見上げるジャンの姿を見ながら、ベルナルドは唇を引き結ぶ。――笑うのを堪えようとする仕草だった。
「なーんだよ、ベルナルドおじさん」
 笑いそうになっている幹部筆頭を、ジャンがわざとらしく拗ねた声で咎めると、コートに包まれた彼の肩は、少しだけ狭められる。
「いやいや……我らがキングの無邪気な姿に、見惚れていただけさ」
 笑いそうになったことがバレたのを知った後のベルナルドは、ニヤつくのを隠しもしない唇で、そんなことを言う。
 ジャンはそんなベルナルドのわき腹を、コンニャロ、と拳でぐいぐいと突いた。身長差のぶん見上げたベルナルドの口元は相変わらずやに下がっていたが、ジャンを見つめる目は、穏やかに優しい。それが照れくさくてジャンは、もう一度、ベルナルドのわき腹を突く。
「やだわ、ダーリンったら。真っ昼間からニヤニヤしやがって。……寒くなったな、って言っただっての」

 ──シカゴの大きな組織がひとつ、この夏に代替わりとなった。

 CR:5にひそひそと敵意を持っていたトップが替わり、今度のボスは先代の息子で、若く、過去の怨恨を持たない。そして、着実に組織の土台を強くしているCR:5への評価の目は冷静だった。彼は父親を黙らせ、ジャンと話し合いの場を持ち、今後の不可侵協定を結ぶこととなった。その協定の開始日は明後日だ。
 つまり、明後日までの間に、そのことに不満を持っている連中が思いつめて何をするかわからないなどと言う面倒なことになっている。
 重要な食事会や会議などにはジュリオを同席させ、それ以外は延々と本部に詰めて、すでに一ヶ月が過ぎている。こうして大きく窓を開いて外の気温を感じるのすら、一週間以上振りだった。
 その間に季節の変わり目があったらしい。ジャンの知らないうちに気温は随分と低くなったようだ。
 大きく開いた窓から入り込む空気が、さきほどまで暖かかった部屋を、吐く息が白くなるほどに冷やしている。露出した頬や指先が、ぴりぴりと引きつるように冷えて来た。室内なのにコートを着込み、マフラーまでぐるぐる首に巻き付けた格好で、ジャンとベルナルドは、カポの執務室にいる。
 靴底が踏むのは、固い土ではない。泥もついていない、分厚い毛織物の絨毯だ。
 それは仕事の合間、昼食用の一時間の休憩を利用した、CR:5カポと幹部筆頭による、滑稽かつ愉快なピクニックだった。
「──さて──それでは、昼めしにしようか、ジャン? ちゃんと銀行からの帰り道で、土産を買って来たよ」
「ワオワオワーオ。楽しみだわ、ダーリン」
 テーブルの上に乗った紙袋の軍団に向け、大袈裟に両腕を広げて言うベルナルドに、ジャンも大袈裟に浮かれてみせる。
 その浮かれっぷりがたいして大袈裟でもない程度に、ジャンはわくわくとしていた。子供の頃に孤児院で、月に一度の合同誕生日に出て来るドーナツやクッキーを待つ時のような気分だ。
「CR:5カポと幹部筆頭による屋内ピクニック」などと言うと、ピクニックと名のついた何らかの会議で、テーブルの上にはドル札の束や麻薬でも出て来そうなものだが、健全な、きちんと代金を支払った食料しか並ばない。
「本当は、一緒に行って出来立てを食うのが屋台の醍醐味だと思うんだが……すまないな、ジャン」
「しょうがねえ。銃弾の通り雨に降られるわけにはいかねえしなあ」
 紙袋から出て来た瓶ビールに、ワオ、と小さな歓声を上げつつ、ジャンは、すまなさそうに言うベルナルドの肩をぽんぽんと労りをこめて叩いた。本部に詰めているジャン以外の幹部とて、安穏と過ごしているわけではないのだ。
「前に招待されたディナーの……めしの前にジュリオがさあ、全て自分が先に口をつけるからそれまでジャンさんは食べないでください──って言う有様でさ。ジュリオが何食うかコッソリ見て、食った品だけ俺も食べて……ろくに食った気がしねー。ジュリオもだろうな。あとであいつにもなんか食い物、届けてやってくれよ」
「ああ、そうするさ。あいつなら甘いもの、かな」
「いいねえ。とびきり美味い飴ちゃんでも買ってきてあげてちょ。俺も、しあさってになったら、スタンドで飴でもガムでも買って来てやれんだけどなあ……」
 ついそうしんみり零してしまったが、言っていても仕方がない、とジャンは気分を切り替えて、テーブルの上に置かれた白いスープ、クラムチャウダーの器を手に取った。
 クラムチャウダーが入っているのは、その場で飲んで屋台へ返すはずのマグカップだ。カップごと買って来たのか、と、ベルナルドがシチュエーションに凝る性質だったことを思い出してジャンはつい笑ってしまった。
 ジャンの部屋へ来る前にキッチンで温め直したらしく、とろみのあるスープは火傷しそうに熱い。ふうふうと息を吹きかけ、舌先が焼けないよう気をつけながら熱いスープをすすり、味わい、それに関連した記憶を探る。


 銀行通りから裏手に入ったところ、屋台通りに、その店はあった。
 移動式の店先の、大きな寸胴鍋でスープはゆっくりと冷めない程度に煮込まれていて、真っ白な湯気が立ち上る鍋の裏手では、客の飲み終わったカップを冷たい流水で洗っている。真夏のような湯気の暑さと、真冬の水の冷たさが、一か所の屋台に集まっていた。
 周辺に漂う香りは、クラムチャウダーの魚介のダシ以外に、嗅ぎ慣れないスパイスの香りもする。
 その、ベルナルドが気に入りのストリートに並ぶ屋台は、デイバン随一と言っていいほどの多国籍だ。すぐ横でチキンの入ったヌードルを売っているし、シナモン香るホットワインの屋台も見える。
 自分が育った街だ、と、ジャンは思う。リトルイタリーとはまるきり様子の違う地区だが、自分の育ったデイバンだ。ベルナルドが耳をそばだて、ルキーノが知られた顔を見せて歩き、イヴァンが真っ白いメルセデスを走らせ、ジュリオが守護を担う、CR:5のシマ、デイバンの市。

 ベルナルドと共に歩き、思い出を共有する、ジャンの故郷。

 ジャンたちはこの町から搾取し、この町を他のマフィアから守り、この町で死ぬ。


「この前あんたが言ってた、美味いピッツァの店は?」
 クラムチャウダーの後味を瓶ビールの中身で洗い流しながら尋ねる。
「あの店なら、そこの通りの一本奥、屋台じゃない小さい店があってな。石窯が置いてあるよ。今度行ってみるか?」
「いいのけ? 今回のことが終わってもさ、月末だとか季節の変わり目だとか記念行事だとか決算だとかで色々と世間は難癖つけるみてえに俺たちを働かせようとするじゃんか、働き者のマフィアの俺らに、オヤスミある?」
「もちろん。おまえのダーリンは、正々堂々と脱獄する手伝いも出来るってことを教えてやろう。たまにはとらわれのお姫様を助けるナイト気分を味わうのも、悪くないしね」
「誰がお姫様だ。ながーい髪の代わりに、窓の外へ電話線垂らしとくか?」
「フハハ。我らがラプンツェルの寝室へ、電話線伝いに登るには、本部のセキュリティが厳しすぎるな。普通にドアを開けておくれ、ハニー」
 ふざけた台詞と一緒に、ベルナルドが摘まんだチョコレートのかけらに唇がノックされる。あ、の形にジャンが口を開くと、チョコレートが差し込まれた。ココアパウダーのまぶされたチョコレートは、ジャンの口の端を少し汚しながら口の中におさまった。
 ベルナルドの親指が、待ち構えていたかのようにジャンの唇の端を拭う。ジャンの口を拭った指は、ベルナルドの舌が拭う。
 ぺろ、と、わざとジャンと視線を合わせたまま自分の指を舐めるベルナルドの仕草に、ジャンは小さく肩を狭めて、背にわずかに走ったゾクリとした性感を受け流す。
「……いちいちやらしいよなあ、このおじちゃんは」
「せっかくなんだ、外じゃ出来ないデートをしてみようと……思ってね。どう?」
「ン、む」
 もごもご口を動かし、チョコレートを嘗め溶かす。口の中に甘く苦い濃い後味だけが残るようになってから、ジャンは、一言。
「エロおやじ」
「お前が魅力的すぎるからさ、ハニー」
「裁判で言ったら負けるぜ、そのセリフ」
「ジャンになら執行猶予なしでとらわれたいね」
「口が減らねえよなあ、あんた……」
 言い合いながら、ジャンはプラリーネを摘んで、ベルナルドの口に運んでやる。あー、と迷いなく開いた口に砂糖衣のアーモンドを入れて、自分はビールの残りをあおった。他にもパンやカンノーリなど、片手で食べられるようなものが紙袋から出されているが、ベルナルドのような胃袋の小ささではないジャンでも、一食で食べ切れない量だ。ずいぶんと買い込んできたものだと感心する。
「ずいぶん気合入ったピクニックじゃんか。ベルナルド、そういや、こういうのって外ででもやったことねえべ」
「ジャンが、一時間だけでも本当にピクニックに行っている気分になれば……と、思ったのさ。フ、ハハ、マフィアのボスにピクニック気分を味わせたいと真剣に考える幹部筆頭なんか、コメディにもならないか」
「いいんじゃねえの、バカ二人。俺たちらしくて」
「俺は、こんなことしかしてやれないからな」
「ハハッ……なに言ってんだか、このおじちゃんは」
 割と深刻そうに言ったベルナルドを、ジャンは笑い飛ばす。
 「こんなことしか」など、CR:5のために惜しまず働くと評判の男が言うと、まったくの笑い話だ。ベルナルドはどれだけワーカホリックなのかとジャンは笑いながら、そして、自分のためにどこまでも与えようとしているベルナルドを思い知る。
「あんたは山ほど俺に……組に、してくれてるさ」
 気づけよ、と思いをこめて、ジャンはベルナルドに顔を寄せ、額を重ねる。子供のような仕草に恥ずかしさがこみ上げるが、赤くなりそうな頬は冷えた気温がすぐに冷ましてくれるので、ジャンは、そのまま額を合わせていた。ベルナルドの伏せた睫が、間近すぎてブレて見えづらい。
「なあ、あと何分?」
「五分」
「五分かよ。一時間なんてすぐだな、クソ」
「フフ。それには深く、同意する……仕事が終わるまでも、すぐさ。きっとな」
「ああ、頑張るわ。ありがとな、ベルナルド」
 礼を言うと、いつもプレーゴと返ってくる。今回もてっきりそう帰ってくるものだと思っていたのだが、ジャンがいくら待っても、想像していた言葉は返ってこない。
「ベルナルド?」
 どうかしたのけ、と顔を離して首を捻るジャンを、ベルナルドはうっとりといとしいものを見る目で、見ていて、そして、囁いた。
「愛してるよ、ジャン──こういうことを口にするのも、外のピクニックだと出来ないだろう?」
「……ったく、困ったダーリンだこと。そうやって仕事終わるまで焦らそうとするの、やめろよう」
「誤解さ、ハニー」
 様式美のような言い合いをして、甘ったるいキスをする。もしかして、ピクニックって言うよりもデートっつーんじゃねえのか、これ、と、ジャンは考えながら、砂糖衣の味を探すべく、ベルナルドの口の中に舌をしのばせた。
 あと三分間のピクニックを満喫するために。





2011.06.13.